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比べることが癖でした

周りと比べて「羨ましい」と思ってしまう自分が嫌いでした。
出来ないところばかりを探して「どうせ私は」と悲観的に考えてしまう自分が嫌いでした。
どうしてもその癖が抜けることはありませんでした。

その言葉のどれもが、過去の私が言われてきた言葉だったから。

誰かと比べられて、出来ないことを笑われた過去がありました。
同じ名前の同級生と比べられて「同じ名前なのにお前はダメだな」と言われ続けたことが、今でも心の傷として残り続けています。
外見至上主義だった学生時代は、容姿を比べられ、ときには見た目のせいで扱いすらも変えられてしまいました。
その時から少しずつ見た目に劣等感を抱き、自分自身を下に見る癖がついてしまったのです。

心が育つ一番大切な時期に、私は劣等感と比べることを学びました。そして、生まれながらに人生は区別をされることも学びました。

だから余計に自信を持つことができずに、常に誰かと比べて、自分のことを下に見て、そして人生を楽しんでいる人たちに対して「羨ましい」という感情を抱き続けてしまったのです。

「あなたはあなたなんだよ」と言われても、劣等感で固められた心を溶かすことはできませんでした。
「自分自身をもっと見なよ」と言われても、何をどう見ればいいのかさえもわからなかったのです。

その言葉をかけられるたびに、「無責任なことを言わないで」そう言いたい気持ちをグッと堪えて、ただ感情を無にして「ありがとう」と精一杯答えたのです。

あれからもう随分と時は経ち、学生の頃の思い出なんてほとんど思い出せないくらいにはなりましたが、それでもふとした時に、フラッシュバックしてしまい、子どもの頃のように怯えて、芽生え始めた自信も全て奪われてしまうような感覚にすらなってしまうのです。

心の傷は、どれだけ時間をかけても、どれだけ言葉を重ねても消えることはありません。
それは、今の生活が前よりもマシになっても、幸せだと感じることが増えたとしても、やっぱり消えることはないと思います。

そして大人になればまた、別のことで悩み、時には心をかき乱してこようとする人とも出会うこともありました。

そんな時、私を救ってくれたのは誰かの言葉でもなく、有名な人の名言でもなく、自分自身にあてたエッセイだったのです。
あの頃に言って欲しかった言葉を文章にして、時には同じような悩みを持ったり、感情を抱いた人が言葉をかけてくれました。

その時初めて、私は「救われた」気がしたのです。
そして「誰か」に求めていた言葉は、自分自身が受け止めて言葉にすることで救われることもあるんだと知りました。

そうやって少しずつ見えなかったものが見えるようになった時、比べることよりも、羨ましがることよりも、「自分自身」を見るようになるのかもしれません。

今でもたまに他人と比べて、羨ましがって、ネガティブに落ちてしまうこともあります。そんな時は無理やり前を向くのではなく、自分の抱いた感情ごと文章に書いて、整理をするようにしています。

そうすることで、少しだけでも気持ちが楽になることがあることを知れたから。
そしてその言葉に、同じ気持ちを味わった人たちが心を添えて、辛い気持ちを分かち合ってくれる居場所も見つけることができたから・・・。

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