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1968年の「考える人」―岩波文庫85冊

「考える人―五つの箱―」は岩波書店が1968年に発行した小冊子(非売品)である。湯川秀樹や丸山真男といった著名な知識人らが5つのテーマに分かれ、各テーマおよそ17冊ずつ、合計85冊の岩波文庫が選ばれている。また、各テーマごとに選者による読書案内が付されている。

以下では、備忘録のために各テーマの要約と選書一覧を付す。

「学問の精神」湯川秀樹・大塚久雄 選

読書案内は大塚久雄が執筆している。大塚は「学問の精神」について次のように述べている。

およそ科学とよばれている営みのさまざまな分野においては、それに固有な研究対象たるものごとに即して、それぞれに独自な方法が分化し、鍛え上げられてきているし、また、それについて、さまざまな形での意識的な反省も行われてきている。このように言ってよいであろう。ともあれ、こうした方法意識、そして、それに厳格にしたがって遂行される学問の営み、それを内面から支え、推進するヴィジョン、そうしたもののすべてを、われわれはここでは学問の精神とよぶことにしたい。

そして、18篇の選書に当たっては久野収氏の協力を得たこと、選択に当たって一セット当たりの予算が40前後の星(当時★=50円なので2000円前後)という予算制限のために星数の多い大・中冊は割愛したこと、とりわけ湯川秀樹は自然科学の古典の部分的欠落のために選択に困難を感じたことが述べられている。

続いて、大塚は18の選書を6つのグループに分けて紹介する。

一つ目のグループは近代科学の母体としての近代ヨーロッパ、そしてその母体としての古代ギリシャ文化、という観点に立ち、「はなはだ不十分であるが」、プラトン『テアイテトス』、エピクロス『教説と手紙』、デカルト『方法序説』が選ばれている。

2つ目は「近代科学の方法を真正面から問題にした代表的な学問論」として、数学者・自然科学者のポアンカレによる『科学と方法』、哲学者リッケルトによる『文化科学と自然科学』、社会科学者ウェーバーの『社会科学方法論』(これは現在『社会科学と社会政策に関する認識の「客観性」』というタイトルで出版されている)が選ばれている。なお、この他に社会科学の側からマルクス『経済学批判』(中でも、その序論)が候補に挙がっていたそうである。

3つ目と4つ目は「いずれも伝来の正統理論だとか宗教的教義などから由来している独断の誤謬を立証し、ものごとの真実の姿を見出すという、真に学問的な作業を遂行した著作であるばかりか、そうした営みと、それの奥底にひそむ学問的精神やそれらを取りかこむ時代的背景との内的関連を、われわれにまざまざと物語ってくれる代表的な作品である」という。3つ目のグループとして選ばれたのは、ガリレイ『新科学対話』とダーウィン『種の起源』で、4つ目のグループにはマルクス『ドイツ・イデオロギー』、毛沢東『実践論・矛盾論』、野呂栄太郎『日本資本主義発達史』が含まれている。なお、4つ目のグループについては、他にウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が挙げられていたという。

5番目のグループにはトレルチ『ルネサンスと宗教改革』、シュリーマン『古代への熱情―シュリーマン自伝』、ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』、ウェーバー『職業としての学問』が選ばれている。これらの選書に共通するテーマは学問に献身する人間型とでも言うべきものだ。トレルチの著作は学問に献身する型の人間が社会で立ち位置を確立した時代を扱ったものであり、残る3つの著作はいずれも学問的精神を持って学問に専心する人々のありかたを伝えるものだという。

最後のグループは日本にも学問的精神の立派な伝統があったことを示すもので、『三浦梅園集』、杉田玄白『蘭学事始』、福沢諭吉『学問のすゝめ』が選ばれている。候補には新井白石『折たく柴の記』も挙がっていたという。

■選書一覧

プラトン『テアイテトス』

エピクロス『教説と手紙』

デカルト『方法序説』

ポアンカレ『科学と方法』

リッケルト『文化科学と自然科学』

マックス・ウェーバー『社会科学方法論』

ガリレオ・ガリレイ『新科学対話』

ダーウィン『種の起源』

マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』

毛沢東『実践論・矛盾論』

野呂栄太郎『日本資本主義発達史』

ウェーバー『職業としての学問』

トレルチ『ルネサンスと宗教改革』

シュリーマン『古代への情熱』

ベルグソン『道徳と宗教の二源泉』

杉田玄白『蘭学事始』

三浦梅園『三浦梅園集』

福沢諭吉『学問のすゝめ』

「国家とは何か」丸山真男・日高六郎・福田歓一 選

読書案内は福田歓一が執筆している。

福田はまず、現代に至って国家が単に国防と治安に留まらず、生産と分配に介入し、交通・通信から医療、教育、文化にまで関わるようになったという国家の変貌に言及する。一方、ここに選ばれる「古典」は、このような現代国家の問題を直接に論じるものではない。では、国家論の古典を読む意義は何であるか:第一に、より幅広い観点から国家について思考することを可能にすること;第二に、「それぞれの時代の問題を鋭く自己の課題として取り組んだ精神の労作」である古典を読むことで、「現代に生きる者が、[古典の]著者とその時代にとらわれず、自由に自分の関心を読み取り、自分の思考を進めることを励ましてもくれる」ということ。

次いで福田は国民国家の2つの意味として、「それぞれ一定の地域を占めて地球上に並存する国民社会」と「この社会を支配している権力機構、つまり政府」を挙げる。また、「人間の人間との共同生活が、常に人間の人間に対する支配を通じていとなまれたという政治社会の問題」や「権力観の闘争が国家間の戦争として人間をまき込んで来た重い遺産」に言及し、これらが国家について考える上で重要な課題となることを示唆する。

この後、福田は選ばれた15冊について「ささやかな手引」を書いている。以下では各書籍ごとに紹介文を抜粋する。

プラトン『ソクラテスの弁明・クリトン』
「真の哲人にしてよきアテナイの国民ソクラテスの悲劇をとらえ、良心の故の国家への批判と信条の故の国法への服従とを描いて、読む者に迫らずにはいない」。

アリストテレス『政治学』
「いわばギリシア人の全政治体験のカタログであって、人間を人間たらしめる完全な共同体という国家観をつらぬきながら、社会的利害の分化と共通善の実現とを座標にとって、さまざまな国家体制の類型を示し、つぶさにその生理と病理とを教えてくれる」。

マキャヴェッリ『君主論』
「生涯の情熱を国家につなぎ、身を以て権力の興亡に立会ったマキャヴェッリ『君主論』の精彩は、意識的に政治から一切の倫理的粉飾を取り除いて、強力な人格が権力を獲得し、維持し、拡大する技術として、その一般法則を抽出したところにある」。

トマス・モア『ユートピア』
「「誰も何ものをも持たないが、しかも皆が豊かな」平和の国の姿は、それ自体国家そのものへの変らざる問いかけである」。

ホッブズ『リヴァイアサン』
「「地の上にならぶ者なき」主権国家という怪獣を、最も日常的な個人の生存の要求から組み立て、国家への服従の根拠を個人相互の契約という自由な行為に求めることによって国民国家を国民一人一人の作品に変えた」。

ルソー『社会契約論』
「直接民主主義の大胆な宣言によって、一人一人の国民に自由・平等・尊厳を確保する国家をここに提示する。近代民主主義のこの聖典において、国民国家は共同体としての自己を完成したのである」。

トーマス・ペイン『コモン・センス』
「食いつめてアメリカに流れついた職員ペインのパンフレット『コモン・センス』は本国とすでに戦火を交えながら分離をためらっていた十三州の民の心に食い入り、ついに独立宣言へと踏み切らせ、やがてこのベストセラーは独立のために闘う者の古典となった」。

カント『永遠平和の為に』
「永久平和、この人類の最高善を、予言としてでなく、また夢想としてでなく、動かすべからざる理性の要求として、一人一人の人間に厳粛に義務づけるこの哲人の精神を、国家について考えるすべての人によって、現代のものとしたいと望む」。

マルクス『ユダヤ人問題を論ず』
「若いマルクスの小篇『ユダヤ人問題を論ず』は、ルソー的なまたヘーゲル的な共同体としての国家の観念、さらに近代国家一般への原理的批判であった。国民として抽象的公共を構成する人間が、現実には利己的な個人に分裂して公共性と対立する姿を暴露して、政治的開放の限界を指摘したからである」。

マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』
「史上はじめて「社会共和国」を宣言した二月革命がもろくも第二帝政に転落するまでの、激変する政治過程を的確にとらえ、議会共和国の反動化を辛辣に摘出するとともに、国家すなわち軍事官僚機構の、奪取でなくて破砕を、革命の課題としてはっきりと設定する」。

レーニン『国家と革命』
「ケレンスキー政府に抗して社会主義革命を準備していたレーニンにとって、暴力革命による旧権力機構の破砕、議会制の廃棄、プロレタリア独裁権力の樹立に正当性を立証することは、それ自体死活的な必要であったのである」。

孫文『三民主義』
「中国にとって、国民形成の課題は長い困難にみちた革命を通じて果たされることになった。身を以てこの大業を指導し、道半ばにして倒れた孫文が、その死の前年、二十年来かかげつづけた理想を噛んでふくめるように同志に講述した『三民主義』は、百折不撓の志と思想の成熟との見事な結合を示して人に迫らずにはいないであろう」。

福沢諭吉『文明論之概略』
「この書物を卓抜した国家論としているのは、まさにこの[民族独立という]課題を文明というひろいパースペクティヴの中に位置づけた点にある」。

中江兆民『三酔人経綸問答』
「早くも明治二十年ここに造型された西洋近代思想の理想主義、権力主義的対外膨張論、穏歩前進の現実主義が、以後の政治思想の原型になったことを思うとき、近代日本の深い苦悶を思わずにはいられないであろう」。

陸奥宗光『蹇蹇録』
「日清戦争の発端から三国干渉への屈伏に至るまで、外交の定石をきびしく自覚的に追求する陸奥の姿に、読者は独立国家の何たるかを改めてふれられるであろう」。

「人生」吉川幸次郎・中野好夫 選

読書案内は吉川幸次郎による。

中国文学者である吉川幸次郎は西洋の本の選択については英文学者の中野好夫に任せたと書いている。「人生」の本などと言うから明確な評価基準があるというより選者の主観に左右されるところが大きいようである。シェークスピアは『オセロウ』が選ばれているが、なぜ四大悲劇の中からこれを選んだのかは書いていない。ルソーの『告白』を採らなかったのは『夢想』よりも大部だからだと書いている。漱石は『心』という話もあったが、結局『それから』を選んだのは、「すべての赤いものが、電車にのって逃げる代助をおっかけ、代助とともに燃える結末を、私は特に愛するから」と書いている。また、吉野源三郎を交えた会談では、『フランクリン自伝』やイプセンの『人形の家』、チェーホフの『桜の園』という話もあったという。

■選書一覧

『論語』

プラトン『饗宴』

『新約聖書 福音書』

『古今和歌集』

『歎異抄』

『徒然草』

シェイクスピア『オセロウ』

モリエール『タルチュフ』

『おくのほそ道』

ゲーテ『若きヱルテルの悩み』

ルソー『孤独な散歩者の夢想』

プーシキン『オネーギン』

モーパッサン『女の一生』

トルストイ『クロイツェル・ソナタ』

内村鑑三『代表的日本人』

福沢諭吉『福翁自伝』

夏目漱石『それから』

森鴎外『山椒大夫・高瀬舟』

「人生の解放」宇野弘蔵・中野重治・松田道雄 選

読書案内は松田道雄による。

ごく少数の反逆者と背徳者とは、そのあるれるエネルギーをかって、強権と道徳の手をすりぬけて、われわれにその遺書を手わたしていった。沸騰するエネルギーと、強権の迫害とは、彼らの作品に古典的完成をゆるさなかったが、作品にたぎるエネルギーは、今日、日常の安逸にまどろみかけるわれわれをゆさぶってやまない。

これが、人間の解放をテーマとして作品を選別した理由だという。

選ばれた17作品について、簡単に紹介されている。選書理由の中には時代性のある記述も散見され、興味深いので、各書籍ごとに一部抜粋することとした。なお、「選者の一人の宇野弘蔵氏が『資本論』をこのセットにくわえることを提案したのに異存はなかったが、紙数の制限でやむをえず、それにかわるものとして、マルクス『賃労働と資本』をいれた」と書いている。また、「知的日本が、どのようにマルクス主義をうけいれたかを、文学としてしめすものに、『中野重治詩集』があるが、著者が選者の一人であるために、くわえられなかった」という。

シエイエス『第三階級とは何か』
「日常の安逸は、わかい世代に、おのれを何から解放すべきかを忘れさせるにいたっている。こういう時代に、戦後になって訳されたフランス革命の聖典シエイエス『第三階級とは何か』が、もう一度読まれることを期待する。特権は、いかなる形にしろ、人間の永遠の敵だからである」。

マルクス エンゲルス『共産党宣言』
「初訳は明治三七年一一月一三日附『平民新聞』に堺枯川と幸徳秋水の筆によってのせられた。新聞はその日に発売禁止となり、訳者たちは起訴された」。

マルクス『賃労働と資本』
「労働者は、この非人間的な状況から脱するためには、孤立分散していてはだめだという気持に、学問的な支持をあたえたのが、大正の末から昭和のはじめにかけてのマルクス主義であった」。

エンゲルス『空想より科学へ』
「マルクスの社会主義の歴史的な位置づけと、唯物史観の平明な解説をつたえた」。

イプセン『人形の家』
「ノルウェーの劇作家イプセンの『人形の家』が当時の日本において演じた女性解放の役割も小さくない。悪の根源は女性にあるという俗物的男性の思想にたいする、きびしい拒絶が、そこにある。女性の女性らしさは、男性に庇護され、愛玩されるままになるところにあるという思想に、妻ノラは決然として挑戦した」。

クロポトキン『麺麭の略取』
「国会での野党としての闘争が、日本では無産党の結党禁止のため絶望的であったことから、幸徳は大衆ストライキによる直接行動が革命をよびおこしたロシアの一九〇五年革命に霊感をうけた。彼は、その理論をアナーキズムに求めた」。

幸徳秋水『帝国主義』
「社会主義者幸徳秋水は、明治三四年『帝国主義』によって、自由、平等、生産分配の公平をさけんで軍国主義と戦争に挑戦した」。

与謝野晶子『与謝野晶子歌集』
「のせられたそれらの歌は、文明開化と称しながら、女性を封建的な屈従にとどめようとする習俗にたいする、わかい女性の爆発的な反抗である」。

島崎藤村『破戒』
「藤村はあわれむべき逃亡者をえがくことによって、差別の廃止から逃亡している世間を断罪した。六〇年後の今日、われわれは、この断罪からまだ完全には逃れていない」。

長塚節『土』
「明治の時代を黄金の時代としてえがく老人の感傷史観にたいする、覚醒剤として、今日なお有効である。いまは東京のベッドタウンと化した茨城県の一地方の小作農民の日常が、歌人長塚節の針のようにするどい観察力によってえがきだされている」。

河上肇『貧乏物語』
「第一次大戦によって漁夫の利を得た少数の富豪のおごった生活と、多数人民の貧困とは、誰の目にも、奇異な対象とうつった。しかし、貧乏は人間の世のつづくかぎり、つきまとう宿命のようにかんがえられていた。この時に貧乏は治癒しうる疾患であることを説く書物があらわれた」。

有島武郎『小さき者へ・生まれいずる悩み』
「この小説は、無名の市民が、どんなにして天分を活かすために苦しまねばならぬかをかたっている。天分は受難である」。

ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』
「ジョン・リード『世界をゆるがした十日間』が当時あたえた感動は大きかった。このアメリカの新聞記者の十月革命のルポルタージュはマルクス主義の実現の実験記録としてうけとられた」。

魯迅『阿Q正伝・狂人日記』
「自由、平等という言葉が禁句とされる時代がきた。国家総動員体制のなかにくみこまれながら、われわれは心に自由と平等を忘れない人を同郷人のように愛した。魯迅『阿Q正伝・狂人日記』と太宰治『富嶽百景・走れメロス』は、そういう空気の中で、よく読まれた」。

細井和喜蔵『女工哀史』
「日本の産業の発達のもっとも目だつ部門である紡績業は、わかい農村女性の肉体を食いあらすことで成長した。男性として紡績工場ではたらいた労働者細井和喜蔵は、紡績工場の内部をくわしく描いたルポルタージュ『女工哀史』を大正一四年に公にした」。

葉山嘉樹『海に生くる人々』
「葉山嘉樹は、意識したプロレタリアとして、そのつつましい願いを実現するために、労働者は誰を相手にたたかわねばならぬかをしめした。そしてそのたたかいが、どんなに困難であるかを、えがきだした」。

太宰治『富嶽百景・走れメロス』

「生きるよろこび」桑原武夫・久野収 選

読書案内は桑原武夫が担当している。

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』
本書の主潮は、「死の自覚は、人生に悲哀を余儀なくさせることによって、かえって生きるよろこびに強度を加えることになった」ということだという。

ニーチェ『悲劇の誕生』
「アポロ的とディオニュソス的の対立をもたらすことによって、ギリシャ文化の本質を明らかにしようとした」。

トルストイ『少年時代』
「この偉人のみずみずしく、そして鋭い感覚が形成されていくさまをみごとに示している」。

石川啄木『啄木歌集』
「自由、反抗、恋愛、そして快楽と真理の探究、こうした青春的諸価値が貧困と結核という不幸によってかえって増幅されて」いる。

萩原朔太郎『萩原朔太郎詩集』
「花鳥風月の美を拒絶して、人生を感覚的に批判するという近代詩が日本にはじめて生まれた」。

『日本唱歌集』
「明治のはじめから敗戦までの多くの唱歌のなかから、名品およそ一五〇を選んでつくられたもの」。

シェイクスピア『ロミオとジュリエトの悲劇』
「恋愛文学の傑作」

井原西鶴『好色五人女』
「愛する美少年にまた会いたいばかりに放火をあえてした八百屋お七の行動を、用地ないし愚劣といわしめないものが私たちの心のうちにあり」…。

スタンダール『カストロの尼』
「こうした甘美な、そして必然的に官能的な男女の恋のなかに私たちは「純粋」を見出し、心の底からゆさぶられる」。

永井荷風『腕くらべ』
「つやっぽく、いきだが、それをささえるものとして、当然いやらしく汚いものをもつ花柳界を、リアリズムはむしろおさえて、浮世絵好みにしたてたこの作品は、遊びの要素を多分にふくみ、伝統を生かした名作である」。

三遊亭円朝『怪談 牡丹灯籠』
「これだけ複雑な筋をくみたて、江戸の風俗をもって肉づけした描写の見事さもさることながら、話術の巧妙さこそ、この怪談の最高価値である。江戸時代以来洗練されてきた大衆芸術の美しさがここにある」。

コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』
「推理小説の古典的名作」

沈復『浮生六記』
「これは愛妻の死後、これを哀惜しつつ書かれた一種の私小説である」。

フィリップ『小さき町にて』
「あくまで人生肯定と勤労尊重の態度を捨てず、庶民のつつましやかな、しかしゆるがぬ正義感を底にたたえ、しかもいささかの感傷性をふくむ珠玉の短篇」。

松尾芭蕉『芭蕉七部集』
「日本的繊細の極値をしめす詞華集」

井伏鱒二『山椒魚・遙拝隊長』
「彼のユーモアは、英米風のそれとは系譜を異にする。そこにはいつも余裕があり、ふと大雅堂を思わせる気品ある戯画のおもむきがある」。

フランクリン『フランクリン自伝』
「下層から出発しながら、いかなる逆境にあってもけっして敗北主義におちいらず、つねに活発に進取の気象をもって人生に対処した偉大なプラグマチストの自叙伝である」。

あとがき

昔の推薦図書を見てみたいという好奇心からこの記事を書いた。どの文章を読んでも今の人間が書かない(書けない)雰囲気が漂っているし、選書を見ても、今なら選ばれないだろうと思われるものが散見される。個人的には、この異質感を味わうのが面白いし、それによって得られる別の視点が、現在の自分を相対化し、発想を豊かにしてくれるような気がする。

選ばれている書物を見て気づいたことは、わずか85冊の選書のうちに同一著者による複数の本が選ばれている、ということだ。最も多かったのは、カール・マルクスで、彼の本はフリードリヒ・エンゲルスとの共著も含めて5冊も選ばれている。次いで、エンゲルスがマルクスとの共著も合わせて3冊、プラトンと福沢諭吉も3冊、マックス・ヴェーバー、ジャン=ジャック・ルソー、ウィリアム・シェークスピア、レフ・トルストイ、松尾芭蕉は2冊と続いている。

また、マルクス主義関係の著作の多さも目立つ。マルクスまたはエンゲルスによる著作は合計6冊あるし、毛沢東の『実践論・矛盾論』、ウラジーミル・レーニンの『国家と革命』、野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』といったマルクス主義ないし共産主義関係の文献が選ばれている。こうした選書は、冷戦下の当時におけるマルクス主義や共産主義の影響力の大きさを物語っているといえよう。

残念だったのは、岩波書店の販売戦略なのか、それぞれの「箱」の予算が決められていたため、選者が不本意な選択をした、という点だ。これが災いしたのか、同様の試みはこれが最初で最後となってしまったようである。なんとなれば、岩波文庫に限らず選んでもらえればよりありがたかったのに、と思う。

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