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私が人生を語れる理由。

俺ちゃんが俺ちゃんになるまで。

なぜ私が人生を語れるのか。
ここでは、私の今までの人生をお話します。

底辺から強い女へ転生した。
自分の人生、自分で舵を切る
私が強い女を語れる理由をここに書きます。

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私の過去の出来事を語るにあたり
生々しい表現や、かなりグロテスクな表現が含まれます
実際の傷跡などの写真もあるため、PDSDやトラウマをお持ちの方は
慎重に記事を読み進めて下さい。

それじゃあまずは幼少期の頃まで遡るよ。
まず1番最初に私を待ち構えていた試練は

6つ程年上の女の子2人が首謀で
その取り巻き3人~5人の女の子たちから
私はいじめを受けていました。

ブランコから落とされたり
滑り台から落とされたり
喉から血が出るほどのいじめを受け
私という玩具に飽きると彼女達はさっさと帰っていく。

なのにまた次の日には私を誘いに来る
遊びたいからじゃない、いじめたいから。

当時の私は4歳で
毎日誘いに来るいじめっ子達の気持ちを理解することが出来ず
「今日は遊んでくれるのかな?」
「今日はいじめられないのかも」

なんて思い、毎日いじめられて帰るそんな日常が3年以上続いきました。

私も小学校へ入学する歳になって
入学してすぐ、私に起きた変化、それは

もう二度といじめられまいと、子どもながらに決意し
「もう私は誰にもいじめられない!」「私は強くなる!
と無意識にマインドセットを行い
結果どこかで間違えたのか、ただの不良になってしまいました(;'∀')

気に入らないことがあれば椅子を投げ机を投げ人を威嚇する。
力で相手をねじ伏せようとする。
先生、生徒、先輩後輩、誰彼構わず

これが私のやり方で、これが私の強さだと、当時は思ってた。
でもそれと同時に強く感じた違和感
忘れない、小学校3年生のある日、私は思った

家にいても楽しくない、学校にいても楽しくない
じゃあ私はどこに居たらいいんだろう?
居る場所なんてない、ここしかない、だってまだ子どもだもん。

この頃から少しずつ私の睡眠障害が始まっていた。

隣で寝ているお母さんお父さん
もしお父さんとお母さんが○んだらこんなに静かになるのかな?
と突然考え、怖くなって母を起こしてみたり

今地震が来て、みんな死んじゃって、自分だけ生き残ったら、どうやって○のうかな?

こんなことをよく考えるようになり、夜一人で泣くことが増えていった。

そしてまたふと思う。
本当に私って、お母さんの子なの?
私はそのまま母に聞いてみた。
すると母は少し不思議そうな顔をして
母子手帳とへその緒を見せてくれたのを覚えている。

私の心は
幼い私には気づかせないように
どんどん暗がりへ吸い込まれていっていた。

そんな風に心が壊れていっていることにも気づかず
私はいつもどおり、学校で暴れ回っていた
でもね、小学校5年生の時に気づいた

そう、気づいたらみんないなくなってました。
私が怖くてみんなどこかへ行っちゃったんだよね。
当たり前だよね、だって私がしてた事って

私、間違えちゃったんだよね。なんか道を間違えたよ。
当時のみんな、怖い思いをさせてごめんね。

私はいつの間にか、いじめられっ子から
いじめっ子になっていたことに
小学校5年生で初めて気づいた。

この頃にもう1つ
私の中で大きな問題があった。それは

家族の問題。
うちの父は気が短くすぐに暴力を振るう人だった。
私は父から暴力を受けたのはたった1度しかないけど
母は数え切れない程、父に暴力を振るわれていた。
そして私の兄弟も。
私は歳が離れた末っ子だったから父は私だけは大事に扱っていたそう。
DVは私が産まれる前が1番酷かったみたいだけど
その夫婦喧嘩はそれからもずっと続いていて
いつ父が殴り掛かるのではないかと怯えながら
私はおばあちゃんがいる部屋にいつも走っていくのです。
(二世帯住宅だったのでお隣がばあちゃんちだったの)
いくら自分が殴られないとしても
男の人が女の人を殴りつける絵面というのは
なかなかに強烈で、そこから聞こえる悲鳴や
色んなものが壊れていく音も私には恐怖でしか無かった。

そしていつも駆け込み寺として逃げ場となっていた
ばぁちゃんは、いつも昔の遊びを教えてくれた。
おはじき飛ばし、メンコ、お手玉
一緒に遊びながら、怒号が聞こえなくなるのを待つ。
夫婦喧嘩が終わったあとの空気もまた、最悪なのです。
ダイオキシン大量発生とゆう感じ。
年の離れた兄弟と母は
「もう離婚した方がいい」「あんな奴はいらない」
そう、誰も父を止められる人はいなかった。
暴力や暴れ回る父から逃げるには「離婚」しか無かったのだと思う。

今までボコボコにされてきた兄弟と母の目に映る父の姿と
なんだか大切に扱われた私の目に映る父の姿は違い
「離婚」という言葉は、あの頃の私にはとても残酷で
1人でお風呂に入りながら泣いていた小学5年生。
なんだかな、今思い出すと、私は毎日泣いていた。

いつものように学校から帰宅したある日
「ただいまー」と玄関を開けると、そこには
母に包丁を突きつけている姉の姿が…
家族が家族を〇そうとしている。
私はこんな家庭で育ちました。

そしてもう1つ、私の中で問題があった、それは

私が小学生の頃、帰ると家には母がいて
「おかえり、じゃあパチンコ行ってくるから」
と言うなんとも摩訶不思議な生活をしていた。

でもいつからか、
大きな二世帯住宅の家におばあちゃんと2人。
お母さんがいないことが寂しくなり
学校から帰宅して「パチンコいかないで」と言っても聞いてもらえず
「勝ったらお小遣いあげるから」といっていつも母は出て行く。
ちなみに
私以外の家族はみんなギャンブルにハマっていて
毎日パチンコの話ばかり、皆が各々にパチンコ店へ。

そして勝ったらお小遣いが貰える
「お留守番ありがと」と言われ、お小遣いをもらうが、それは
我慢してくれて「ありがとう」という意味だと言うことを私はもう理解出来ていた。

母は母で、父からの暴力などが原因で精神病にかかっていた。
でも当時は、今ほど精神病に関して理解はなく
ずっと家に引きこもり状態だった母が
唯一行けたところがパチンコだったらしい
だから嬉しくてねって。
大人になってから母に謝られました。
いいんだ、昔のことはもう。母も悪くないし、私も悪くない。

学校でも家でも一人ぼっちのまま、私は中学校入学を迎える。

「もう大人しくしよ」「中学は友達たくさん作ろ」
と、不良から真面目な生徒に変わろうとした私に
悲報が入ることになる、その内容とは

そうですよね~(꒪⌓꒪)
日頃の行い+髪を茶髪にしていたので
先輩方はきっと私をお気に召されませんでした。
残念ですが自業自得です‎(߹ㅁ‎߹)
でもとにかくもう目立つことはせず
みんなと同じように過ごそうと決めました。

入学後、先輩方からの数々の嫌がらせが始まりました。

トイレに監禁されリンチまがいなことをされようと
通りすがりに「ブス」と言われようと
私を潰すための計画があると耳に入った時も
私、負けませんよ。
あー言われたらこー言うし、殴られたら殴り返す
そしてまた、目立ってしまうのでした…(꒪⌓꒪)

でもそんな日々も半年くらいで
先輩たちとのいざこざもなくなり
友達とも中々に上手にやっていました。
でもなぜが

みんなと同じように笑い、みんなと同じように行動し
群れから省かれないように立ち回り
校則というわけのわからないルールに縛られ
口だけの教師という人たちを好きになれず
やる理由もわからない勉強をさせられ
友達はいたように見えていただけで
私は学校が大嫌いだった。

もちろん、家にいても居心地は悪かった。

この時期ぐらいから
私の心はどんどん手の届かないところまで
沈んでいきます。

この頃、中学2年生の私にはまた変化があった

どこでそれを知ったのかわからない
何でそれをやろうと思ったかもわからない
でもそれからは
嫌なことがあるとそうゆう行為をするようになった

そして中学卒業と同時に進学校へと私は入学した。
でも高校に通ったのはたったの1ヶ月

母はその頃の私を反抗期だと言っていましたが
今思えば、反抗期はもちろん
でもメンタル的な何かを抱えていたんじゃないかと思いますね。

それからの私は絵に描いたような非行少女
どんどん家に帰らなくなり、夜遊び、深夜徘徊
つるんでいた人たちは、名前も知らない悪そうな人ばかり
今日は誰もいないじゃんって日は
1人でずっとコンビニの喫煙所に朝までいたり
そこで出会った悪そうな人に着いて行ってみたり
怖い思いも当然しました。
でも、ひとりでいるよりマシだった。

どんどん空が明るくなっていくのを眺め、あぁ、また一日が始まるのか。
とため息。そしてその摂理に逆らうように、朝になると家へ帰り寝る。
そして夜に起きてまた活動する。
そんな私を心配する母に暴言を吐き家を出る。
何を言われてもうざかった、母だけではなく父も兄弟も
あんなに優しいばあちゃんでさえ、みんながウザくて鬱陶しくて

そしてそう思う自分が1番

いつからだろう
生きることに疲れ、生きる感覚を失い、
私はただ呼吸をするだけの生物で
自分にだけノイズがかかっているように感じてた。
生きていても、○んでもどっちでもいい

中学2年生から始まった自〇行為も、毎晩するようになる。
やり方もどんどんエスカレートする。
血が出れば出るほど心地よくて

止血することも無くそのまま煙草をふかしぼーっとする。
その時間だけが、生きている心地がした。

居酒屋でバイトを始めたときも
必ず道具を携帯していた
休憩入っていいよ~と言われた瞬間トイレに行き

止血も何もせずそのまま服の袖を下ろし
バイトが終わった頃には傷口にしっかりと服がくっついていた。
(剥がすのめちゃくちゃ痛いです(;'∀'))

バイトの帰り道

あの高さから落ちたら○ねそうだな
首○りの縄ってどう縛るんだろう
そんなことを考えるようになり
どんどん生きることが苦痛になっていった

そんな私にも彼氏が出来て
未熟な私はすぐに
「この人しかいない」「この人が私の居場所よ!」
と思い、17歳で妊娠、18歳で出産。
不安なんて一切なく、私はこれで幸せになれると思っていた。

今までずっと一人ぼっちだったのに
まさしく白馬の王子様が現れたわけだ。

でも思いのほか結婚生活は上手くいかず
私は初めての育児に四苦八苦していた。

お腹から出てきたばかりの赤ちゃん、空気に触れることも始めてで
この子にとって、私はバイ菌そのものと思い
息子に触れる前には手を洗いキッチンハイターで手を消毒していた。

そう、育児ノイローゼです。
子どもを連れて出かける時には
大きなマザーバックを2つほど持って出かけていた

中にはキッチンハイターと
持ってきすぎのオムツ 、持ってきすぎの着替え
持ってきすぎの哺乳瓶 、持ってきすぎのガーゼ
持ってきすぎのゴミ袋、持ってきすぎのタオル(バスタオルもね)
何故かのゴム手袋、クリーンコットンは新品箱ごと1つ
ティッシュ、ウエットティッシュ、おしりふき、アルコールウエッティ
種類豊富に持ちすぎなウェットティッシュ達
まだまだ沢山マザーバックに入れてた気がする

ここで私が1番問題だったのは

赤ちゃんは、夜中定期的に起きてミルクを与えますが
私は何故か赤ちゃんを泣かせすぎたら○んでしまうかもしれない。
と思い込んだこともあり、布団で寝るのをやめて、常に座って
壁にもたれて寝るようにして、赤ちゃんが一言でも声を出せば
寝起きとは思えない速度で動き、瞬時にミルクをあげていた時もありました。

常に見えない雑菌やバイ菌を気にして
息子の顔色、しぐさ、泣き方、動き方、全てに神経を集中させ
辛いと思う暇も無かった。

そんな時、息子の3ヶ月検診に行った時のこと
当たり前のように1番でかいマザーバックをもって登場。

会場にはマットが敷いてあり
そこに赤ちゃんを寝かせて待つ人や、
ミルクをあげている人、赤ちゃんと遊んでいる人
いろんな人が検診の順番を待っていました。

私はまずゴム手袋を付けて、マザーバックからバスタオルを2枚取り出し
2枚重ねてマットの上に敷き、枕を置いてそこに息子を寝かせました。
そしてもう1枚バスタオルを取りだし
自分の横に敷いて、その上にマザーバックを置きました。

ゴミ袋を自分の隣に用意し、ゴム手袋を捨て新しいものに付け替えます。

順番が進むと、行列がどんどん前へ動く度に、私だけがスムーズに動けず
あーもうこのバスタオル汚いから変えなきゃ
あー最悪マザーバックがマットについちゃった
でも急がないと後ろの人が…なんててんやわんやしていると
保健師さんが私のところにやってきて、私を別室へ移動させました。

すると保健師さんは
お母さん、マザーバックに沢山荷物入れてきたね。何持ってきたの?
と聞かれたので、バックを開けて、中身を見せました。
すると、このキッチンハイターは何?と聞かれたので
息子に触る前にこれで手を消毒します。
と言うと、手を見せて欲しいと言われ手を見せると
ハイターでボロボロになった私の手を見て
私にたくさんのことを話してくれました。
赤ちゃんって結構強いのよ、そこまでしなくてもいいのよと
とても優しく話してくれたのを覚えています。
そして最後に
お母さん、辛くないですか?と聞かれました。
その時初めて、生まれてから3ヶ月間のことを思い出し
なんか、辛かったかも。と思った瞬間私は涙が止まらなくなりました。

そこから少しずつ
育児ノイローゼは改善していきました。
が、…
私のメンタルは全く回復していませんでした。
元旦那とは毎日喧嘩ばかり。
非行少女上がりの喧嘩はなかなかに激しく
毎日家の中がぐちゃぐちゃに…

私はこの子に生きていて欲しい、幸せになって欲しい
と思う私が、生きていたいと思わない矛盾にずっと悩まされていました。

これでよかったのか
いやもう産まれたあとだよ
今更何考えてるんだ
私はこの子が大好きで大好きで
幸せになって欲しいんだ。
だけど生きてても楽しくないよ。
私はこの子に人生の何をも教えることが出来ない。

そう思う度、辛くなる。
こんな人間に育てられて、この子はまともに育つのだろうか。
幸せだといつか言ってくれるだろうか。
ママでよかったと言ってもらえるだろうか。
でも今私が○ねば、この子はすぐに私のことが忘れられるだろう。
いないものだと思って育つだろう。
それが正解なのではないか。

元旦那に相談するも
私の言ってることが何一つ理解できないと言われ
私はまた1人になった。

そこからは、〇ぬか、生きるか
そればかり考えながら必死に息子を育てた。

そして20歳の時、私は病気を発症する

発症の原因は、吐き気 たったそれだけのことだった。
当時、急性胃腸炎にかかった私は
トイレから出られなくなり、トイレの住人になっていました。

腹痛だけではなく、どんどん気持ち悪くなってきて
吐き気がピークを迎えた時
え?これどうなるの?とパニックを起こしました
(ただ吐くだけなんですが)自分では気づいてなかっただけで

その後その気持ち悪さはどうなったかと言うと
パニックになり何もコントロール出来なくなった私は
その場で吐いてしまいました。
それと同時にパニックは絶頂を迎え

心臓が口から飛び出そうで、全身の血が逆流している感じ
寒くなったり暑くなったりして
内臓が全部固まってしまったように動けないし、声も出せない。
体は震え、自分が生きているのかもよくわからない。

え?どうゆう状況?て思うでしょ?
でも、パニック発作を経験している人は
この感覚がわかるんですよね。

まじでそう思いました。
○ぬのはいいけど、こんなに苦しいのは聞いてない。
心の中で思ったのを覚えています。
そんな状態を90分ほど耐えていると、徐々に体調不良は良くなっていき
なんだったの?という感じでした。
でも1時間後、今度は吐き気もなしに、突然やってきました。

その発作の波は一晩中続き、私は疲弊し
その後は予期不安などに悩まされることになり
家に引きこもりがちになりました。

もし外にいる時にあれが来たら…と思うと
怖くて外に出ることが出来なくなり、ご飯を食べたら吐き気に
襲われるんじゃないかと思うと、ご飯も喉を通らず
ほぼ飲み物だけで、ほぼ布団の中で過ごしていました。

内科に行っても問題はなく、心療内科を進められたため、心療内科へ。
すると、パニック障害と診断がされました。

私は薬を服用しても良くならず
そこから何年もパニック障害と向き合っていくことになりました。

そして20歳の時、私はもうひとつの問題にぶち当たっていた
それは

姉と私は少し歳が離れており、精神病を患っている母に変わって
オムツを変えてくれたり、ご飯を食べさせてくれたりと
よく私のお世話をしてくれたそうです。
たくさん遊んでくれる優しいお姉ちゃん
綺麗で自慢のお姉ちゃん

私は姉をこんなふうに思っていました。

でもいつからか、推測ではあるけれど「母親」という同じ土俵に立ってから
その嫌がらせは始まりましたが、最初は少し嫌味を言われる程度で
ん?とは思っていたものの、あまり気にならず
でも私に対する姉の限度はどんどん酷くなり

・子どもをほったらかすな
・あんたが親で子どもが可哀想
(それを息子に言ったりもする)
・ほんとに恥ずかしい親だね
                                         などなど

親としての私を全て否定される
当時私は実家暮しをしていて
姉は自分の子どもを連れて実家に毎日来ては
私を毎日全否定してくる
「私ってそんなにダメな母親なのか」
「やっぱりあの時○ねば良かった」
と思い込む日がどんどん増えていき

毎晩夜になると、息子の寝顔を見ながら私は謝る。
でも姉からのいじめと、うつ状態が相見えて
その日私は衝動的に行動してしまう。

姉からのいじめを勇気を出して母に伝えてみた、すると母は
「あなたが我慢して、そのうち無くなるだろうから」と私に言った。

自分が嫌になる。
そのピークをパチンと越えた感覚がした。そのとき

近くにあったハサミで、自分の腕を○した、何度も何度も。
産まれてくるんじゃなかった
産まれてくるんじゃなかったと

泣きながら○し続けた。

そしておそらく、気を失った。

次の日の朝、同居していた母に起こされた
とんでもなく慌てふためく母、何故なら

隣で寝ていた息子は幸いにもまだ起きておらず
当時の旦那だけが仕事に行ったあとだった。

母は一生懸命冷静を装っていたが
目が小刻みに動いていたことを覚えている。

隣でスヤスヤ眠る息子に、心の中で一言「ごめんね」と言った。

そして元旦那が仕事から帰ると私の母は
どうして私があんなふうになっていることを教えてくれたなかったのか
自分が起きた時に見たでしょう、と聞いたようだった。

すると元旦那の返事はいつものことでしょ?だったそう。
この一言が、私たち夫婦の関係を全て物語っていました。

私が姉からのいじめて悩んでいても「俺に言われても困る」と言われ
どうしたら普通に過ごせるだろうかパニック障害によるうつ状態の時に
相談した時も。
「お前頭がおかしいんじゃない?」面倒くさかったのだろうと思います。
そんな元旦那に対してわかってくれないなんて非難はしない。
だってあなたは健康だから、わからないよね。
でも寂しかった。

夫婦生活も7年目、相も変わらず毎日喧嘩。
それを見て泣く我が子
喧嘩という刺激により止められない私の衝動
ずっと前からわかっていた離婚した方がいいことは。

毎日夫婦喧嘩を見せることが
どれだけ子どもにとって恐怖か私は知っている。
旦那さんからも、姉からも、自分を否定され暴言を吐かれ、
私という存在に呆れられ、見放される。
自分の心をスルーされる寂しさ。
それによりまた自○行為を繰り返す。
結婚生活に自信が無いとか、やっていけるかわからないとか
もうそういう次元じゃなかった。

そう伝えた数日後には、離婚となった。

そこから私はシングルマザーとして生きていくのだが
中学2年生から始まった自○行為を、終わらせようと決意した。
心は壊れ、体も限界、それでもひとつだけ
私の中で確かにあったもの、それは

この子だけは幸せになって欲しい
この子だけは生きていて欲しい
この子の笑顔だけは奪ってはいけない
当時の私にはこの子の命が原動力であり
私の覚悟は決まった

私は近くの美容整形外科へ連絡し
自○行為の傷跡を消すことが出来ないかと相談した
形だけでも、気持ちだけでも、立派な母親に生まれ変わりたかった。
私の生きたいか生きたくないかなんて関係ない
この子のために私は生きるべきなんだと
生きる意味を自分で決めることにしました。
相談の結果

火傷の跡のようになるが、独特な傷跡は消すことが出来る
消すと言うよりは、太ももから皮膚を持ってきて
傷跡の上にくっつけて隠します。

綺麗になんてならなくてもいい
これは私の心の傷なんだから。
復讐心に近かったかもしれない
お前たちに傷つけられたこと、一生忘れないぞ。
そんな気持ちもあった。

私はすぐにお願いします。と返事をし、手術を受けることになった。
眠る薬(全身麻酔ではないよ)を入れて
眠っている間に手術を終えるという説明をされ
私は先生に質問をした
持病(パニック障害)を持っていて、睡眠薬も結構な量飲んでますが
すんなり眠れる日はありません。こんな私でも大丈夫でしょうか?
(手術中に痛いのは嫌だ(
))

すると先生は、
あなたは小柄なので心配ないですよ。
と言いました。
体が大きい人だと薬が全身に巡るまで少し時間がかかるそうで
私の場合は背も低く細身だったので
すぐに寝ちゃうと思いますよと笑ってくれました。

その先生の笑顔がなんだか嬉しくて
安心して手術当日を迎えました。

病院に着くと、ベッドに横になり、肩に注射をされました。
悶絶()なんかすごい痛いんですけど!
(思わず言ってしまいました)
筋肉注射だからね~なんて先生は呑気で、そしたら点滴から薬を入れますね
と注射器から点滴へ薬を入れました。先生は、1.2.3.と数えていましたが
記憶に残っている最後の数字は「5」でした。

でも手術の途中なんだか「痛い!」と思い
ぼんやり起きた記憶があり、術後に聞いてみると
太ももから皮膚を持ってくる時に、例の筋肉注射をしたら暴れました
と言われました(;'∀')
暴れた記憶は無いのですが、ぼんやりしながら暴れたそうです。
でも5秒程でまたすぐ眠ったようで
「夜眠れない時この薬処方してくれないかな」
と本気で思いました。(無理です笑)

そして患部はガチガチに固められ、動きずらい毎日を過ごし
とうとうギブスのようなものを外せる日になり
病院へ行って外してもらいました。すると私の腕はこうなりました。

ちなみに、皮膚を持ってかれた太ももの方はこうなってます。

このような手術を考えている方や
今現在自○行為を繰り返している方の
参考になればと思います。

そして心機一転、抱えてるものは大きいけれども
まだまだ生きていく意欲は湧かないけれども
私はごちゃごちゃ言わずに生きるべき!と心に決め、再出発しました。

でもすでに問題はあった…(꒪⌓꒪)
(これがまさしく次から次へとってやつです)

・息子の登園拒否
・私の体の限界

息子の登園拒否により
私は仕事に行けない日が多々あった。
そしてパニック障害を、患っていたために
職場で発作を起こすこともあり
なかなかに辛い日々を送っていた。

仕事を休んだり、保育園を休んだりどうしたらいいかわからないまま
2年ほど過ごしていました。

なぜ息子が保育園に行きたがらないのか
それがあっていたのかどうかは未だに分からないけれど
私に構ってもらいたかった。ただ私と一緒にいたかった。
それが理由だったのではないかと未だに思っています。

パニック障害を発症し酷かった頃は
布団の中から出ることも出来ず
吐くことが怖くてご飯を食べることが出来ず
常に私はフラフラでそんな中、姉からのいじめにも耐え
母もそれを望み、元旦那は私の事なんて見てもいない
ただただ呼吸をする為だけに生きていたあの頃
私は布団の中で過ごすことが多かった。
思う存分、息子を可愛がることが出来なかった。

なので再出発したすこし元気になった私を見て今なら甘えられる。
息子はそう思ったのだと思います。

でも、病気って、そんなにすぐ良くならないんです。
気持ちとかで解決出来ていたら
おそらく今パニック障害という病気は無くなっています。

ではなぜ私は布団から出て働けたのか
それは

薬を飲まないでいる私は、本当にただの廃人で
風が吹けば消えるような気力しかなく
自ら○を選んでも何らおかしくない
でも今は
私はお金を稼ぎ、生きるべき、そのためにした事が、薬の大量服用でした。

寝る前に飲んでねと言われた薬
何かあったら飲んでねと言われた頓服
頭がぼーっとするまで常に飲み続け
自分で何も考えられないようにしていた
頭を回せないように、ただお金を稼ぐために
手や足が動けばそれでいい。
先生から言われた用法用量を守らず、この生活は5年間続いた。

そんなある日、私の目つき、歩いている時のフラつき
物忘れの激しさが原因を指摘され、脳神経外科を受診することになる。
薬を大量服用していることはもちろんお医者さんには言えませんでした。
そしてMRIを撮ることになりましたが
「薬飲みすぎてるだけだから、脳に異常なんてない」
私はそう思っていましたが
意外な事実が発覚します、それは

私、ストレスで脳が萎縮していたようです。
ところどころシワのない部分もあり
その部分にあたる日々の記憶はないでしょう。
と言われました。

そう思えば確かに、母があの時は、とか昔は、とか
そうゆう話し方をした時に、頭の中が「?」になっている時は多々あって
「そんなことあったっけ?」というときが結構ありました。
あぁ、このせいだったのかと、腑に落ちた覚えがあります。

そんなある日、いつも通り大量に薬を飲み
仕事に行く準備をしていると
なんの前触れもなく突然涙が出てきました。

え?なんで?

もう涙なんて何年も流してなかったのに
何だろう

そして何かが崩れたように
私はキッチンに向かい包丁を手にとる

でもここで、何故か知識が出てきた。
私は布団で寝たきりの頃、自○の仕方を入念に調べていた
その時の知識とは、
骨はとっても硬いので女性が一突きにする事はほぼ無理です
と、ネットで読んだことがあったのです(꒪⌓꒪)

そうか、ダメか、ダメなのか。
まだダメなのか、いつまでなの、ゴールをちょうだい。

そんなふうに思った記憶があります
そこで私は泣きながら車に乗り、近くの精神科に飛び込みました

私は何なんですか私は何者ですか何でこんなに辛いんですか
みんなは笑って生きているのに何故私は笑えないんですか
これって遺伝子ですか?○ぬまでこのままですか
と、信じられない勢いでお医者さんにせまり
話を全て聞いてもらいました
(大真面目に遺伝子ですか?って聞きました(
))

そして先生はこう診断しました

先生に病気のことを説明され、薬をもらい帰りました。

子どものように泣きじゃくりながら話したことにより
落ち着きだけは取り戻し、家に帰りました。

結論から言います。
この病院には4年ほど通いましたが
全く良くなりませんでした。

4年通い
・環境適応障害
・うつ病
・解離性障害(今は病名が変わってるかも)

など、たくさんの診断をされ、たくさんの薬を飲んだけど
私は心を取り戻す事は出来ませんでした。

そんなある日、仕事場のお客様とお話していた時のこと。
私、精神病をもってるの、とお話してくれました。
私と似てるな…そう思いながらその人の話を聞いていました。
そして最後に、どこの病院に通ってますか?
と伺ったら、病院を教えてくれました。

私も行ってみよう。そう思いました。
初診の日まで4ヶ月待ち、優しそうなおじいちゃん先生と
お話しました。
言語化するのが難しい感情を、一生懸命に私は話す。

するとそのおじいちゃん先生は
途中から私の話を止めて話し始める。

その先生は私の症状をどんどん言い当てていき
私は唖然。なんで分かるんですか?と聞くと
あなたは双極性障害だからだよ。
出産と同時に発症です。
そう言われました。

自分の正体がわかった気がした
それだけで、私は安心した

そして自分が気になっていたこともはっきりと答えてくれた、それは

これがとても気になっていた
でも、元気でいられる時間は、半日だったり
1日だったり、3日だったりバラバラで
でも一時が過ぎると、またうつに戻ってしまう。
元気になった瞬間は「私病気治ったんじゃない?」
いつもそう思っていました。
でもこれは、双極性障害の症状であり、発病したという状態でした。
双極性障害は、簡単に言うと
うつ状態(元気ない時)と、躁状態(元気が良すぎてしまう時)
これを繰り返す。
そしてまるで経済のグラフと同じように上がった分、下がる
というのが特徴で、気分が上がっても下がっても発病なのです。
治療の目標は、この波をなるべく小さくすること。
私が1人知っている人を例に出すと
躁状態(元気よすぎな時)には、テンションが上がり
民家に車で突っ込んでしまい、4台廃車にしてる方を知っていました。
あとは躁状態になると
なんでも出来る気になって、会社を辞めて起業したり
自分にはそれだけ稼ぐ力があるからと
自分を過大評価し、高い車を買ってしまったり。
取り返しがつかないような事もしてしまう。
そしてうつ状態に入った時、全てに後悔する。

そういう病気だとわかってはいても
実際そうなったときに冷静に判断することは難しく
それゆえに日常生活に大きな支障をきたすため障害と言われる。

うつ状態や躁状態を繰り返すことにより
本当の自分を見失います。

私はその病院に通院し、しばらく薬を飲んで見ることにしました。

そしてそんな私に
またも白馬の王子様が訪れます🎠

私の体を常に気遣ってくれて、いつも私を心配してくれる
初めて息子に会わせた時も、とても優しく息子もその人に懐きました。

その人の優しさや、
自分と息子を気にかけてくれるのが嬉しくて
1年ほどお付合いし、再婚しました。

理解者が現れたことで
私の症状は激変し、一気に元気になりました。
(おそらくただの躁状態であったと思われます)
そして私は、結婚から半年後、第二子を授かります。
ここからは義母からの提案で義母と暮らすことになりますが
私は病気を患っておりお義母さん達の
お荷物になるのでとお断りしていたのですが
何故か強制的に話を進められ同居することに。
同居以外の方法は認めてもらえず
義母宅に引っ越すことになりました。
そこで待ち構えていたのは

(いつも思うのだけど、まだ問題が解決していないのに、次から次へと問題が重なっていくのは何故?(ノД`)・゜・。)
人生で3度目のいじめ。
でも、子どもの頃のようにやられてばかりの私ではありませんでした。
当時の旦那は何も言ってくれなかったので
私は1人でも立ち向かっていました。
気に入らないと物を投げて暴れる義母。

そして当時、感じていた異変。
それは、吐き気
最初は義母との同居によるストレスだろうと思っていたのですが
まさかと思い妊娠検査薬を使ってみると陽性
しかし病院に行っても、妊娠は確認できず
子宮外妊娠の可能性があるとのことでその日はそのまま入院。
明日結果がでる血液検査の結果次第では
その日中に手術になると伝えられました。

赤ちゃんは大丈夫なのだろうか。
子宮外だったら妊娠は本当に継続できないのか。
ちょっと場所を間違えただけじゃないか。

不安な気持ちのまま、そして眠れないまま朝になりました。


先生が病室に入ってくると一言
「おめでとうございます」と。
ちゃんと子宮の中で妊娠していたようでまだ目で確認出来ないうちから私は
つわりと義母と戦うことになりました(꒪⌓꒪)

嘔吐恐怖症の私は
吐き気に襲われる度に青ざめ、冷や汗をかき
何度か冷たくなって倒れる
なんてことが何度も起こりました。

私も、吐き気に見舞われるたびに起こる
パニック発作と義母からの嫌がらせに、心も体も疲弊していました。
でも、このままでは出産までもたない。

そう思い私は、まず吐いてみることにしました。
とはいえ、そんな簡単にはいかず、それから3ヶ月くらいは
吐き気に襲われる度パニック発作を起こし
を繰り返しており、立っていることすらままならない
また布団の中で過ごす生活に逆戻り。
でもついに、時は来ました。
出たんです、口から!(汚い話ですみません)

体は指先まで震え、何とも言えない恐怖だったのを覚えています。
でも思ったんです、意外と大丈夫?てか、スッキリする?
それからも吐き気が来たら「吐く練習」を繰り返し
1ヶ月後には歩きながら吐けるほど
プロフェッショナルになってました(꒪⌓꒪)
(結構サラっとお話してますが、嘔吐恐怖症の人が嘔吐に立ち向かうことって、〇んだ方がマシって思うぐらい怖いんです。私の場合はお腹に赤ちゃんがいるという状況だったので、出来たことだったと今でも思います。)

今覚えばかなりの荒治療。
行動認知療法に似たようなことを
一人でやっていたのだと思います。

つわりで吐くという行為
私の場合は1日に1度や2度の話ではなく、1日10回以上がアベレージでした。
安定期に入りつわりが落ち着くことも無く
その後、妊娠悪阻で入院しました(꒪⌓꒪)

そして退院し、義母の家に帰りました。
私はその後すぐに賃貸を探し
当時の旦那を連れて義母宅を出ました。

それでもなんだかんだ、出産予定日近くまで来て
無事に第二子を出産致しました。

ここでは出産の感動を語りたいところですが
実は妊娠がわかったのと同じ時期ぐらいに
また新たな問題が発生していました。それは

おそらく300万円以上だったと思います。
返せるものはすぐにお返しし、それでも追いつかない状況。
いろんなところへ連絡を取り合い、私は何とか待ってもらえるように話し
それからまもなく

当時務めていた会社のお金を横領し、逮捕されました。
どんな流れかはわかりませんが
罪状は「窃盗」ということになり
しばらく拘留され、面会の時に離婚届を差し出しました。
元夫は何も言うことなく離婚届に記入し

しばらく拘留された後
外に出てきて、1度家に戻ってきました。
当時、不登校の小学生の息子と、0歳の娘を抱えており
・自分はパニック障害と双極性障害を患っている事
・元旦那は、更生するから一緒にいたいという
口約束の元その時の状況を考え、同居することになりました。

そのまま数ヶ月が過ぎ、元旦那の新たな借金が発覚。
こうゆう人って変わらないんだなと思いました。
でも籍は入っていなかったため私は全くそれには介入せず
生活費は入れてください
あなたの生活のサポートはします(家事)

この生活を貫き通していました。

元旦那は帰ってこないことも多々ありましたし、
キャバクラの女の子と連絡を取りあっているのも知っていました。
でもその日、私は目を疑う通知を見てしまいました。

寝ている元旦那の隣にある携帯をそっと手に取り、LINEを確認すると
なんと今働いているところの若い社員の子に、儲け話をしていたのです。
そこは、元旦那の知人の人が社長をしており、良かれと思い
元旦那を雇ってくれていたのです。
なのにこの男…と虫唾が走りました。
全ての内容をスクリーンショットし、私のLINEへ流しました
そして、その証拠を全て削除し、社長さんへ全てを流しました。

だってそこに務める人は元旦那が育てた人でもない
社長さんが一生懸命に育てた社員であり、まだ20代そこそこの若い衆に
40代の大人が儲け話と称し、詐欺まがいなことをしていた。
私は許せませんでした。

社長さんは元旦那に厳重注意し
その後元旦那は

私はそこまで驚くこともありませんでした。
やりそうなことだよねそれが感想でした。

とはいえ、これで収入源が絶たれたわけです。
不登校の息子と、まだ1歳の娘を抱え
どう生活費を稼ぐか、これが最大の問題でした。

お金のことと、稼ぐこと、そして自分の病気のこと。
頭の中をぐるぐる回り、私はうつに転じました。
(双極性障害の発病です)

ここでは、生きているだけでお金がかかる
日本で生きていくためにはまず→国民保険料
何か食べたいと思えば→消費税
働いたら→所得税

そうか、こんな私のようなゴミクズでも生きていくだけで金がかかるのか。
子ども達のために生きていくことを1度は決めた。
でも、こうなったら私はただのお荷物。
子ども達だけなら、身内になんとかお願いしよう。
そして私はその日の夜23:00母にこうLINEをした
「明日の朝7:00に、うちに来てくれる?」
恐らくその頃にはもう、私はこの世にいないと想定し
子ども達を引き取ってもらう算段でした。

そしてその後、私は家にあった薬をかき集めた
1ヶ月分の夜に飲む薬
それだけでは眠れなかった時の頓服
1ヶ月分のパニック発作の頓服薬
1ヶ月分の痛み止め
1ヶ月分の胃薬
わかるだけでも1400錠以上の薬を飲み

でも今ここでこうやって記事を書いている。
そうです、未遂に終わりました。

私の母は、夜20:00頃には寝て、朝4:00くらいに起きる人
だけど、LINEを送ったこの日、たまたま眠れずに起きていたらしい。
そして私からの「明日の朝7:00に、うちにきてくれる?」
このLINEを不審に思ったようで、すぐにうちに来たそうです。
最悪のパターンを考えたら…
そう思うとなかなかうちのドアを開けられず
しばらくドアの前で困惑していたようです。

そして中に入ると、大量の薬の残骸と、倒れている娘
すぐに救急を呼んだそうで、私はそのまま救急搬送されたみたいです。
(私は覚えていません(꒪⌓꒪))
自○未遂ということで、警察も動き、児童相談所の方も後日来られたり
すごく大変だったようです。(ご迷惑おかけしました(꒪⌓꒪))

その後1ヶ月ほどは、自分はどう生活していたかなどの記憶はなく
なんと姉の家で生活していたようです。
(書ききれませんが、この頃には姉からのいじめは無くなっていました)

それからの生活もうる覚えですが、
ここまでが、5年前までのお話になります。

どうでしたか?
びっくりするぐらいぎゅっと詰まった人生で。
ここまで読んでくれた方、え?弱弱じゃん!て思います?
いいえ、違いますよ。

いじめられっ子だった幼少期の頃とは
想像もつかないくらい、私は強くなりました。

子ども達のために、私は生きると決めた日から
子ども達が大きくなるまで…
子ども達が巣立っていくまでと頭の中で唱え
消えてしまいたい気持ちを胸の奥へ押し込み
私の耐え忍ぶ戦いは始まっていたんだと思います。

消えてしまいたいと思っていた人間。
その人生が、いつの間にか私をこんなにも、かっこよくしてくれた。

美容整形外科で傷跡をカバーしてから
覚悟は揺るがず自○行為は1度もしていません。
私は少しずつ変わり始めていたのです。
元旦那の夜逃げ、そして自○未遂をきっかけに
全ての膿が出たかのように平和になったのです。

もちろん双極性障害に関しては、
発病させないよう生活に工夫をしています。
双極性障害は、1度かかると治らない病気なので
一生付き合っていかなければなりません。
病気とお友達になれるよう、心がけています。

自○未遂から1年程たち、私は自分の人生を振り返っていました。

姉からのいじめも、何故無くなったかと言うと
母の言う通り、嫌がらせに5年程耐えましたが
私はもう我慢できないと母に宣言し、姉に自分の意見をぶつける事を伝え
話し合いの結果、最悪の場合私は
二度と「家族」という人たちとは関わらないことも考えている
ということを伝え
「私をいじめるの、やめてくれませんか?」
と姉に直接伝えたからです。
姉は「なんの事?」と言わんばかりの態度でスルーしようとしていたが
どうしても言わせたかった「ごめんなさい」と。
そしてしばらく話し合い
直接の「ごめんなさい」は聞けなかったが
「自分が妹のうつを酷くさせたのかもしれない」
と姉から聞けたことに納得した。
その時、話し合いを始めてから4時間が経っていた。
これは、我慢の限界を自分で感じ
この我慢をもう終わらせると決断し、行動したということ。

姑からのいじめも、誰も守ってくれる人がいないなか
私は立ち向かったと自信をもって言えます。
理不尽に怒り攻撃してくる姑に対し
「姑だからなんなんだ。間違っているものは間違っている」
と意見を伝えると、思うようにいじめられない状況に
義母はヒステリックを起こし泣いて出ていったり
(でもここは義母の家ですので出ていくとは思いませんでした。)
妊娠悪阻で入院していましたが
退院するタイミングで義母宅を出たこともそう。
自分が行動することで解決しました。

元旦那からボロボロと出てきた借金問題
婚姻期間中は悩み苦しみ
返す気のない元旦那に変わり、返済計画を私が考え
忍耐、耐え忍ぶ戦いをしてきました。

ここには細かく書けませんでしたが、18歳で出産をした私は
息子の通う保育園で、保護者の集まる行事があるとき
ものすごく白い目で見られ、聞こえるように悪口を言われ
散々嫌な思いをしましたが
それまで自分に起きた出来事と比べれば、そんなこと
痛くも痒くもありませんでした。
息子が熱を出して病院に行った時も
「子どもが子どもを育てるからこうなる」だとか
もしまた熱が上がった時の対応を質問した時も
「そんなことも分からないのか」と言わんばかりに、
お医者さんとそこに居た看護婦さんに鼻で笑われたり
自分が体調不良で病院に行った時も
「子どもがいるの?あー子どもが可哀想」と言われたりしました。

自分が受けた嫌がらせなんて数えたらキリがないです。
いじめだって散々受けてきました。
だからこそ、今更誰にどう思われても私は全く気になりません。
周りの目や他人の評価なんて気になりません。
何故なら、周りの目や他人と評価は気にしていたらキリが無いと
知ったからです。
私は今、自分軸で生きているんです。

お腹の子と自分を守るため、嘔吐恐怖症も克服
それによりパニック障害も激的に改善し
今ではほとんどパニック発作を起こしません。

乗り越えなくてはいけないお山の数も
どれだけ高低差のあるお山や谷も
谷しかないじゃん!なんて時ばかりだったけど
私は文字通り、必死に乗り越えてきた。
もうちょっとやそっとで動じない。

いじめ、嫌がらせ、非行、人間関係、不登校、お金、病気、離婚
もっといえば生きるか○ぬかの問題。
どんな問題だって私は乗り越えて、今まだ生きている。
それだけじゃないかなりアップデートされて生きてます。

私が人生を振り返り気づいたことは

・他人を変えることは出来ない
・いらないものは捨てる(物も人も)
・我慢はやりすぎると自分を○す
・人は皆平等ではない
・自分を大切にするということ
(別記事で詳しく書いてます)
・自分は変えられるということ
・自分が変わると人生が変わるということ
・スタートラインはいつでも自分で引けるということ

断言します、誰だって、強くなれる。

悩みと言えば
「今日の夜ご飯何にしよう?」これぐらい。

(ドラゴンボール知らない人ごめんなさい(꒪⌓꒪))
ドラゴンボールに出てくるサイヤ人て
○にかけるとめちゃくちゃ強くなって戻ってくるんです。
人ってそれと同じ(꒪⌓꒪)

だから私は語れるんです。

・自分軸で人生を歩む方法
・人生を変える方法
・自分を変える方法
・強くなる方法
・自己肯定感を上げる方法
・マインドブロックを解除する方法

私は私を変えることが出来た。

そしたら何が起こったと思う?

転けても転けても立ち上がり傷だらけのまま歩いた人生。

たくさん恥もかいた、たくさん涙も流した
たくさんもがいた、たくさん苦しくてたくさん痛かった
でも私は立ち上がり続けたよ。かっこ悪いまま歩き続けた。

だから
何か起きた時の対処法は自分の人生で学んできた。
他人からの評価や、周りからのガヤを気にすることが
いかにくだらないことか身をもって知った。
自分を守れるのは自分だけなんだと知った。
人は皆、平等なんかじゃないと知った。
神様は私を守ってなんかくれないことを知った。
他人に期待しすぎることは危険であることを知った。
他人を変えることは出来ないことも知った。
でも自分さえ強く在れば、自分を取り巻く環境を変えていけると知った。

そして私は

実際にお会いした方には、よくこう言われます

そりゃ、構えてられますよ。
だっていろんなこと経験してきてますから。
死ぬこと以外かすり傷とはこのことです。

血を吐くほどにいじめられ、それでも何も言えなかった私が
今ではこんな風に言われるんです。ありがたいことですよね。
でもこれでわかるでしょ?人って変われるんですよ。

私はあの頃の私に、その経験は全てが無駄じゃなかったと伝えたい。

私を絶望に叩き落としてく下さったゴミクズの皆様。
あなた達のおかけで、私は強くなり

これが私があの時の私を助けることであり
私なりの復讐なのです。

経験とは、とても大切なものであり
かけがえのないものではあります。

でもそれは時に残酷で、絶対に乗りこれられないような
雲の上まで突き抜けているような壁もあります
そんな時、その壁を超えることだけを考えず
壊そうとしてみたり、回り道しようとしてみたり
頭を使って道具を用いて越えようとしてみたり
乗り越え方は様々です。でも1番避けたいことは

そう、コレは当時の私の姿でもあります。

私は私を救うし、私はあなたも助けたい。
壁の話に例えると、もう私には羽がついてます
(飛び回ってますよ( ˙꒳˙  ))
人生を振り返ったことで私が理解したことは

・自分を変えるためにはロードマップがあること
・闇雲な努力は意味が無いこと
・気合いや根性だけではどうにもならないことがあるということ
・人生を変えるためにはコツがあること

もし今悩みがあって、ひとりではどうにもならなくて
悶々とした生活を送っている女の子、人間関係に悩んでおる女の子
なりたい自分に近づけない女の子、勇気が出ない女の子
いつも泣いてばかりいる女の子、頼れる人がいない女の子
苦しくて辛いのに、どうしたらいいのかわからない女の子
理解してくれる人がいない女の子
自分を変えたい女の子、人生を変えたい女の子

あなたも強くなろう。

私が道を教える、そして私は後ろから着いていくよ。
あくまでも歩くのはあなた。
私はあなたの道を照らすよ。
不安はいらないよ、だって後ろに私がついてる。

私のノートには
人生を変える方法 / 自分を変える方法
を、たくさん記事にしてあります。
有料記事は、最後にプレゼントがついてるよ🎁

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それでも自分ひとりでは難しい。そんな人は個人面談に来て欲しい。
InstagramのDMから、私と繋がって。
なんて送ればいいかわからない人は「俺ちゃんを召喚する」って送ってね。
必ず返事を送るよ☺️でも少しだけ注意点があるよ。


受け身なだけで、人は変われない。
・自分を変えるには、自分がやるしかないという事。

何が言いたいかと言うと「やるか、やらんか、決めてこい!」って事。
いい? 私はやるんだと、決心つけてこい。

注意点はこれだけだよ('ω')

ここまでたくさん書いた理由は
私が人生を語れる理由を知って欲しかったから。
そして、あなたの時間を無駄にしない為にも
あなたが共に二人三脚出来る人をちゃんと選べるように
約2万文字に渡って綴りました。

餅は餅屋です。
私は人生を語れます。
あなたの人生を変えるためのお手伝いが出来ます。
あなた自身を変えるお手伝いが出来ます。
私は、女性を強くする専門家。
今までも色んな人の悩みに寄り添ってきた。
Instagramフォローしてくれたら嬉しいな。DMでもいいよ。
色んな記事を読んでみるでもいいよ、まずは1歩だけでも憧れに近づこう。

※最後に
前述しておりますが、私はストレスで脳が萎縮しており
記憶がプツプツ途切れています。
時間軸の前後や、情報の抜けがあるかもしれません。
それでは、この記事は以上となります。

あなただって、強い女であれ。

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