
真実とは何か
思考のフレームワーク、縁起のフレームワーク
生き残ることをテーマに自分は生きていると思う
皆が言う豊かに生きるということを一生懸命考えたことはない
ただ危機感としてホームレスになりたくはないというのがあったし、
卵焼きが食べられなくなるのは困るぐらいはあった
もし豊かに生きるって事に近いといえば、子どもの頃はおもちゃがほしかった その感覚は今37歳になっても、子どもができても変わらない
そんな自分が本当に望むことは何か、ぼやーっとなっていたものが、この年まで、本当に望むことというテーマに10年以上見つめていたと思う
それは文字通り、どこか頭の中でずーーーっと置いておいて、暇さえあれば見ているようなものだった
何かをカタチになさないと、と焦った時もあった、しかし自分の怠惰には勝てなかった 勝てないのならば作ってもしょうがない
そうやって、今まできたが、なんかやる気がある時はノッテあげるほうが気持ちがいい、そして今がその時、
アンテナが見つけたもの
なので、気が向いた時しか動かなかった
だからこそ信じられる 気持ちいい中で見つけたから本物の気がする
上記の通りなので、上っ面にも見えるが、そうではなく、そのように自分自身が信じている。そして下記だ。
もちろん一般的な文化的イメージより、ちゃんと自分自身で咀嚼し、解釈していき、気持ちがいいものとして観える
この世で生きる必要な事項であり、特性と捉えている
クロード・レヴィ=ストロースが著した野生の思考で示した「日曜大工」
抜苦与楽で示される「慈悲」
観る事は、言えることに繋がる、その観る事を自在に行える「観自在」
そして上記の3種を駆使してこそ成立する「空(くう)」
今を生き、今を事実として語れる「縁起」
これらによって、すべての事象が語れるし、すべての事象に興味が持てるし、そして何より自分自身が何者かがわかる、それがわかるだけで十分。
後は、周りを好きな環境にし、そこで生きるだけ、非常にシンプルだ
アビリティの話
そんなスタンスでいたとしても社会的動物であるヒトは、スタンスだけでは生きられない
社会で役立つ能力が必要 特に言語化するチカラがないと、どうしても不和が生まれ、余計なドラマが発生する
それもまた人生と楽しめるかどうか各個人の良し悪しによるが、なるべくそういったドラマをコントロールしたいなら、能力を持つ必要がある
前で紹介した五つは、誰でも持っている特性だと捉えてほしいので、けっして能力としてみてほしくない
能力は、縁起に影響をあたえ、それが何をもたらすのかは、人間万事塞翁が馬であり、観自在によって何でもよく捉えることができるものとも言える、
なので、能力は堂々と使っていこうよ、と言いたい
特性の話
「観自在」で観える事、言える事とは何か
たとえば観えた事や言えた事について整理した時、それらは特徴だったり、特性だったり、定義として捉える事ができる
その分類の中で注目したいのは、特性、つまり性質です
特性を見誤らないようにしたい
例えば正義という特性は何か、私は「悪化を止めること」であり、それ以上でもそれ以下でもないと捉えます。
なので誰かを咎めることではない、アピールすることでもない
それらは不純だとも思ってます
その正義というのは、皆さんに伝えなければならない、伝えたい共感してほしいものではあります
ただし、それさえも正義としては不純であり、正義とは陰徳とも言えるかもしれません、私の捉え方では。
ですが、正義と呼ばれるものは共感されてほしい良き感情や感性でしょう
まさに誰かに伝えるという「表現」の特性が、正義の性質と相対すると言える
だからエンターテイメントでは、表現界隈、たとえば歌舞伎の世界では「見得を切る」というものになる
それは「表現」の特性、誰かに伝えるというものの中で、正義を伝えたいという方向性。しかし正義の本質は伝えてはならない
だから工夫をするのです、表現の中の「正義」を示すというデザインを作った
だからここで言いたいのは、スカッとするという理由だけで晒すな、咎めるな、それは正義ではなく、むしろ別の悪化でしかない
正義を執行したいなら「静かに」本当に悪を止められるデザイン(機能性)を駆動させる、それだけだ
フレームワークの話
特性とは性質だから、いわば「そういうもの」
なのでフレームワークも「そういうもの」だ
思考のフレームワーク、それは思考における構造(そういうもの)が日曜大工であり、点である日曜大工に、線である縁起のフレームワークが「空(くう)」がある。その点と点を結ぶのが慈悲(個性)、そしてその道はすでに運命として決まっており、さとりの道であり、仏道である、
上記の様に言い切っているのがお経だと、私は思っている
だけど疑いたい自分もいるが、それを真向から否定できないのがね、、、
上記のフレームワークを認識してコントロールしたら、どんな状況でも好転できるから
そうね、なんというかゲームでいうところの、、、常にバフ状態
真実の話
「観自在」でその事実を観ることや言えることは、それも含めて事実です
事象に対して、観測者はどのように評価するか、そして評価されたか、すべて事実であり、そうであるという「真実」
先ほどの五つの特性を認識してコントロールをしている人もいれば、特性を感じたまま使っている人もいる
また、その特性プラス能力で、社会を生きている人たちはたくさんいる
そういう人たちのちゃんぷるーの中にいて、
その一人一人の真実や、誰かと一緒にいる時に一緒だからこそ互いに感じ得た事など「観える」ことや「言える」ことは、どこまでもいくらでも「在る」
ただ能力がないと表現できない
そして裏を返せば、表現されていない真実は「在る」わけだ
だからこそ観えること
五つの特性で観てみると、誰かが観ていることも観えるし、今自分が観ていることもわかるし、自分が観たい物事も観える
上記はすべて真実として、
これを読んでるあなたの真実とは何か。