【全史】第16章 12球団最後の最下位/1983(昭和58)年
(1)キャンプ中の衝撃、レオンのトレード
冒頭、いきなりこのシーズンの結果を記すことになることをご了承頂きたい。それだけ、我々オリオンズファンにとっては、1988(昭和63)年が、今でも思い出したくないほど、悔しい思いをしたシーズンだったからだ。
1950(昭和25)年に2リーグ制となって以降、パ・リーグで最下位に落ちたことがない球団はオリオンズだけだった。セ・リーグは長らく読売と阪神が最下位に落ちたことがなかったが、1975(昭和50)年に読売が、1978(昭和53)年に阪神が最下位となり、12球団で最下位の経験が無いのは、オリオンズだけになっていた。それが、オリオンズファンはもちろん、ОBにとっても誇りであり、自慢でもあった(傍流と紹介した大映は3度、高橋は2度あった)。
しかし、この年はその誇りと自慢が失せてしまったシーズンとなったのである。
山本監督2年目のシーズンに向けキャンプがスタートした。1シーズン制が復活するだけに、勢いだけではなく1年間130試合をしっかり戦える戦力が求められる。
投手陣では、ヒジ痛で前年5月の離脱以来、マウンド復帰がなるか村田の調整に注目が集まった。
「今年は何としても20勝してオフの移籍希望騒動の汚名を返上したい。その為にはじっくりと肩を仕上げたいので開幕投手には拘らない」。
村田は、慎重に調整を重ねていた。鹿児島キャンプでは本格的な投球練習はせず、遠投のみで身体作り。ブルペンに入ったのは、キャンプ終盤の2月25日だった。以降、毎日100球前後、多い時は170球を全力投球した。オープン戦が始まるが、途中からはチームを離れ、川崎球場で調整を続ける予定だ。
口では「開幕投手には拘らない」とは言うものの、間に合えば8年連続開幕投手という日本記録をさらに伸ばしたい気持ちは強い。
山本監督ら首脳陣は「開幕投手は村田」と考えている。ただ、あくまでも本人の状態が第一である。開幕は4月8日。村田が間に合うか、注目された。
もう一人、キャンプで注目を集めていたのが、前年史上4人目となる三冠王を獲得した落合だった。一昨年オフに三冠王宣言をし実現させたが、今シーズンは前人未到の打率4割を目指すと宣言した。
このキャンプではフォーム改造にも取り組んでいる。右方向だけではなく、引っ張ることも意識し、苦手の内角高目の球をドライブをかけてレフト線に落とす新打法にも取り組んでいる。「ホームランを狙って大振りしたら率が上がらない」と話す落合。新しい姿を今シーズンは見せてくれそうだ。
さて、村田以外の投手陣が今シーズンも成績を左右しそうだ。中心となる水谷は33歳、仁科も32歳とベテランの域に達してきている。前年、深沢にローテーションのメドがたったが、三宅、梅沢、中居、石川、欠端と若手は台頭してきているものの、まだ実績も少なく未知数な部分が多い。左の強打者が多いだけに、3年目の愛甲にもワンポイントとしての期待されている。
打線は、落合以外では、有藤が.301で3割をキープした。リーはケガで84試合の出場に留まり本塁打は15本だったものの、終盤には本来のバッティングを取り戻し、打率は.326まで戻した。レオンは本塁打が22本、打点は78打点とピーク時に比べると低く、打率も初めて3割を下回ったものの、.283はリーグ11位、チーム内ではリー、有藤に次ぐ数字だった。庄司が皮膚の病気で離脱がちだったが、若手では芦岡が80試合の出場ながら.291/2本塁打、新谷が70試合ながら.256/2本塁打とようやく結果を出しつつあった。主軸が揃えば、優勝争いも見えてくると思われた。
ところが、キャンプ中盤の2月14日、突然トレードが発表された。キャンプ合流直前だったレオンが放出されるという衝撃のニュースだった。新外国人として左投手のシャーリーの入団により、外国人枠から押し出された形だ。
ただ、相手は大洋の斉藤巧+金銭。斉藤巧は前年わずか15試合に出場した内野手だった。当時、外国人選手のトレードはまだ珍しく、評価も日本人選手より低いものだったが、それでも不可解なトレードだった。リーきょうだいは前年年棒交渉でもめたこともあり、経費圧縮の犠牲だと新聞各紙に書かれた。オリオンズの投手力不足は否めない。左腕シャーリーの加入も解決策の一つであることは理解できる。
ならば、打線の主軸であるレオンが放出されるマイナスを埋めるためにも、投手とのトレードが必須だったのはないか、という疑問が湧いてきた。昨年オフの各種騒動以来、一ファンとしてフロントに対する疑問がいくつも起こった。正直、これで今シーズンに対する「諦め」のような気持ちも湧いてきたことを覚えている。
(2)開幕ダッシュに成功も…
注目された村田は開幕に間に合わなかった。3月に入り、オープン戦で遠征するチームと離れ、川崎球場で調整を続けていた。当初は順調だった。ブルペンで投げる球数もキャンプ中の100球から多い時には150球を超えていた。しかし、下旬に右足太腿を痛めてペースダウン。それとともに、球数を投げ込んだ後、右ヒジの張りも増え、再び激痛に見舞われた。球数を減らして投球を続けたが、状態は前年と同じ状態に戻ってしまった。
村田は再び球団に治療への専念を申し出て、チームを離れた。
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