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オリオンズ(裏)図書室マガジン【月額定額300円】

世に出ている資料の他、手元に眠っている表に出ていない資料に加え、毎日オンズ時代からファンだった父の日記、そして関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
【2023年1月から毎日午前8時更新!】 週5本ペースで毎日オリオンズからロッテオリオンズまでの歴…
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《有料、冒頭試読》【ロッテ球団73年考察/(12)(投手編)「防御率」73シーズンベスト10】

(写真 最優秀防御率複数回獲得の2投手、左・3度の村田兆治、右・2度の伊良部秀輝) (12)(投手編)「防御率」の73シーズンベスト10  投手力を現わす指標が「防御率」である。いわゆる「1試合完投した場合に何点に封じるか」という数値になる。今回はこの防御率についてのランキングを考察する。  まず「チームの防御率」をランキング化しようと思ったが、このランキングは意味がないと考えた。というのも、シーズンチーム防御率2点台前半が並ぶが、投手力が圧倒的だったと言われる球団創成

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《有料、冒頭試読》【73年考察/(11)(打者編)「本塁打 個人記録」の73シーズン考察】

(写真 ロッテ「ホカロン」のCMに出演した歴代通算本塁打1位の有藤道世(左)とシーズン本塁打球団記録の落合博満(右)) (11)(打者編)「本塁打 -2- 個人記録」の73シーズンベスト10  前回の本塁打球団記録に続き、今回は本塁打の個人記録編。  まずは本塁打王のタイトル獲得者と、一つの目安として「30本塁打」を記録した打者をリストアップ(この項最後に20本塁打打者一覧を記載)。 【本塁打王と30本塁打以上打者一覧】 ★1950(昭和25)年…【本塁打王】別当  

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《有料、冒頭試読》【73年考察/(4)「МVPと新人王、表彰」の73シーズン考察】

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(写真 左から1950(昭和25)年パ初代新人王・荒巻淳、パ初代MVP・別当薫、1982(昭和57)&85(昭和60)年と球団史上唯一MVP2度・落合博満、直近受賞は2014(平成26)年新人王・石川歩) (4)「МVPと新人王、表彰」の73シーズン考察  チームの勝利と敗戦に続く4回目は個人の記録のランキングにに入る前に表彰に関する考察。  表彰は「МVP(最優秀選手)」「新人王」「ベストナイン」「ゴールデングラブ」の4タイトル。МVPはそのシーズン最も活躍した選手、新

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《無料公開》【ロッテ球団73年考察/(1)「試合数」チーム73シーズン&打者歴代ベスト10、投手歴代ベスト10】

(写真 歴代各年代の優勝時の集合写真) 【はじめに】  1949(昭和24)年に創設された「毎日オリオンズ」は、翌50(S25)年からパ・リーグに参入し、パ・リーグ初代王者、2リーグ制後初の日本一となり、昭和、平成、令和と幾多の歴史を重ねきた。そして、今年2023(令和5)年には74回目のシーズンを迎える。  過去4度の日本一、5度のリーグ優勝を飾った歴史の中で過去の様々な「数字(記録)」を並べ、単純にランキング化した時、強かったオリオンズ時代の数字が並ぶのかと思いきや

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【全史】第21章 有藤監督、屈辱の最下位/1988(昭和63)年

(1)キャンプとドーム開幕  前年「機動力野球」を目標に掲げた有藤監督は、さらに加えて「守り勝つ野球」を目標に加えた。前年は現役引退直後で暗中模索の部分も多かったが、2年目の今シーズンは、どっしり構えて指揮していくことを示唆した。  オフの間、有藤監督はあまり動かなかった。コーチ陣が2人退団し入れ替わり、トレードも故障続きだった石川賢を新天地として大洋に放出し、堀井恒雄投手、小山昭晴捕手とのトレードを決めた程度だった。  11年間主軸を務めたリーに代わる新外国人として、ビ

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【全史】第20章 有藤青年監督新体制/1987(昭和62)年

(1)180度転換、有藤新体制  私にとって有藤というプレーヤーは特別な存在だった。記憶にある限り、サードにはいつも「ミスターロッテ」がいた。選手と言葉を交わすようになっても、有藤の前ではいつも緊張している自分がいた。その有藤が待望の新監督になった。本来ならば、新しいシーズンが楽しみになるはずだった。  しかし、発表されたコーチ陣を見て驚いた。当然、有藤の現役時代、日本一メンバーが支えると思っていたが、金田留と得津の名前が入っていたが、配置は二軍の投手コーチと打撃コーチ。一

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【全史】第19章 稲尾退任と落合放出/1986(昭和61)年

(1)熾烈な外野争い  稲尾監督はキャンプインを前に、レギュラー争いが激化しそうな外野陣に言及した。 「実力第一主義でいくがウチの外野陣は駒が豊富で、レギュラーを決める前に誰を一軍に残すかで頭を悩ますよ」。 まさに、嬉しい悲鳴だ。  前年までの実績ならば、レフト・有藤、センター・高沢、そして、前年ルーキーながら3割を記録したライト・横田という布陣になるだろう。しかし、有藤は今シーズン40歳。自身も「代打でも」という気持ちでいる。稲尾監督も「ウチは実力主義。それは有藤も例外で

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【全史】第18章 2年連続2位も独走許す/1985(昭和60)年

(1)落合ノースイングと復活期す村田  前年に引き続き、今シーズンも首位と2位が5ゲーム差以内ならばプレーオフを実施するというペナントレースとなる。  2月1日からスタートした鹿児島キャンプでは落合に異変が起きていた。バットを全く振らない調整を行っていた。キャンプ前、落合は醍醐コーチに「下半身が出来るまで、バットを振らない」と申し出た。当然、醍醐コーチは反対。稲尾監督に報告したが、稲尾監督の「好きにやらせよう」という判断で落合流の調整にGОサインを出した。有藤も「『振らな

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【全史】第15章 オリオンズ沈下への序章/1982(昭和57)年

(1)山本一義丸、かみ合わない歯車  1月12日、川崎球場で若手中心の合同自主トレーニングがスタート。20日から主力も加わった。山本新監督は「激しさをグラウンドに叩きつける『エキサイティングベースボール』」をテーマに掲げ、徹底した体作りと基礎技術の向上を目標とした。  2月1日、恒例の川崎大師参拝を終え、主力バッテリーは鹿児島県指宿市へ移動し2日にキャンプイン。本体は9日まで川崎で一次キャンプを行い、10日に鹿児島に移動した。ところが、前日9日に羽田沖で起きた墜落事故の影響

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【全史】第9章 プレーオフが無くなった… /1976(昭和51)年

(1)三井参考ノーヒットノーラン、しかし阪急に独走許し…  キャンプイン目前の1月30日、前年太平洋クラブライオンズの監督兼選手だった江藤慎一の入団が決まった。1971(昭和46)年以来のオリオンズへの復帰だった。  すでに39歳と全盛期のような活躍への期待は難しかったが、前年は監督業もあり、その力は発揮できていなかった。しかし、一昨年は打率.291、16本塁打を記録していただけに、選手専任として「最後のひと花」(江藤)を咲かせる覚悟での入団に期待は高かった。  キャンプ終

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【全史】第8章 かみ合わない歯車/1975(昭和50)年

(1)崩壊した投手陣と期待外れの助っ人  V2を目指すキャンプは賑やかだった。2月1日からスタートした鹿児島・鴨池球場にはこれまで以上のファンとともに、取材に訪れたマスコミも例年以上の多さだった。カネやんはオフに渡米。自身の400勝の記念ボールが米野球殿堂に展示される式典に参加した。その時、現在でもメジャー記録として残る56試合連続安打を記録したジョー・ディマジオ氏に鹿児島での臨時コーチを依頼し、快諾を得ていた。  7日、ディマジオはサンフランシスコ・ジャイアンツの若手メジ

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《有料》(9)東京パレードと仙台軽視

第6章 24年ぶり、日本一への道 (1974(昭和49)年) 【=無料公開=】(1)「オリオンズ マラソン部」地獄のトレーニング 《有料公開》(2)太平洋との「遺恨試合」騒動2 ~昭和49年編~ 《有料公開》(3)開門前に並んで「選手と写真撮影」 《有料公開》(4)アルトマンの帰国と有藤の離脱 《有料公開》(5)太平洋との「遺恨試合」騒動3 ~昭和49年・最終章~ 【=無料公開=】(6)「静岡・草薙、奇跡の3連戦」と後期優勝 《有料公開》(7)カネやん、宮城の空に舞う プレ

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《有料》(5)ジプシー・ロッテ「準本拠地・宮城球場」

第5章 カネやん登場、球界革命に挑む 1974(昭和48)年 【=無料公開=】(1)『史上初のタレント監督』カネやんの監督就任 【=無料公開=】(2)東京球場、その後もあった買収話 【=無料公開=】(3)衝撃、驚きのカネやん球場初観戦 《有料公開》(4)太平洋との「遺恨試合」騒動1 ~昭和48年編~ 《有料公開》(5)ジプシー・ロッテ「準本拠地・宮城球場」 【=無料公開=】(6)チケット、ダフ屋で買う 《有料公開》(7)伝説の「ラッキーエイト」を検証する 《有料公開》(8)

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【追悼】「村田兆治さん」を偲んで

(写真 現役時代の村田兆治さんのサイン色紙)  長い歴史の「オリオンズ全史」を書き始め、ようやくカネやんの時代に辿り着き、ちょうど川崎球場に移転する時まで書き進め、毎年「村田が」「村田が」「村田が」という場面になっているところだった。  突然の訃報を聞き、じっとしておられず、この文章を記している。  1974(昭和49)年の日本一の時は7年目の25歳、まだ粗削りの印象が残っていた。成田文男、木樽正明、金田留広、八木沢壮六という投手陣の中で、19歳の三井雅晴とともに、若手と