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◆読書日記.《京極夏彦『巷説百物語』》

※本稿は某SNSに2022年5月14日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 京極夏彦『巷説百物語』読了。

京極夏彦『巷説百物語』 角川書店

 ご存じベストセラー作家・京極夏彦による、江戸時代は桃山人の手による『絵本百物語』を下地にした時代小説。
 本作は短編集で、後にシリーズ化していく事となるが、同シリーズにて直木賞、柴田錬三郎賞、吉川英治文学賞を受賞するという一定の評価を得たシリーズである。


<あらすじ>

 本作には7つの「怪異」が出てくる。
 いずれも何かの言い伝えにある「妖怪」の仕業としか思えないような、現実的にはありえない怪異によって、今まで市井の人間たちの中に紛れて悪事を働いていた者たちにその報いが訪れるのである……その「報い」の正体とは?小豆洗いは、舞首は、柳女は何故現れるのか?……というお話。


<感想>

 ちなみに、この「何故」に関しては何故かAMAZONや「読者メーター」などのレビューサイトに投稿されているレビューで、そのからくりが易々とネタバレされているので、ぼくも今回はネタバレさせてもらおう。

 因みに、ネタバレされたからと言って面白さが半減する事がないようなものを「ネタバレ」とは言わない。元々「解説」や「批評」というものはネタバレを含むものだ。

 例えばそれが推理小説の犯人やトリックがバラされるような「物語の中でも、最も重要な、最も面白くておいしいアイデアの要となる部分をバラされる」や「サプライズ・エンディングの結末をバラされる」といった場合は、エチケットとして「ネタバレ」表記はするべきだろう。

 だが、本書はそれには当たらないと考える。

 しかし、全くの「素の状態」で読みたいという方もいるであろうから(そういう人の場合は他人の「批評」など読まないほうがよかろう)一応、――

 《以下、一部本書の内容についてネタバレを含みます》

 と断っておこう。「ネタバレ」と言ったって、本作の「物語構造」についての事で、個々の重要なアイデアをバラす訳ではないのでご安心を。


◆◆◆

 前置きが長くなってしまったが、本書の「からくり」は非常に単純である。冒頭に挙げた「あらすじ」に書いたように「妖怪の仕業としか思えない怪異」というのは、何者かが仕込んだトリックなのである。

 この物語は「怪談」に見せかけて悪を懲らしめる勧善懲悪のヒーロー小説だったのである。

 ウィキによる概要を引用しよう――「舞台は江戸時代末期の天保年間。晴らせぬ恨み、あちら立てればこちらの立たぬ困難な問題を金で請け負い、妖怪になぞらえて解決する小悪党たちの活躍を描く」というのが、本書に出てくる「怪異」の「からくり」である。
 なので、本作は「怪談」とは全く雰囲気からして違うのである。

 この「小悪党ら」というのは御行の又市、女傀儡師のおぎん、放下師の徳次郎などなど――と、見て分かる通り、いずれも全国を巡る遊行人の類。彼らが全国を巡っている間に見聞した人々の悩み――誰それが山賊に襲われて殺された、娘が乱暴者に手籠めにされ自殺した等々――を解決するのである。

 そして、全国を巡って怪談を聞いて回り、百物語を開版したいと考えている戯作者死亡の山岡百介がこれらの一味に加わるから「怪談」の様式が揃うという道具立てである。

 本作で出てくる「悪事」はいずれも身分の高い者や腕力が強すぎて誰も文句が言えないような剛の者であったりと、悪を成しても庶民や公の力で裁く事のできない者たちばかりである。

 そういった者たちを、「怪異」のように見せかけたトリックを仕掛ける事によって成敗するのが、本作に出てくる「小悪党一味」の仕事なのである。

 いわば『水戸黄門』や『必殺仕事人』のような金で人々の恨みを請け負う勧善懲悪もののヒーローを描いているのである。

 何故「怪異」に見立てて成敗するのか? 当時はまだ迷信が世にまかり通っていた時代である。

 だからこそ、何かしら悪党が奇妙な死に方をしても「狐が化かしたのだ」「これは神仏を疎かにした罰が当たったのだ」という「説明」が付いてしまえば、それで事態は収まってしまうのである。

 そういった当時の人々の「迷信」を逆手にとって怪異に見せかけた解決方法をとる。

 ぼくは本書を読んで、京極夏彦が推理小説の手法を応用して物語を書いていると感じた。
 それは、この物語が腕力が強い悪党や身分の高い悪党など、庶民が太刀打ちできない「悪」に対して、「暴力」ではなく「知恵」によって悪を倒そうと考えるヒーローを描いた――つまり推理小説の名探偵と同じく「知恵によって悪を打ち倒す啓蒙主義時代の英雄像」と同じタイプのヒーローだからである。

 科学を信じる「モダニズム」のヒーローは「理性の光で迷信の闇を照らし出す」啓蒙主義の時代の最大の武器である「知恵」を使う事によって悪を滅ぼす新たなタイプのヒーローなのだ。
 だから、本作は殺しの技で悪人を成敗する『必殺仕事人』タイプのヒーロー像とは明らかに一線を画す。

 まだ迷信が蔓延している時代を舞台にしているからこそ、その時代には先進的すぎる「啓蒙主義的な知性」を持ち合わせた本作の「小悪党」たちは、時代を超越した「能力」を持っているも同然なのである。

 要するに、これは京極夏彦が作り出す、新たな勧善懲悪の時代劇なのである。

◆◆◆

 本作に出てくる「怪異」を桃山人の『絵本百物語』に出てくる妖怪になぞらえているのは、これは京極夏彦お得意のテーゼであろう。

 妖怪は非科学的なオバケというのではなく、説明のつかない怪奇現象が起こった時に人々が「名づけ」をする事で成立する、ある種の「説明体系」なのだ――というのがそれである。

 人間と言うものは、分からない、理解できない事が起こった場合、それを「分からないまま」そのままにして気にしないでいられる事ができないのである。
 人間にとって身近に「理解できない事」が存在しているという事は、それはそのまま「ストレス」であり、同時に「恐怖」なのだ。

 だからこそ、例えば「人里離れた谷川で、人もいないのに小豆を洗う音がする」という怪現象の特徴を称して「小豆洗い」と「名指し」するのである。
 それによって一先ず「何だか正体不明の音」の正体は「小豆洗い」の仕業――という事にして落ち着くのだ。

 本書の主役たる「小悪党」らは、このような迷信蔓延る時代の特徴を逆手に取る事によって、様々な悪事を働く連中を懲らしめるのに大芝居を打って出て、人々に「あの者が不幸な目にあったのは、普段行っていた悪行の罰をうけたんだな」という風に見せかけるのである。

 これが「新たな勧善懲悪の芝居」のシステムとなるのだ。

◆◆◆

 ――しかし、そうかと言ってぼくは、必ずしも本作を絶賛するというほどまでにはいかなかった。

 予定調和的に勧善懲悪のストーリーを繰り返す『水戸黄門』がどこかリアリティを感じないように、本書もどこかリアリティの底がスコンと抜けているように感じられるのだ。

 確かに本書の物語構成は巧緻で良く出来ている。だが、――いわば「出来すぎ」「作りすぎ」の感があるのだ。

 いかにも『水戸黄門』のような大衆受けするエンタテイメントの「新たな定型」を作ろうとしているのではないかと思わせられるほど「作り物」感が強いのである。

 これは物語の作り方がシステマティックすぎるからこその「作り物」感なのだろうと思う。

 ここで京極夏彦が試みようとしている事は、この物語にいくつかのルールを定めて、それをシステマティックに達成する事なのではないかと思うのである。

 京極夏彦が本作に課しているルールとは――

 1)現実には起こりえない超常現象は発生させない事。
 2)本作で起こった事件はいずれも勧善懲悪の物語になる事。
 3)本作で起こった事件が人々に語り継がれる場合、表向きには桃山人『絵本百物語』に出てくる妖怪の伝承が成立するような形になるよう、事件を作り上げる事。

 ――といった所であろう。

 ルールの「3」を見ても分かる通り、これは同じ京極の「百鬼夜行シリーズ」と同じく「妖怪」を現実的な「現象」として合理的に成立させようという、京極夏彦言う所の「妖怪小説」の一つだったのである。

 京極夏彦は推理小説から作家としてのキャリアをスタートさせたためか、本書でも推理小説的な手法を利用しているようである。
 ――あるいは、「啓蒙主義的物語構造」を持った推理小説だからこそ、本作のような小説を作るためには推理小説的な手法が使いやすかったのかもしれない。

 「推理小説的な手法」とはつまり、本書では毎回「怪奇現象」が起こった後に、主人公たる「小悪党」らが、名探偵よろしく「種明かし」をする――というのがそれにあたる。
 本書では――迷信にある妖怪みたいに見えるだろう?それはおれたちが〇〇をやったからなんだ――とトリックを明かす事で大団円となる。

 これは推理小説というより、むしろコン・ゲーム(詐欺)小説に近い発想だろう。
 怪談にコン・ゲーム的な要素を取り入れた新たな時代小説――それが、本作『巷説百物語』なのかもしれない。

 しかし、このように全く同じストーリー・ラインで進む話が繰り返されるからこそシステマティックな「作り物」に思えてしまう。

 そして、それぞれの話に出てくる「小悪党」らの大規模な「仕掛け」が、そこここで「そんなに巧く行くかなあ?」というように思えてしまうのである。

 本作の悪役どもは、毎回のように小悪党らに仕掛けられた罠に面白い様にすっぽりと騙される。

 例えば、本書の一編「小豆洗い」に出てくる悪役なども「そんな事であんなに取り乱すものかな?」と思わなくもない。

 物語がシステマティックな上に、主人公の仕掛けた罠が巧く行きすぎる。

 だからどうも、ぼくなんかは「出来すぎ」「作りすぎ」と思えてしまうのである。「面白くない」とは思わないのだが。

 また、本作に出てくる悪役なども、どこか定型じみている。

 本作に出てくる悪役は、全て「切りたくて仕方ない」とか「奪いたくて仕方ない」という、己の欲望を抑えきれないという人物像に集約されるようなのである。
 『水戸黄門』タイプの勧善懲悪ものの物語の常として「悪役は"同情の余地のないほどの悪党"である」という典型的な人物像なのである。

 そのほうが、この手の物語には「物語上」の都合がよいのだ。

 例えば悪役が、同情の余地のある「完全には悪党とまで言えない人」であると、成敗したときのカタルシスが削がれてしまう。
 だから、読者の「ざまぁみろ!」「あー、すっとした!」……という爽快感を醸し出すためには、懲らしめられる悪役は、同情の余地もないほどの悪役が最もふさわしいのである。

 こういった「勧善懲悪の物語に出てくる定型的な悪役」が毎回出てくる所も、どこかこの物語を「フィクション然」とさせてしまっているように感じる。

 今回の京極夏彦は、ぼくにはどこか「文学」というよりかは「エンタテイメント」に徹しきっているように思えるのである。
 そこを素直に受け入れる事ができるかできないかが――この物語の評価の分かれ目になるのではないだろうか。


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