残余利益モデルの理論と実務
残余利益モデル(RIM)による企業価値評価の考え方は、強固な理論的バックグラウンドと数々の実務的な優位性を兼ね備えており、近年理論・実務の両面から注目が集まっている。今回はこれらRIMの優位性を概観し、更なる発展的モデルを理解する上での基礎固めを行う。前回はこちら。
RIMの理論的含意
前回、配当割引モデル(DDM)にクリーン・サープラス関係(CSR)を適用することで、残余利益モデル(RIM)を導出した。残余利益は、資本$${b_t}$$から生み出されるべき利益(=$${rb_t}$$:投資家の期待収益率$${r}$$と資本$${b_t}$$の積)を上回って稼ぎ出された分の利益として定義される。またRIMは、企業価値が「直近$${t}$$期に既に判明している株主資本簿価と、将来の残余利益の期待値の割引現在価値の総和に等しい」ことを主張している。
RIMにおいて資本の簿価が意味を持つのは、そこに「それまでのキャッシュフローと会計上の配分操作の履歴」が少しも失われず、全て反映されているからに他ならない。つまりCSRが簿価に意味を与えているのであり、特定時点の簿価が適正か否かについては何も明らかにしていない。RIMの理論的な世界では会計上の配分の在り方は何でも良く、CSRさえ維持されていれば必ずしも資産や負債のストックが公正価値で評価されていなくてもよく、恣意的な会計処理方針の変更も企業価値に影響を与えない(前回を参照)。
ROEの重要性とPBRの経済的意味
残余利益は上述の通り、企業が稼ぎ出す利益額$${\tilde x_{t+1}}$$が資本コスト額$${r{b}_{t}}$$を超過した分の額と定義され、投資家が資本を拠出する以上、企業側が最低限稼ぎ出さねばならない利益額に相当する。残余利益は、以下のようにROEを用いて書き換えることができる。
$${\tilde{x}_{t+1}^a=\tilde{x}_{t+1}-rb_{t}=(\tilde{\text{ROE}}_{t+1}-r)b_{t}}$$
上式に現れる$${(\tilde{\text{ROE}}_{t+1}-r)}$$はエクイティ・スプレッドと呼ばれ、残余利益はエクイティ・スプレッドと株主資本の積で表現できる。従って、「ROEが株主資本コストを上回る(=エクイティ・スプレッドが正である)こと」と、「残余利益が正であること」は同値である。
このことは、RIMベースの企業価値評価の観点からは「純利益がプラスである(黒字)」や「純利益が増加している(増益)」だけでは、株主の期待に応えたとは言えないということを意味する。企業価値を向上させるためには、長期平均的に企業がハードル・レート$${r}$$を超えるROEを達成すべきことを要求しており、会計においても株主資本コストを強く意識する必要があることを示唆している。エクイティ・スプレッドを用いてRIMを書き換えると、
$${P_t=b_t+\displaystyle\sum\limits_{\tau=1}^∞\dfrac{E_t[(\tilde{\text{ROE}}_{t+\tau}-r)b_{t+\tau-1}]}{(1+r)^{\tau}}}$$
$${⇔\dfrac{P_t}{b_t}=1+\displaystyle\sum\limits_{\tau=1}^∞\dfrac{E_t[(\tilde{\text{ROE}}_{t+\tau}-r)b_{t+\tau-1}]/b_t}{(1+r)^{\tau}}}$$
と表され、PBR:$${P_t/b_t}$$の理論的意味が解釈できる。すなわち、将来の期待ROEが株主資本コスト上回っていれば、右辺第二項が正になり、PBRが1を超え、逆に期待ROEが株主資本コストを下回れば、右辺第二項が負になり、PBRが1を下回ることが分かる。
PBRは投資実務において、株価の割安・割高の判定尺度として利用されることが多いが、その慣行は正確ではなく、PBR<1は割安を意味しない。市場から、株主資本コストを下回るROEしか達成できないと見なされていることに他ならない。この観点でPBRはむしろ価値創造・破壊の判定尺度として位置付けられるべきであることを表している。
特に、残余利益が来期の予想値$${(\tilde{\text{ROE}}_{t+1}-r)b_{t}}$$のまま、再来期以降も一定で推移すると予想される場合、上式は単純化され、
$${P_t=b_t+\dfrac{(E_t[\tilde{\text{ROE}}_{t+1}]-r)b_{t}}{r}}$$
$${⇔\dfrac{P_t}{b_t}=1+\dfrac{E_t[\tilde{\text{ROE}}_{t+1}]-r}{r}=\dfrac{E_t[\tilde{\text{ROE}}_{t+1}]}{r}}$$
ここで、PER:$${P/X=\dfrac{1}{r-g}}$$において$${g=0}$$(ゼロ成長)を仮定し上式を整理すると、
$${\text{PBR}=\text{ROE}×\text{PER}}$$
という有名な関係式を導出できる。つまりこの関係式を投資評価に用いることは、DDMとRIMにおいて配当、残余利益共にゼロ成長を仮定していることを表している。このように、RIMの持つ経済的含意はPERやPBRのようなマルチプルを活用した企業価値評価の実務に極めて重要な示唆を与えている。
伊藤レポート:「ROE8%」の意味
RIMが持つ「株主資本コストを超えるROEを達成して初めて企業価値が創造される」との含意は投資実務のみならず、投資家との対話を通じた企業の持続的成長の達成に向けた、ある政策提言の理論的支柱となった。
その政策提言とは、伊藤邦雄一橋大学教授(当時)を座長として2014年8月6日に公表された、経済産業省の『持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~』プロジェクトの最終報告書、通称『伊藤レポート』である。このレポートでは、企業が投資家との対話を通じて持続的成長に向けた資金調達を行い企業価値を高めるための課題を分析し、提言を行っている。また、ROEの目標水準を8%と掲げたことで大きな反響を呼び、2017年10月26日には続編にあたる「伊藤レポート2.0」が公開された。
初代「伊藤レポート」の基本メッセージは、①持続的成長の障害となる慣習やレガシーと決別する、②イノベーション創出と高収益性を同時実現するモデル国家を目指す、③企業と投資家の「協創」による持続的価値創造を目指す、④株主資本コストを上回るROEを目標とする、⑤企業と投資家による「高質の対話」を追及する、⑥全体最適に立ったインベストメント・チェーン変革を目指す、という6つである。
以上の提言は、金融庁が2014年2月26日に策定・公表した「スチュワードシップ・コード」や、日本証券取引所が2015年5月13日に公表した「コーポレートガバナンス・コード」と強く関連している。特に④のROEの具体的な目標として「最低限8%を上回る」よう要請する提言は大きな反響を呼んだ。このROEを重視した提言は、RIMによって理論的に正当化されたものである。
「ROE最低限8%」の根拠として、レポートでは次の2点を指摘している。
国内外の機関投資家が日本企業の株式に期待する株主資本コストとして、海外投資家の平均値:7.2%、国内投資家の平均値:6.3%との調査結果が得られ、ROEが8%を超える水準で約9割のグローバル投資家が期待する株主資本コスト上回るようになる点
過去10年の日本株全体のROEとPBRの相関から、ROEで8%の水準が市場の企業価値評価の分岐点となっている。つまり以下図のようにROEが8%を下回る点ではPBRが概ね1倍前後の横ばいで推移し、ROEが8%を超過するとPBRが右肩上がりで上昇する点
上記より、グローバル機関投資家が日本株に求める株主資本コストは概ね8%程度というのが市場のコンセンサスであり、8%を上回るROEを達成して初めてその企業は「株主から預かった資金を活用して価値を生み出している」と投資家から判断され、業績に応じて企業価値も評価を受けるようになる。
しかし日本企業のROEは長期間、投資家の要求水準である8%を下回ってきたため、グローバル投資家は日本株を利益水準で評価する通常の株式投資の対象と見なしてこなかったと考えられる。企業が利益水準で評価されない局面では、尺度は解散価値に頼らざるを得ない。企業の解散価値である1株当たり純資産(BPS)が株価形成の目安となり、その結果、ROE8%以下ではPBRが1倍前後で推移してきたと見られる。
このように、RIMはROE、株主資本コスト、PBRに極めて重要な経済的意味を与え、その影響は投資実務のみならず、グローバル投資家と日本企業の対話を促進するための政策提言にも応用されている。
RIMの実務上の優位性
RIMは上記のように理論的に重要な示唆を導くに留まらず、投資実務上の観点でも数々の優位性を有している。以下では特に実務の観点から、他の企業価値評価モデルと比較した際の優位性について述べる。
無限期間から有限期間へ
RIMは無限期間を対象にした企業価値評価モデルだが、実務において無限期間の将来を予測することは不可能なため、多くの場合、一定の有限期間については詳細に予測をする一方、それ以降の将来については定常状態を仮定し簡便的に予測を行う。この時、予想期間を$${T}$$期とする場合の$${T}$$期時点におけるターミナル・バリュー(終端価値)$${TV}$$を用いてRIMを以下のように書き換えることができる。
実務上、DDMと比較し、RIMにより推定される企業価値の方が、実際の時価総額に対する推定誤差が小さいと言われている。無限期間の理論モデルでは両者は等価にもかかわらず、有限期間の制約の中でパラメータを代入した推定にモデル間の優劣が存在するのは何故だろうか。この点を巡り、以下の3点のような論点が提示されている。
RIMの優位性①:ターミナル・バリューの影響度
第一に、ターミナル・バリューが企業価値に占めるウェイトとそのボラティリティである。RIMでは既知の株主資本簿価の実績値と有限期間における残余利益の割引現在価値、ターミナル・バリューの3要素で企業価値を推定するが、確定的な資本簿価をアンカーとするためターミナル・バリューの企業価値評価額全体に占めるウェイトは相対的に小さい。従って、仮にその推定に誤差が生じても、それが企業価値の推定に与える影響は相対的に小さい。
対してDDMでは配当流列、実務上よく用いられる割引キャッシュフローモデル(DCF)ではフリー・キャッシュ・フローの流列そのものをターミナル・バリューとして推定する必要があり、RIMにおける株主資本簿価のような確定的なアンカーが存在しない。従ってターミナル・バリューにおける企業価値の推定誤差が問題となり、それが企業価値に与える影響は相対的に大きい。
実務上、ターミナル・バリューは各モデルにおける流列の$${T}$$期後における予想値を基準とした定成長モデルを想定し、その流列の永久成長率$${g}$$をパラメータとして組み込む場合が多い。この時、永久成長率$${g}$$の変化に対する企業価値の変化幅が、RIMにおいて相対的に小さくなる。以下が、ターミナル・バリューとして定成長モデルを採用したRIMとDDMである。
RIMの優位性②:推定の容易さ
第二に、各モデルにおけるフロー流列の推定の容易さが挙げられる。RIMでは残余利益、DDMでは配当、DCFではフリー・キャッシュ・フローが該当するが、各モデルとも有限期間におけるそれら流列を何らかの形で無限期間の流列に変換して割引現在価値を推定する点に相違は無い。
一方、その推定難易度に関し、会計利益は各期の値そのものが恒常的利益の指標として機能し得る点で、他のモデルと比較し優れている。短期間において配当流列は株価変動ほどには変化せず、硬直的もしくは非弾力的な動きを示すことが多いため、配当は株価に対して実証的には価値関連性が高いとは言えない可能性がある。逆にフリー・キャッシュ・フローは大規模な投資によりマイナスになることもあるようにかなり不安定であり、鋭敏に過ぎる側面がある。これら両極端なキャッシュ・フロー流列の中間的な存在として、会計利益はたとえ一期間でも平準化された恒久流列の代理指標と見なせるため、RIMに優位性があると考えられている。
RIMの優位性③:予測情報の精度
第三に、予測情報の精度が挙げられる。会計利益については、アナリストによる利益予想が存在するため、優れた予測情報が比較的低コストで入手可能である。アナリスト予想の有用性についても多くの議論があるが、一つには多くのアナリスト同士の競争により質の悪い予測が市場から淘汰される点、もう一つは複数のアナリスト予想の平均値は市場コンセンサスとして認識され、社会的合意に近い予想値と見なされるという点である。
後者の視点に立てば投資家の企業価値評価に重要なのは、「企業が公表する利益」を正確に予想することではなく、「市場参加者が予想していること」を正確に予想すること、つまり序章第1回で触れた「砂上の楼閣派」的な視点においても、RIMが非常に有用となる可能性がある
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いずれの論点も更なる検討を要するが、RIMの理論・実務の両面での優位性は、利益情報の有用性を再確認させ、それに基づくファンダメンタルズ分析の復権をも確かなものにしているとの見方もある。
次回は今回議論したRIMの特徴を基礎とし、更なる発展的なモデルが有する理論的・実務的な意義を整理していく。
次回はこちら。