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オリオンズ(裏)図書室マガジン【月額定額300円】

世に出ている資料の他、手元に眠っている表に出ていない資料に加え、毎日オンズ時代からファンだった父の日記、そして関係者から見聞きした情報(オリオンズメモ(笑))を中心に「ロッテオリ…
【2023年1月から毎日午前8時更新!】 週5本ペースで毎日オリオンズからロッテオリオンズまでの歴…
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2022年11月の記事一覧

【全史】第9章 プレーオフが無くなった… /1976(昭和51)年

(1)三井参考ノーヒットノーラン、しかし阪急に独走許し…  キャンプイン目前の1月30日、前年太平洋クラブライオンズの監督兼選手だった江藤慎一の入団が決まった。1971(昭和46)年以来のオリオンズへの復帰だった。  すでに39歳と全盛期のような活躍への期待は難しかったが、前年は監督業もあり、その力は発揮できていなかった。しかし、一昨年は打率.291、16本塁打を記録していただけに、選手専任として「最後のひと花」(江藤)を咲かせる覚悟での入団に期待は高かった。  キャンプ終

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【全史】第8章 かみ合わない歯車/1975(昭和50)年

(1)崩壊した投手陣と期待外れの助っ人  V2を目指すキャンプは賑やかだった。2月1日からスタートした鹿児島・鴨池球場にはこれまで以上のファンとともに、取材に訪れたマスコミも例年以上の多さだった。カネやんはオフに渡米。自身の400勝の記念ボールが米野球殿堂に展示される式典に参加した。その時、現在でもメジャー記録として残る56試合連続安打を記録したジョー・ディマジオ氏に鹿児島での臨時コーチを依頼し、快諾を得ていた。  7日、ディマジオはサンフランシスコ・ジャイアンツの若手メジ

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《有料》(9)東京パレードと仙台軽視

第6章 24年ぶり、日本一への道 (1974(昭和49)年) 【=無料公開=】(1)「オリオンズ マラソン部」地獄のトレーニング 《有料公開》(2)太平洋との「遺恨試合」騒動2 ~昭和49年編~ 《有料公開》(3)開門前に並んで「選手と写真撮影」 《有料公開》(4)アルトマンの帰国と有藤の離脱 《有料公開》(5)太平洋との「遺恨試合」騒動3 ~昭和49年・最終章~ 【=無料公開=】(6)「静岡・草薙、奇跡の3連戦」と後期優勝 《有料公開》(7)カネやん、宮城の空に舞う プレ

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《有料》(7)カネやん、宮城の空に舞う プレーオフ

第6章 24年ぶり、日本一への道 (1974(昭和49)年) 【=無料公開=】(1)「オリオンズ マラソン部」地獄のトレーニング 《有料公開》(2)太平洋との「遺恨試合」騒動2 ~昭和49年編~ 《有料公開》(3)開門前に並んで「選手と写真撮影」 《有料公開》(4)アルトマンの帰国と有藤の離脱 《有料公開》(5)太平洋との「遺恨試合」騒動3 ~昭和49年・最終章~ 【=無料公開=】(6)「静岡・草薙、奇跡の3連戦」と後期優勝 《有料公開》(7)カネやん、宮城の空に舞う プレ

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【全史】第7章 24年ぶり、日本一への道/1974(昭和49)年

(1)「オリオンズ マラソン部」地獄のトレーニング  1974(昭和49)年は1月15日の埼玉県鶴瀬市にある「東京証券グラウンド」での合同自主トレーニングから始まった。カネやん1年目の前年のキャンプは「走れ、走れ」という徹底したランニングが話題となった。ただ、前年の自主トレはカネやんも「様子見」という感じだった。  しかし、この年は違った。自主トレ初日からキャンプのようなランニングだった。「いきなり始まったランニングが終わらなかった。1時間以上走った。あんなに走ったのは人生

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《有料》(5)ジプシー・ロッテ「準本拠地・宮城球場」

第5章 カネやん登場、球界革命に挑む 1974(昭和48)年 【=無料公開=】(1)『史上初のタレント監督』カネやんの監督就任 【=無料公開=】(2)東京球場、その後もあった買収話 【=無料公開=】(3)衝撃、驚きのカネやん球場初観戦 《有料公開》(4)太平洋との「遺恨試合」騒動1 ~昭和48年編~ 《有料公開》(5)ジプシー・ロッテ「準本拠地・宮城球場」 【=無料公開=】(6)チケット、ダフ屋で買う 《有料公開》(7)伝説の「ラッキーエイト」を検証する 《有料公開》(8)

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【追悼】「村田兆治さん」を偲んで

(写真 現役時代の村田兆治さんのサイン色紙)  長い歴史の「オリオンズ全史」を書き始め、ようやくカネやんの時代に辿り着き、ちょうど川崎球場に移転する時まで書き進め、毎年「村田が」「村田が」「村田が」という場面になっているところだった。  突然の訃報を聞き、じっとしておられず、この文章を記している。  1974(昭和49)年の日本一の時は7年目の25歳、まだ粗削りの印象が残っていた。成田文男、木樽正明、金田留広、八木沢壮六という投手陣の中で、19歳の三井雅晴とともに、若手と

【全史】第6章 カネやん登場、球界革命に挑む/1974(昭和48)年

(1)『史上初のタレント監督』カネやんの監督就任  いよいよ金田正一監督が登場する。最初にお断りしておきたいのだが、オリオンズファンにとって「大監督」であったが、就任して一貫、呼び方は「カネやん」だった。したがって金田監督のことは「カネやん」と呼称させて頂く。決して卑下するのではない。オリオンズファンの気持ちだとご理解頂きたい。我々ファンにとっては、やっぱり「カネやん」なのである。  ある朝、起きて居間に行くと、いつもならば慌ただしく出勤の準備をしている父が身支度を整え、

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