【感想交換】「わだちを踏むように」上演台本を読んで
2024年夏、北海道札幌市で上演されるOrgofA『父と暮せば』と演劇家族スイートホーム『わだちを踏むように』。皆様に作品のことをもっと知っていただくため、お互いに上演台本を読み感想を交換しました。
今回はOrgofA 飛世早哉香が書いた『わだちを踏むように』を読んでの感想をお届けします。
『わだちを踏むように』上演台本を読んで
家族の形、というと何を浮かべるだろうか?
私は⼦どもの頃に⾒ていたアニメーションの家族を思い出してしまう。
家族構成は、⽗、⺟、主⼈公の男の⼦、妹、⽝
うちのお祖⺟ちゃんがそのアニメは下品!と⾔っていい顔をしないので、いつもお祖⽗ちゃんと⾒ていたアニメだ。
その家族は時には喧嘩や⼤騒動もあるが、いつも最終的には⽀えあい難題を解決しまた⽇常へ、その家族の形に戻っていく。最後に家族が何かを⾷べて騒々しい声が(笑い声、怒声、ふざけた声)家の窓の明かりがついた⾵景と⼀緒に映るのが私にとっては印象的だった。⼦どもの頃はそれが当たり前だと思っていた。そのアニメに出てくる「家族の形」が当たり前だと信じて疑わなかった。
そしてその枠に当てはまらない⾃分の家族を少し恨んだりした。
⼤⼈になった今、そんな「家族の形」は⼀体この⽇本にどれほどあるのだろうか?
きっとゼロに違いない。だって同じ形の家族なんてあるわけない。
さて、「わだちを踏むように」は家族のお話だ。
とある⺠宿に集まってくる家族、家族になりたいと願っている⼈々、まぁ⾊んなややこしい確執をもった⼈々がやってくる。
観客は各⾃の事情を知った状態で話は進んでいく。
時にユーモラスに、そしてすれ違い、思惑を⼤きく外れた状態で進むので知っているこっちとしてはもうそれだけで⼗分にハラハラドキドキだ。スリリングに会話が進んでいくので脚本を⼀気に最後まで読んでしまった。噛み合わない会話にクスッと笑ってしまう場⾯もかなり多い。
ここで厄介なのは「家族の形」という⾊眼鏡があることだ。
こうだったらいい、こうあるべきだ、こうして欲しかった、その⾊眼鏡をかけたまま私達は⼈⽣を歩む。その⾊眼鏡で他⼈を⾒てそして⾃分を⾒る。
これを外すのは⾄難の業だと思う。
「家族」というものは正確には「他⼈の集合体」だ。
⾎がつながってようと、⾎がつながってなかろうと、その⼈の全てなんて分かるわけがない。だから話して、すり合わせ、価値観をぶつけ合う、お互いの妥協点を探す、理解したい、例え理解できなくても聞いて欲しい、⾔って欲しい、それがどんな結末になってもその過程がとても⾯倒くさく、とても愛おしい。
「わだちを踏むように」の登場⼈物たちはその⾊眼鏡をかけたままで今現実を⽣きる私達を同じように、先⼈のしたことを繰り返し、失敗を繰り返し、そしてちょっとわだちから出た別の形をつくりあげる。
きっとそれは憧れの形じゃないかもしれないけど、
その過程を⾒せてくれるこの作品は観客の⼼にじんわりと広がって、現実を⽣きる私達の「家族にまつわるめんどくさい事」に少しだけ活⼒をくれる、そんな作品になるはずだ。
(OrgofA 飛世早哉香)