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◆読書日記.《原田実『偽書が揺るがせた日本史』》

※本稿は某SNSに2020年7月2~4日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 原田実『偽書が揺るがせた日本史』読了。

原田実『偽書が揺るがせた日本史』

「偽書」というのは「こんな歴史的資料が見つかった!」とか「本物の機密文書だ」といった触れ込みで扱われるニセモノ文書・書籍のこと。
 本書では主に日本で出回ったこの手の「偽書」がどのようなもので、どのように日本史に影響を与えてきたのかを紹介する一冊。

 著者は在野の歴史研究家で、専門は偽史と偽書。
「と学会」の会員というのが、ちょっと気になる所ではあったが……内容は初耳のものも多く、概ね面白かった。

 自分は歴史学についてはさほど明るくないので色々と勉強になった部分もあった。本書で著者が参考にしているのはほとんどが20世紀以降に出版された文献。その内容を整理して紹介しているのが本書となっている。つまり一次資料にはあたっていないという事だろう。

 ただ、「安楽椅子探偵」とは言え、参考としている著書は非情に膨大なものなので、これも立派な研究と言えるだろう。

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 本書の形式は30章にテーマを分けて1章ずつ日本を騒がせた「偽書」の内容を紹介していくスタイル。

 さほど深い分析や深い考え方が披露されるわけでもなく、1章1章「偽書」の内容を紹介していき、時おりそれらの偽書の特徴や思想的背景を偽書研究者の著書などの考え方を紹介しながら概説していく。
 そして最後はそれら「偽書」を今後どう扱っていくか、最近の「偽書を歴史資料/文化的資料として扱う動き」を紹介して本書を締めくくっている。

 そこでも指摘されている「なぜ偽書は作られるのか?」という「偽書」の歴史的精神史としての扱いが、ぼくとしては本書で最も面白く読めた部分だった。

「偽書」というのは日本ではけっこう古くからあって、中世思想史の佐藤弘夫によれば中世日本の偽書は偽作の動機が家や族、何等かの組織の復権など集団の運動に益するために行われる傾向があり、近世になるとそれが個人の内的衝動の発露であり、世俗的な理由が主なものとなる傾向があるとしているのだそうだ。

 著者によれば「院政期が日本の上層社会において家業・家格の固定化による秩序の形成が進んだ時代とすれば、中世はその再編が繰り返された時代、近世は徳川幕府の下でようやくその秩序が安定した時代とみなすことができる」という。

 中世的な偽書とは、そういった家業・家格の再編成の時代にあって、自らの所属する集団の権威を上げるために作られたものが多かったというのだ。
 それに対して近代以降の偽書は、そういった家格が固定化している状況の中で、そこから逸脱したい個人の強烈な欲望から発する社会への対抗心があるのではないかとの事。

 注目すべきは、そういった偽書の中には荒唐無稽なものばかりではなく、かつて教科書や有力な文献資料などにも採用されたものの中にも偽書の可能性のあるものが含まれているという事だ。

 例えば「東照宮御遺訓」という、歴史的人物の名言を扱った書籍や雑誌には必ず取り上げられると言われる文章があるそうだが、これは既にニセモノだったという事が判明している。
 他にも空海の主要著書として有名な『三教指帰』もニセモノだったと分かっている。
『三教指帰』は岩波文庫や中公クラシックス、角川ソフィア文庫等にも収められている有名な作品だったのだが、これは後に、高野山真言宗布教研究所の米田弘仁氏が論文でこの『三教指帰』は空海思想を追っていくとお粗末な点がある事から偽作だと指摘し、また大谷大学名誉教授の河内昭圓も空海作としてはありえない箇所をいくつも指摘してこれを偽作だと結論付けているのだそうだ。

「えっ、そうなんだ!?」と思ったのは、有名な墨俣一夜城の伝説もアヤシイという事だった。
「墨俣一夜城」というのは、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が出世するきっかけとなった言い伝えで、永禄9年(1566年)に藤吉郎が長良川西岸の墨俣の地に僅かな期間で築城して見せて織田信長を驚かせたというものであるが、この言い伝えが初めて記録に現れたのは江戸時代の戯作者・武内確斎の「戯作」だったという。
 1797年に武内確斎が著した『絵本太閤記』に書かれたのが初で、そこで語られている「築城」というのは、できかけの壁に銃眼を描いた紙を貼って一夜のうちに城を完成させたように見せかけたという荒唐無稽なお話だったのだという。

 また、現在再築された墨俣城が建てたれている岐阜県大垣市が「墨俣一夜城に関する重要な資料」としている「前野家文書」についても現在では疑問が相次いでいる。
 例えば明治以降に改名された地名が既に天正期の地名として出てきたいたり、江戸時代以降に日本本土に広まったはずのサツマイモが戦国時代の食料として出てきたり、と歴史的に整合性の合わない記述があるのだそうだ。

 現在、大垣市の公園内に建てれて見事な天守閣を見せている墨俣城は、既に地元の地域ナショナリズムの象徴となってしまっている。
 これら大垣市の「歴史遺産」の維持のためにも、「前野家文書」のような歴史資料として極めて疑わしいものであっても、当分はその「権威」が揺らぐことはないのではなかろうか。

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 さて、最も有名な偽書と言えば『シオンの議定書』だが、これは「ユダヤ人が世界各国を混乱に陥れさせ、ユダヤ王国復興を促し、ユダヤの世界征服を果たすための計画書」という内容だったらしい。

 勿論これは有名な陰謀論を捏造した文書なのだが、でっちあげたのが何者でどういう意図があったのかは特定できないのだそうだ。

 こんなデッチアゲの文書でも拡散力は凄かったそうで、20世紀初頭にこれがたちまち欧米諸国に拡散して果てはナチスのユダヤ政策の根拠に用いられるに至ったという。

『シオンの議定書』は戦前の日本にも上陸していて『世界革命之裏面』『猶太民族の大陰謀』『世界の正体と猶太人』等の反ユダヤ本が世に出ていた。

 アメリカの有名な自動車王ヘンリー・フォードは、1920年に彼が所有していた新聞社に『シオンの議定書』の英訳を連載し始め、同年その英訳を出版した事で広く世界に拡散していったという。国家主義者だったフォードは、ユダヤ人という人種に不信感を隠そうとしなかったと言われている。

 国家主義者、国粋主義者、民族主義者といった類の人たちにとってみれば、国を持たずに全世界の国家に散らばって各国で高い業績を上げて、国家的な統制を越えて活動するユダヤ民族という人種は「うさん臭い」と思うのだそうだ。
 フォードはドイツの「外国人」として、初めてナチスに資金援助までしていたという。

 この手の反ユダヤ主義的な人物は「他所の人種が何故ウチの国や他の国に寄生して金儲けしてデカイ顔してるんだ!?」といった感覚でいたのかもしれない。

 こういった「偽りの書籍」を作ってまで歴史修正を行おうとする者と言うのは昔から後を絶たなかったのだ。

 それはいま現在の日本の状況も変わりない。
 著者も指摘している事だが、この「偽書」の考え方は現代ではインターネットに舞台を移してフェイクニュースやデマといった形に姿を変えて生き続けている。

 本書では一田和樹の『フェイクニュース――新しい戦略的戦争兵器』を引用して「すでにフェイクニュース発信は組織的な世論操作の手段として確立しており、各国の現政権維持のため、あるいは国家間の情報戦争の手段として広範囲に用いられているという」と指摘している。現代戦は、情報戦でもあるのだ。

 「偽書の裏には欲望あり」……これがどうやら本書のテーゼのようだ。

 こういった偽情報を作り上げる者たちは何のために「偽書」を生み出したのか?
 そして、それを頭から信用して利用してきた人びとの心理とはどういったものだったのか?

 近年ではこういった切り口で「偽書」を「精神史」として研究する流れが起こっているそうだ。

 歴史学はかつての年表型・人物研究型の方法論が主流であったが、こういった従来の研究方法を批判的に捉え、それぞれの時代の人びとの精神的な傾向を観察する事で歴史研究に新たな側面を見出そうというのはフランスのアナール学派の発想であったそうだ。
 アナール学派の持っていた問題意識を引き継いで、日本では中世史研究家の網野善彦などが歴史の精神史的アプローチの一つとして「偽書」を取り上げる事を提唱しているという。興味深い流れだ。

 これは歴史学だけでなく、民俗学や思想史的な学問とも関連させる事もできる学際的な含みを持った研究が期待できるだろう。

「偽書」の裏には欲望あり――。

 偽作を作る側も、それを信じる側も、ある種の「欲望」を共有しているという事なのかもしれない。
 偽書の制作意図と、それの支持者の研究が進めば「欲望の時代性」という日本精神の暗い裏面史が浮かび上がってくるかもしれない。

「極小史」を提唱したイタリアのカルロ・ギンズブルグは「史料の細部に現れる兆候にその資料を生んだ文化の特徴が現れる」として、彼の考えの先駆を美術批評家のジョヴァンニ・モレッリと、精神分析のジグムント・フロイト、そして名探偵シャーロック・ホームズ(!)の名を挙げているそうだ。

 フロイトは精神分析の応用として歴史や文化に言及した文章を幾つも書いている。『モーセと一神教』や『トーテムとタブー』なんかもそのうちの一つだ。
 つまり、ぼくが最近親しんできた精神分析的なアプローチからも歴史の「精神史」的な分析は役に立つという事だろう。これはぼくの興味の範疇ともリンクしてくる問題になってくる。

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 因みに、本書で紹介されていた日本の中世史研究家・網野善彦についてはぼくも以前から注目していて著書も何冊か持っていたのだが、読むタイミングを掴みかねていた所があったので、今回読んだ本はなかなか良いきっかけになったと思う。

 ぼくが歴史学がニガテな理由の一つには、歴史学というのは重要資料が一つ見つかっただけで学説がひっくり返ったりするというような所に、どうにも学問としてのアヤフヤさ、曖昧さといったを感じてしまう所にもあった。

 本書で批判的に取り上げられている言説として、元『宝島』編集者であった北山耕平の「偽書」の存在をあえて擁護するような次の言葉を引用している。

「私は『歴史は人の数だけある』という考え方にあくまでも立つものであり、だからこそ偽書というものに強く惹かれてきた。なぜならどんなものであれ歴史書はどれも偽書であるからだ。その場にいなかった者たちの手で書かれるもの、それが文字にされた歴史なのだ」という極端に価値相対主義的な考え方だ。

 北山の考え方はある意味、過去ぼくが紹介してきた八切止夫の「八切史観」や赤松啓介の民俗学、船戸与一の「叛史」にも通じる考え方だ。多くの「歴史」は権力者や体制側から見た権力者視点で書かれるものだ、というやつである。
 だが、ぼくが北山の主張に全く同感できないのは、彼が真実を無視し「反権力のためなら偽書も有用だ」とでも言わんばかりの、歴史に対して不誠実な態度である。

 また「歴史はすべて偽書である」とみなす価値相対主義というのも「意味がない」。

 著者も北山のような価値相対化は「恣意的な解釈の横行を許すものでしかない」と批判している。全く同感だ。
 このような安易な相対主義というのは反知性的な怠惰でしかない。価値相対主義というものの多くはそういった意味で役に立たない。

 こういう不誠実な言説がまかり通っている所に、ぼくは歴史学の危うさというのを感じてしまうのだが、だからこそ余計、そういった偽書を利用しようとする「精神」のほうに焦点をあて、そういった考え方の横行する心理的な流れを「新たな文化史」として捉える網野善彦らの考え方のほうに理はあると思う。
 また、そうった試行錯誤が歴史学を強くしていくのではないかと思うし、逆に歴史学者たちのそういう試行錯誤の試みに、今回ぼくは大いに興味を覚えた。

 アヤフヤな学問であっても、真実の追及を求める心は皆変わりないと思いたい。


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