僕にとって人類学のこれまでと現在地
人類学との出会い
は、今から5年前の大学3年の時でした。
過去の自己紹介の記事でも書きましたが、私は大学に理工学部の応用化学を専攻して入学しました。
3年生の時、人の死、終末期医療、に関心を持ち、人類学が気になるようになり、ついには人類学のゼミに所属することになりました。大学を卒業し、もっと文化人類学を深めたい、研究と現場をつなぐ人になりたいという思いから、
福井県の医療法人オレンジに新卒で就職しました。
現場に出る傍ら、人類学・文化人類学を学ぶべく、独学でわからないなりに、いろんな本を読み漁ってきました。
正直なところ、理系科目は得意でしたが、日本史や世界史の暗記したり、本を読むこともずっと苦手意識を持っていました。自分が深めたいと思っていること(文化人類学)と実際に手に取り読んでいる本が一致していたのもあり、少しづつ読み進めていくことができました。手を広げていくうちに、この人のこういう考え方を現場で見たらどうなんだろうと、考察してみようとしてみたこともありました。しかし、自分の納得いくものをアウトプットとして出すことはできていませんでした。
社会人3年目の今、
ようやく人類学の全体像、現在地が見えるようになり、現場の実践に紐づいた思考ができるようになってきた気がします。
この記事では、自分流で人類学の流れを、わかりやすくまとめてみました。
(↓の画像も参考までに載せてみました)
人類学は誕生してからまだ150年という比較的新しい学問ではありますが、
人類の歴史と深く関連しています。
20万年前:アフリカで現世人類誕生
この時の人類は狩猟採取生活を行ないながら暮らしていました。
1万2千年前:農耕革命
畜産や植物を栽培するようになり、定住生活を行うようになってきました。
自然に対して、なすがままだった人類が、暮らしやすいよう自然を整え始めました。
15c:ヨーロッパで大航海時代
西洋人が、彼らにとって海の向こうの未知なる他者に出会っていくようになります。
16〜18c:啓蒙主義時代
ヨーロッパにおいて人間は国家がない状態に置かれたら人はどのように暮らしていくのか?に関心が置かれるようになります。(ホッブス、ルソー、モンテスキュー)
こんな流れの中、
19cの西洋で生まれた人類学
工業革命を経て、人・モノの移動が自由になり、西洋ではない土地にはどのような人たちが暮らしをしているのか?を研究する人類学者が現れます。人類学は、フィールドワークを通して、そこに住む人のことを探求し、記述することに重きを置いています。
とはいえ、時代ごとに思考の枠組みがあり、それを絶えず問い直しながら、人類学という学問そのものをアップデートしてきました。ここが文化人類学のとらえにくさの一つでもあると思います。
一つ一つ見てみましょう。
人類学の思考の枠組み
思考の枠組み①
「進化=文明の発展の度合いで、どの社会でも一直線に進んでいくモノだ」
ということです。文明化した西洋人の目には、西洋の外の世界で出会った人たちは「未開文化」の中で生きているとみなされていました。「自分達、西洋の文明が最先端で、外の世界の人々は発展が遅れている存在だ。」という思考の枠組みを持ち、現地調査を行っていました。(19c:進化主義・自文化中心主義)
しかしそのうち、文化の発展の度合いで、西洋の文化と未開文化を分けていることがおかしいのではないか。
思考の枠組み②
「そもそも暮らしている環境が違うんだから、文化は異なって当たり前だし、優劣の差はない」という考え方が広がっていくようになります。
(20c初:文化相対主義・非自文化中心主義の時代)
1980頃〜人類学にとって暗黒時代が始まります
文化人類学者はこれまでフィールドワークを通して、衣食住を共にしながら現地で暮らす人の暮らしぶり・当たり前になっている論理を記録し、発信するという研究の手法を生み出し、人類学という学問のアイデンティティにしてきました。
そんな中、「文化を書く」ことを当たり前に仕事としてきた点について自己批判的な議論が行われるようになります。
思考の枠組み③
・記述したものは本当に真実なのか?フィクションではないのか?
・人類学者が他者を一方的に記述する権利がどこにあるのか?
・現地に住む人と人類学者の間に不均衡な権力関係があるのではないか?
まさに人類学が袋小路に入ってしまった時代です。
そこから人類学は専門分化、多様化していきました。(医療人類学・景観人類学・〇〇人類学)
1990〜近代の自然ー人間の枠組みを捉え直す
人類学はフィールドワーク先の人の暮らしを研究することを目的とし、
それまで親族関係、宗教、呪術、贈与、交換について多く研究に取り組んできました。一方、自然環境や科学で明らかになった事実に関しては、人類学の対象外であるとみなしてきました。自然という存在の影響を考慮することなく、人々の暮らしを記録していました。
つまり、「自然は単一の普遍的で客観的な領域で、社会・文化は地域集団によって変わるもの。だから後者を対象にする」ことを自明視してきました。
そんな中、
近代社会における自然/社会の分断について論じた人類学者ブルーノ・ラトゥールの影響により、これまで人類学は、「単一の自然と複数の文化」を前提に、自然と社会・文化の2分法の境界づけをしてきたことを指摘されました。
それこそ、
20万年前の狩猟採取時代では、人間の暮らしと自然はほとんど境界はなかったのでしょう。工業・科学技術の発達、国家の成立などにより、人間のみから成る社会と、非人間により構成される自然が分断されそれぞれ異なる世界を持つことを無自覚に自明視していました。
人類学者はこれまで
「単一の自然と複数の文化」という当たり前を押し付けてフィールドに入っていたことになります。これは客観的な自然のことだから研究の対象ではないと。
とはいえ、実際の暮らしは人間と非人間が混ざり合って生きていますよね。
人間の感情や行動を社会の内側から理解することで、人々の暮らしを理解しようとしてきだ人類学ですが、実際にその社会で生きる人たちの暮らしは、「車」を使って移動したり、畑に水をやっていたり、仏壇に手を合わせたり、。
あらゆるモノ(非人間)も人間の暮らしに影響を与えているのが実際の暮らしです。
という流れにより、
「モノ」(動植物も含む非人間)も人類学の対象に取り入れるようになります。
思考の枠組み④
生きているものを「モノ」まで拡張し、それらは静的で受動的なモノではなく、人間と同じく、物語、歴史を持ち、主体性を持つ存在として捉えるようになりました。ここが人類学の大まかな現在地だと思っています。
既存の枠組みを捉え直し続けることで、現在に至るまで目まぐるしく、変化しながら人類学は発展してきました。
150年の歴史しかない学問がここまで、ややこしいとは当初思いもしませんでした。学び始めたときは、人類学で言及されている理論を覚えてそれを現場に照らし合わせてみようというアプローチしか頭にありませんでした。今思えば理系的アプローチだったなあと思います。本当にそれしかないと思っていました。
しかし学んでいくうちに、人類学はそうではないことが徐々にわかってきました。
「人の生」という、こうすれば絶対こうなるがない不確実性で満ち溢れた営みに対して、学問の都合で無理やり分解して考えるのではなく、人間・非人間が複雑に絡み合うプロセスそのものとして捉える学問であると思います。
そんな人類学観をもとにオレンジの、地域医療の実践を捉え、発信していきます!