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クリストフ・バロンの話 Christophe Baron- Horse Power/Cayuse vineyard

2016年5月号Wine Spectator の巻頭特集になっている弊社取り扱いのホースパワー、カユース等 ワシントン州ナンバーワン・カルトワインの造り手クリストフ・バロンの記事を訳しました。長いけど、絶対!面白いストーリーです。

クリストフ・バロン 2016年のお写真

カユースのワインはアメリカでも最高級とされ、購入待ちのリストには12,000人の名前が並ぶ。(2016年現在)
しかし、オーナーでありワインメーカーのクリストフ・バロンに会っただけでは、そんなことは想像もつかないだろう。フランス生まれの醸造家、クリストフ・バロンは、身長164㎝と小柄で、45歳とは思えない若々しさだ。(2022年現在51歳)。ジェルで立ち上げた前髪が真ん中あたりでピンと立っている。鼻筋の通った顔立ちに気品が漂い、今にもジョークを言い出しそうな表情をしている。バロンのワイナリーは倉庫のようであり、ラベルのスタイルは洒落っ気たっぷりである。彼はめったに人前に姿を現さず、ワシントン州ワラワラのダウンタウンにある彼のテイスティングルームは年に1度しかオープンしない。数々の巧妙なレーベルにもかかわらず、マーケティングやプロモーションは最優先事項でく、それよりもバロンは、ワラワラ・ヴァレーAVAのオレゴン州側のサブAVAであるミルトン・フリーウォーターのザ・ロックス・ディストリクトにある25haのヴィンヤードに全力を注いでいる。彼の成功により、このワイン産地は、おそらくアメリカで最も個性的なテロワールの例として確立された。それは、誰も気づかなかった可能性だった。

ワイン・スタジオを囲む畑アルマーダ、ラ・パシエンシア、シューエシャラ

1998年、ワラワラは猛暑に見舞われ、私はホテルの一室で涼んでいた。そのとき電話が鳴った。「畑を見に来てよ」と、ほとんど聞き取れないフランス語のアクセントで声がした。「明日の朝8時にセーフウェイ(スーパーマーケット)の駐車場で会おう。」

バロンは、そこで私を待っていた。よく手入れされた彼の赤いフォードトラックは埃と土が積もり珊瑚色に変わっていた。バロンは、私たちを自分の畑に案内してくれた。1997年、彼は約2ヘクタールの荒れ果てたサクランボ園を2万5000ドルで購入し、その後すぐ、さらに畑を2カ所を借りている。そこには若いシラーの木が、間隔をあけて並べられた牛乳パックの隙間から顔を覗かせていた。彼は、土で覆われた野球ボールやソフトボール大の石を蹴りながら、こう言った。「だから、ここに来たんだ。」「シャトーヌフ・デュ・パプを思い出さないか?」18年前のその時、苗木の周りにはサクランボとリンゴの果樹園しかなかった。それが今では、この辺り一帯にブドウ畑が広がっている。中でも傑出した畑には、Reynvaan、Saviah、Proper、Gramercy、Buty、Sleight of Hand、Rôtie、K Vintners、Charles Smithに供給しているブドウが含まれている。これらのブドウは、ワシントンのワイナリーから最高級のワインを生み出しているのだ。
バロンは現在、ザ・ロックス・ディストリクトの丸石の畑に10のブドウ畑(合計24ha)を所有し、さらに東に約13キロ離れたブルー・マウンテンズの切り立った山腹に1haの畑を所有している。このすべての畑で、彼はバイオダイナミックス(有機農法の枠を超えて、土壌の生命力を積極的に高める農法)を実践している。さらに、ワインの世界では軽視されがちな、バイオダイナミックスの「ブドウ畑も家畜を含む完全なエコシステムの一部である。」と言う点についても取り組んでいる。
いくつかの畑は、トラクターが畝間を走れないほど密植されており、4頭のベルギー産の農耕馬が畑を耕している。「このように耕すと、土の香りがして、静寂が得られるんだ」とバロンは言う。バロンはしばらくして、こう言った。「僕は中途半端なことはしないんだ。常に全力でやるんだ」。バロンのエネルギー、力、集中力は、ビジネスの成功に大きく役立った。彼のワインはすべて自社畑のブドウから造られており、そのブドウから3つのレーベルを立ち上げている。フラッグシップは4,500ケース生産のカユース。ホースパワーは現在800ケースで今後増やしていく予定。このレーベルは馬が働くブドウ畑を称えるものだ。No Girlsは、アシスタント・ヴィニュロン(当時)のエリザベス・ブルシエが担当し、現在750ケースを生産している。これらのワインは、長期にわたり高い品質と際立った個性を示している。バロンは、90点以上(ワイン・スペクテーター誌の100点満点で「傑出」)の評価を得たワインを119本作り、そのうち28本は「最高傑作」95点以上の評価を得ている。これだけの成功を収めれば、価格を大幅に上げることも可能だ。しかし、他社の最も人気のあるワインの価格が3倍、4倍と上昇している現在、1999年に55ドルで売られていたカユースのラベルが、現在のヴィンテージはわずか80ドルまで上昇しただけだ。バロンは、大きな収入を手にする代わりに、ブドウ畑や25人の従業員の給料、より良い樽やタンクなどに年間収益をつぎ込んでいる。2011年になって初めて買った新車はボルボで今も同じ赤いピックアップトラックに乗っている。「ボロボロの車に乗ってるけど、それがなんだってんだ?」と彼は笑う。それよりも、おいしいワインを飲んだり、おいしいレストランに行ったりすることにお金を使いたいんだ。「従業員にもおいしいものを食べさせたいし、子供を大学に行かせるチャンスも与えたい」と彼は付け加える。「これは、私の祖父と曾祖父から受け継いだものであり、そうやって僕は育ってきたんだ。」

クリストフ・バロンは1970年、フランスのシャンパーニュ地方にあるシャトー・ティエリで生まれた。彼の父方の家族はここで1677年からワインを造り販売をしていた。母親の家系は、小麦や酪農を営む農家である。「私が幼い頃、母が重い病気になり、叔母が私の面倒を見てくれたんだ。」と、彼は振り返る。「僕はいつも農場にいて、ウサギを育てたり、料理を作ったりしていたよ。その時の香りの記憶があるんだ。だから、僕は自分が農場を持つ必要性を感じているのかもしれない。」
12歳の時、クリストフはMaison Baron Albertメゾン・バロン・アルベールを経営する叔父の家に預けられることになった。父に連れられて畑に行き、叔父からワイン造りの手ほどきを受ける。「選択の余地はなかった。学校の休みには、父から4種類の剪定を教わり、雨が降れば、叔父と一緒にセラーにいたよ。15、16歳のころには、すでにヴィンヤードの責任者と一緒になって、スタッフを動かしていた。」バロンは、家業を引き継ぐための教育を受けた。そしてシャンパーニュ地方のブドウ栽培と醸造の学校、リセ・ヴィティコル・ダヴィーズで3年間を過ごすことになる。「僕は必要最低限のことしかしないおちこぼれ生徒だった。」1989年、シャンパーニュ校の校長である叔父が、一族の名声にあやかり、クリストフをブルゴーニュ地方のコート・ドールの中心にあるボーヌのリセ・ヴィティコルに転校させた。「ボーヌは驚きの場所だったんだ。」とバロンは言う。「僕の出身地であるシャンパーニュでは異なるブドウ、異なる村、異なる年のワインをブレンドする。ところがボーヌの人たちは、いつもある特定の小さな区画の話をしていて、外国語で外国の話をしてるのかと思ったよ。ブルゴーニュには、選定された畑、単一品種、ヴィンテージ、そしてマイクロクライメート(微気候)のすべてが揃っていた。テロワールを表すワインを造るとはどういうことかを学んだんだ。」彼は、ブドウ畑の地図を持ってブルゴーニュ地方を試飲してまわった。
 そして、ムルソーの名だたる生産者、Maison Chartron et Trebuchetメゾン・シャルトロン・エ・トレビュシェで働き、テロワールの概念にのめり込んでいった。金曜日には、友人と一緒に学校をさぼり、2時間離れた北ローヌで週末を過ごし、パッチワークの様な畑で出来た素晴らしいシラーを飲んだ。

拙い英語を上達させるため、バロンはアメリカで仕事を探した。ナパ・ヴァレーに惹かれたものの、サンフランシスコに近すぎることに気がついた。「きっとフランス人とつるんでしまって、英語は全然上達しないだろう。」オレゴン州にあるフランス人経営のDomaine Drouhinドメーヌ・ドルーアンに応募したが、季節限定の収穫作業しかなかった。そのうちワラワラのウォーターブルックで働くフランス人の友人がビザ切れで帰国することになり、バロンは面接を受け、ウォーターブルックの創業者エリック・リンダルに会った。「僕は、彼の言っている事が全く理解できなかったから、「申し訳ないが、これはできない」と言ったんだ。そしたらリンダルに『採用だ』と言われた。」リンダルは、バロンのことを鮮明に覚えている。「彼は私の義理の兄と一緒に住んでいたので、しばらくは家族の一員だったんです。ある時、私は彼に言ったんです。『君はワインビジネスでは大成功を収めるだろうが、従業員としては役立たずだ。何でも自分のやり方でやりたがるからね』と。」

バロンは、ピノ・ノワールを植える場所を切望していた。ワラワラは暖かすぎたので、車で5時間かけてウィラメット・ヴァレーまで行き、その地を探した。1年後、ウィラメット・ヴァレーのピノ・ノワールのパイオニアであるDavid Adelsheimデイビッド・アデルスハイムのところで働くことになった。「なんて素晴らしい人なんだ」とバロンは感激した。「ワインが大好きだった。そこでフランスのチーズやパンを食べたり、収穫のランチを食べたり。とても親しみを感じたね。」その頃の事をアデルスハイムはこう振り返っている。「彼は収穫時に突然現れ、インターンとして迎え入れました。当時、オレゴンのワイナリーで、フランスの古典的なインターンシステムをやっていたのは、私たちだけだったでしょう。」 ピノ・ノワールに惚れ込んだバロンは、理想的な土地を求め、世界中を旅することを決意した。「”外国に行って3カ月働き、お金を稼いで、さらに3カ月かけてブドウ畑の土地を探す” と言うアイデアだったんだ。」とバロンは説明する。ピノ・ノワールの産地とは言い難いオーストラリアのバロッサ・ヴァレーからスタートしたが、近隣の冷涼な地域に行くことができ、おいしいシラーズとカンガルーのグリルの味を知ることができたと彼は言う。その後、ニュージーランドのマールボロへ。1995年、Stoneleighストーンリーで働いた彼は、ホステルに住み、移動のために自転車を買った。「もちろん、毎日雨だったよ。」と彼はため息をつく。ルーマニアのピノ・ノワールが有望だと聞き、イギリスの会社で6カ月間働き、古代的なワインづくりを学んだ。旅の合間にバロンはフランスに戻り、家族を訪ねた。そして、食卓で家族と同じ会話を繰り返した。『いつ帰るんだ?』「まだだ。。。僕はまだ、もっと旅をしなければならないんだ。」旅行で貯めた2万5千ドルを元手に、1997年、バロンはピノ・ノワールを植えるためにウィラメット・ヴァレーで4haの土地を探すことにした。しかし、運命は別のところにあった。

その日、ワラワラの旧友を訪ねるため、バロンはリンダルの義兄のスコット・バイアリーの家に滞在した。バロンは、ある厳寒の朝、バイアリーに同行して、寒いところと暖かいところを探しに行くことにした。「サニーサイド・ロードを走っていたんだ。右側を見ると、石がゴロゴロしている野原が見えた。そこはまるでシャトーヌフ・デュ・パプのように見えたんだ。」しかし、石の上にはブドウ畑はなく、果樹園が広がっているだけだった。ワイナリーに戻ったバロンは、ワインの本を取り出しリンダル夫妻にシャトーヌフの石の写真を見せ言った。「僕がここの畑を買って、シラーを植える」
 ブルゴーニュで学んだことにインスピレーションを受けたバロンは、常に単一畑のワインのコレクションを思い描いていた。「土地の特徴を理解し、良き管理者になること、それが僕の目標だった」「そして、すべての区画がその個性を発揮できるようにしたかったんだ。」と彼は言った。当初、彼は岩だらけの地域に「売地」の看板を見つけられなかった。だから直接、隣接する果樹園の所有者にブドウ栽培に興味があるかと尋ねたが、相手にしてもらえなかった。「当時はリンゴのビジネスがうまくいっていたんだ。」と、彼は肩をすくめた。1997年、不動産業者からカウンティロードにある小さな三角形の土地を紹介された。
その土地は、木が全部枯れていた。バロンは、旅先で稼いだお金をはたいて、2haの土地を2万5千ドルで購入した。
 「それは僕にとっては大金だった。でも、それしか方法がなかった。」 両親が援助してくれたので、とにかく一生懸命働かなければならなかった。岩にインスピレーションを受けたバロンは、最初の土地をコブルストーン・ヴィンヤードと名付けた。1年以内にさらに2つの土地を借り、そこで見つけたテントウムシにちなんで”コクシネル”、元々あったサクランボの果樹園にちなんで”アン・セリーズ”と次の畑を名付けた。2000年には、最初のヴィンテージである1999年のアン・プリムール(先物販売)の利益と銀行からの借り入れで、4番目の畑であるアン・シャンベルランのための土地を購入した。

バロンは、このブランドを「カユース」と命名した。
この地域で何世紀にもわたって繁栄してきたネイティブアメリカンの部族に、フランスの商人がつけた名前だ。この名前は、フランス語のcailloux(「石」)が変化したものである。「だからフランス人の僕がやってきて、そこにブドウを植えるのは理にかなっている。」と彼は言う。間もなく、カリフォルニア州から畑名の「コブルストーン」はすでにワインの商標登録がされていると警告する停止命令書が届き、バロンは畑の名前をカイユーに改めた。2001年に13haの放棄された果樹園を購入し、その後5年間かけてアルマダ(無敵戦艦)とラ・パシエンシア(忍耐)のブドウ 畑を開墾した。最初のカユースのワインはウォーターブルック・ワイナリーのレンタルスペースで造られ、その後2000年から2004年まではペッパーブリッジ・ワイナリーで醸造した。2005年、バロンはついに、アルマダとラ・パシエンシアに隣接する場所に自分のワイナリー設備を追加した。「僕はこの施設が気に入ったんだ。465平方メートルのコンクリート床板、鉄骨、水はけがよく、機能的で、いい感じなんだ。」と彼は言う。「何でも動かせるから、スタジオと呼んでいる。」2007年、彼はコンクリートと鉄骨で出来た2棟目のスタジオ2を増築した。地下にはガラス張りのセラーがあり、樽やパンチョンがずらりと並んでいる。


畑を増やすにつれ、バロンはブドウの樹の間隔をより密にする実験を行った。馬を必要とするこれらの畑は、すべてホースパワー・ブランドに採用した。フランスのコート・ロティの急斜面にある、杭を一本一本立てたブドウの仕立て法(シュール・エシャラ)にヒントを得て、バロンは新しいブドウをそのように育ててみた。ワイナリーの隣にあるシュール・エシャラと名付けられた最初の区画では、この方法で育てられたブドウでは、特にグルナッシュが、よりフィネスを発揮することを実証した。南ローヌでグルナッシュの木が杭仕立てになっているのは珍しいが、「いくつかある」とバロンは言い、Château St. Cosmeシャトー・サン・コムの畑を挙げた。「僕たちはシュール・エシャラのグルナッシュがとても気に入っている。どちらかというとピノ・ノワールのようなスタイルだね。彼は2014年に購入した畑に1.2haのグルナッシュを植えた。さらに土地を購入予定だ。

ホースパワー ヴィンヤード

開け放たれた小屋の屋根に、早朝の雨が小降りになる。2015年の9月下旬のことである。牛と鶏が鳴く。遠くでは羊も鳴く。バロンは、こまかく杭打ちされた畑を耕すために初めて購入した輓馬、ゼッポの顔をなでる。この馬は、ワインスタジオからサニーサイド・ロードを下ったところにある農場で暮らしている。「本来のバイオダイナミクスに必要なことなんだ」とバロンは言う。ボーヌで学生生活を送っていたバロンはフランスのワイン雑誌に掲載された記事から、バイオダイナミックスのコンセプトを知った。バイオダイナミックスを実践しているフランスの有力なブドウ栽培者のリストが、バロンの興味をひいた。「ロワールやアルザスの生産者が多かったが、ルロワやルフレーヴなど、自分の家の近所にある生産者が多くて驚いたんだ。」と、バロンは振り返る。あらゆる機会を通じて、従来のワイン、オーガニック、バイオダイナミックのワインを飲み比べ、彼はこう結論づけた。「最も塩分が多く、緊張感があり、力強いワインは、バイオダイナミック農法の生産者のものだ。その違いは信じがたいほどだった。いつか自分の畑を持ったら、この方法で耕作しなければならないと思った。それほどに明らかだった。」
バロンはワラワラで最初から農薬を使っていなかった。「殺生の力を使わず、生命の力だけを使っている。でも、有機農法からバイオダイナミック農法へ、どのように移行すればよいのか分からなかった。」
「ルドルフ・シュタイナー(バイオダイナミックを最初に提唱したオーストリアの哲学者)の本を読もうと思ったんだ。それは睡眠薬より良く効いたよ・・・有機栽培からバイオダイナミック農法に切り替えるには、指導者が必要だったんだ。」
Philippe Armenierフィリップ・アルメニエは、1990年代にシャトーヌフ・デュ・パプでバイオダイナミックを取り入れ、2002年にカリフォルニア州サンタローザでコンサルティングビジネスを開始した後、ワラワラにバロンを訪ねてきた。アルメニエに会ったその日にバロンは、『全部やるよ。』と彼に語っていた。農家で育ったバロンは、ブドウ畑の周辺にも農場を作ることにも乗り気だった。
「循環させるべきなんだ。」ブドウの樹だけでは母なる自然は望んでいない。まずブドウを植え、ワインを売って利益を出し、その利益でビジネスに投資し、さらにブドウを植えた。そして時がきて、十分ブドウを育てたら、野菜を作り、動物を飼った。そして、パズルの最後のピースが馬だった。
農場を管理するエフレイン・メザは、レッド、ビジュー、バイヤード、ゼッポの4頭の輓馬の調教と世話をし、必要な時にブドウ畑の中を走らせる。


ホースパワー・ヴィンヤード


「馬が来てから、不思議なことが起こった。動物にはある種の一定のペースがある。 急ぐ必要はない。人々はもっと気楽に、自分のしていることに向き合えるようになった。そして、僕自身もワインスタジオの従業員たちとも、ゆっくりとした時間を過ごすことができるようになったんだ。」
農場では豚、ウサギ、ニワトリが元気に育っている。リムーザン牛の群れは、ワラワラ川の上流にある緑豊かな敷地のパドックを歩き回っている。「その美しい動物たちを収穫し、従業員全員でシェアしている。」バロンは言う。「これこそ超高級食材で、自分達にも子供達にもいいものだと皆が気付くんだ。」
馬と畑があるにもかかわらず、畑はバイオダイナミック認証を受けていない。「フィリップは数年前からDemeterの認証取得を望んでいたけれど、僕は彼らが年に一度やってきて、2万ドルの請求書を送ってくるのにうんざりしたんだ。」と彼は言う。「僕の後ろにはジャンダルム(警察官)はいらない。僕のことを調べたいなら、ワインを研究所に送れば、残留物がないことが分かるはずだ。」「フランスの次世代として期待されること、そしてAOCの制約から解放されるために移住したんだ。僕の畑では、誰も僕に指図する人はいないんだ。」

バロンの探求心や実験精神は、畑だけでなく、ビジネスにおいても役立っている。新しい畑が新しいワインと新しいラベルを生み出すように、この2つは直接的に結びついている。彼は早くから、自分のワインを売り込むコツを知っていた。カラフルなラベルの数々は、言葉を遊び、空想的な絵、絵画、気の利いたイラストやグラフィックを使って、視覚的なインパクトを与えるものばかりだ。始まりは、Bionic Frog(バイオニックフロッグ)。この両生類の漫画は、彼のフラッグシップであるCayuse Syrahのラベルを飾っており、2004年からはコクシネルのブドウのみを使用し、彼の他のシラーよりも筋肉質な味わいになっている。ラベルは、バロンがオーストラリアで働きながら旅行しているときに付いたあだ名にちなんでいる。

2001年のカベルネ・フランは、【フライング・ピッグ】と呼ばれ、かつて彼が「豚が飛んだら」良いカベルネ・フランができるかもしれないと言ったことにちなんだ。ラベルには、パイロットのゴーグルと革のヘルメットをかぶった豚のキャラクターが描かれている。(ワインスタジオ2の天井には、この豚の3Dマスコットが吊られている。) このワインは、ブルーベリーやチョコレート、そしてブラックオリーブのようなダークなフレーバーを持っている。2002年には、優雅な闘牛士が、仲間に加わった。緻密なプラムとタールのフレーバー、そして縮れたタンニンが、【インパルシーボ:衝撃】(テンプラニーリョ)を彩る。同年、西部のガンマンも、クラシックなニューワールドの豪華さを持つ【ウィドウメーカー(カベルネ・ソーヴィニョン)】と共に登場した。2005年、バロンはグルナッシュの出来に確信が持てず、白地に赤で【ゴッドオンリーノウズ】「神のみぞ知る」というフレーズを繰り返したラベルを選び、このブドウに初挑戦した。最初の数ヴィンテージは、寛大さに欠けていたものの、最近のボトリングでは、濃い果実味と美しくオープンな質感を示している。アダムとイブが描かれた【ザ・ラバーズ】は、バロンが2010年ヴィンテージから導入したカベルネ・ソーヴィニヨンとシラーのブレンド。シラーは、カベルネのカラントの香りと細やかなタンニンに、プラムの香りと滑らかさを加えている。Flying Pig、Impulsivo、Widowmaker、God Only Knows、the LoversはすべてCayuseのブランド名で販売されている。 新しいブドウ畑ができたので、Baronは新しいブランドを追加した。2011年にデビューした【ホースパワー】は、輓馬が働くブドウ畑から造られたワインの別ラベルだ。ラベルの緻密な白黒の絵は、馬が石ころだらけの畑を蹄鉄を履いて歩く姿を描いている。2016年現在は、シュール・エシャラスのグルナッシュとシラー、そしてザ・トライブのシラーがリリースされている。これらのワインは、真のフィネスを備えた驚くべき力強さを示す。CayuseとHorsepowerは、クリストフ・バロンが所有する個人事業である。しかし、事業が拡大するにつれ、バロンは主要なスタッフ、特にゼネラルマネージャーのトレバー・ドーランとアシスタント・ヴィニュロンヌのブルシエと利益を共有する方法を考案した。46歳のドーランがバロンと出会ったのは、ドーランがワラワラで経営していたウェブ開発グループの同僚とバロンが付き合っていたのがきっかけだった。
2002年、トレバー・ドーランはカユースに入社した。「一緒にブドウ畑を持ちたい、そうすれば自分の娘に何か残してあげられる」と言った彼に僕は、『よし、いつかそうなるぞ』と言ったんだ。」とバロンは言う。2013年、彼らはAVAの端にある7.3haの土地を購入し、岩が畑の半分を覆っているだけのその土地に、新たに合同会社(LLC)を設立した。「僕たちは平等な持分を持っているんだ。」1.3haにシラーと、数列のヴィオニエを植えた。岩の上で育つブドウからできたワインは、このテロワールの典型であるタプナードのフレーバーとソフトなテクスチャーを表し、純粋な土の上のブドウのワインは、より鮮やかな果実味と生き生きとしたバランスを備えている。この違いを見て、彼らはこの畑をハイコントラストと名付けた。「モノクロ写真のような感じかな」「ワインに特別な緊張感が生まれた。」とバロンは言う。最初のクラッシュは2015年だ。検討の結果、バロンとドーランはハイコントラストを【ホースパワー】のラベルでボトリングすることとした。


現ワインメーカー エリザベス・ブルシエ(左)(2022年就任/写真は2016年)


ブルシエはシアトルで育った。両親は高級ワインが好きで、16歳のときにはフランスのワイナリー訪問に連れて行ってもらったこともあるという。高校を卒業して18歳でワラワラに移り、2000年にワラワラ・コミュニティカレッジの醸造学とブドウ栽培の新しいプログラムに入学した。その後、カリフォルニア・ポリテクニック州立大学サンルイスオビスポ校で醸造学の学位を取得し、アルゼンチン、パソロブレス、ワラワラのワイナリーでインターンとして経験を積んだ。彼女の家族は代々、コート・ド・ボルドーのシャトー・オー・ブルシエを所有している事がクリストフの目に留まり、2008年に彼女を採用した。

ブルシエの入社と同時に、3.6haのラ・パシエンシアの畑が成熟し、シラー、グルナッシュ、テンプラニーリョに分割された。この3品種は、カユースの他のワインに比べて、風味が濃く、余分な厚みがあったため、バロンは新しいブランドを作ることにした。ノー・ガールズ(No Girls)と名付け、ブルシエに生産を任せた。「畑から瓶詰めまで、彼女に全権を委ねた」とバロンは言う。No Girlsのラベルは、ワラワラのメインストリートにあるカユースのオフィスがある、かつての売春宿の壁に描かれた看板を表現している。このラベルは、文字通り「No Girls」を意味しているわけではない、とウェブサイトにはある。この地のワインを造ることで、私たちの歴史を祝うという意味なのだ。ブルシエはまた、ブルシエの干支であるネズミにちなんで名付けられたワイン、ラ・ラタも監修している。スペインのプリオラートのワインからヒントを得て、アン・セリーズとアルマダの畑のグルナッシュとカベルネ・ソーヴィニヨンをブレンドしている。「彼女は余った果実で実験し、とてもいいワインに仕上げたんだ。」とバロンは言う。ラ・ラタの最初のヴィンテージは200ケースの生産で、今後生産量が増えることはないだろう。ブルシエはブドウの代金を形だけ支払い、ワインの利益はすべて彼女のものとなる。「感謝の気持ちと、少しでも充実した生活を送るための方法なんだ。」というバロンに対し、ブルシエは「カユースのような品質レベルで仕事をするのは簡単なことではありません。でも、カユースのワインを飲むと感動するんです。それがカユースのすべてであり、その一翼を担うことができるのは素晴らしいことです。」と言っている。




バロンは、これらのワインの生産量の90%をメーリングリストを通じて販売しており、ほぼすべてが先物取引である。ワイナリーは代金を前払いしてもらうので、キャッシュフローが増え、在庫の資金繰りも楽になる。また、カユースは小売価格の全額を受け取ることができるため、卸業者を通した販売に比べ、数百万円の増収となる。直販のおかげで、カユースは外部からの投資を受けずに成長することができた。現在では、主要市場のレストランのワインリストに載せるために、卸業者と協力するようになっただけだ。また、ワラワラの良い畑の土地は、他の地域の同じような土地よりずっと安かったのも助かった。バロンは、現在のブドウ畑に1エーカー/1万ドル以上使ったことはないという。「僕はいつも、すべてを畑に再投資してきた。カユースから給料をもらったことは一度もない。生きていくのに必要な額だけだ。」バロンは、他のワイナリーからのコンサルタント依頼を断固として拒否してきたが、ひとつだけ例外があった。Mike Reynvaanマイク・レイヴァーンは、2005年にレイヴァーン家がワラワラ・ヴァレーの東側の丘陵地にブドウを植える準備をしている場所を見に来て欲しいと、しつこく頼み続けた。「バロンに全権を委任するならば。と言うたった一つの条件でとうとう折れてくれたんだ。」と、レイヴァーンは語る。「バロンは、月次報告などという形式的な関係は望んでいない。カユースの子供を作らないというのだ。私たちは同意し、それなら何か全く違うものが欲しい、と言ったんだ」。レイヴァーンは、最初の3ヴィンテージをカユースワイン・スタジオで、2012年以降は丘陵の畑に隣接する古い納屋をワイナリーに改造して醸造している。このコラボレーションは、ワシントン州で最高のシラーを生み出し、2010年のレイヴァーン・ストーンセンスは98点という評価を獲得した。「バロンはとても頭がよくて、面白くて、知識も豊富だが、文字通り自分の思う事以外を口にすることはできないんだ。」「彼は家族の一員になった。もう11年になる。今でも一緒に仕事をしているよ。」


カユースの初期のワインは、ソフトで濃厚、口当たりの良いものだった。pHが4.0を超えることもあり、瓶内熟成によるフレーバーの劣化が懸念されたほどだ。実際、中にはそのようなものもあったが、ほとんどは見事に熟成している。このスタイルは年々進化し、アルコール度数が下がり、より透明感のあるものになっている。ミネラルの個性が増し、フィネスも出てきた。バロンは、遅く収穫されたブドウからできた濃厚でソフトなスタイルよりも、最近のボトリングが気に入っている。「若いうちは、より大きなワイン、より華やかなワイン、より豊満なワインを造ろうとするものだと思う。」現在、バロンのワインがアルコール度数14パーセントを超えることはほとんどない。意識的にアルコール度数を下げようとはしておらず、むしろ、低い数値はバイオダイナミック農法の副産物であると考えている。「ブドウの樹が自ら調整し、より低い糖度で生理的な成熟に達するんだ。」と彼は言う。pHは3.8〜4.0だが、バロンは、発酵に茎を多く使うことが原因だと考えている。「しかし、茎はワインにエネルギーとフレッシュさを与えるので、それを補うことが出来るんだ。」と彼は付け加える。
カユースは、225リットルの標準的な樽はもう購入していない。樽の風味の強さは、テロワールのニュアンスと競合しかねないと判断したためだ。バリックからの移行には8年かかるという。より大きなサイズの樽を試した結果、バロンは毎年450リットルのパンチョンを6個購入し、2つのフードル(2,000リットル樽)を自分達用に作っている。「大きな容器は、ワインのテンションをより良く保つことが出来る。」と彼は主張する。ワインスタジオ2では、2015年の収穫の半ばに、バロンは畑のひとつからラグビーボール大の石をいくつか採取していた。これは現在、2列に並んだ正方形の4トン級ステンレススチール製発酵槽のプレキシガラスの蓋を押さえている。蓋を開けると、発酵中のワインが勢いよく泡立っているのが見える。「スピード・ゴンザレス。うちの自家酵母だ。ここで培養したんだ。この酵母だと失敗がない。」ワイナリーのラボの入り口にあるテーブルには、3列のグラスが置かれ、それぞれに発酵槽の1つから採取したサンプルが置かれている。ラボでは、ブルシエがすでに発酵に必要な糖分の残量を測定している。バロン、ブルシエ、そしてバロンの5年来のパートナーであるセシル・ランドンの3人は、それぞれのサンプルについて詳細に議論する。フレーバーの方向性がおかしいと感じたら、温度やパンチダウンのスケジュールを調整する。そして、ある畑と他の畑の違いを見極める。発酵が始まったばかりでも、さまざまな個性が見えてくる。2列目にある2つのパンチョンには、バロンがザ・ロックス以外に所有する唯一のブドウ畑から生まれた最初のワイン、2014 Hors Catégorieが入っている。

オーカテゴリー


ブルー・マウンテンズの麓にある1haのブドウ畑は、60パーセントの傾斜で約1.6メートル隆起しており、ローヌ・ヴァレーのエルミタージュによく似ている。競輪ファンなら、4(最も簡単)から1(最も難しい)までの公式評価システムを超える「カテゴライズを超えた/Hor Categorie」急勾配を意味するこのワインの名前が分かるだろう。このワインは、2016年春に瓶詰めされる予定だ。バロンは、ワイン・シーフを使って各容器から同量を抽出し、テイスティングさせてくれた。第一印象は、オープンでほとんど重さを感じさせないテクスチャーだ。リコリスでアクセントをつけたブラックベリーとダークプラムのフレーバーが、驚くほど長く、鮮やかなフィニッシュへと滑り落ちていく。ザ・ロックスの特徴であるブラックオリーブは感じられない。これらの特徴は、バロンの他のワインとは一線を画している。実際、私がパンチョンで味わった透明感、純粋さ、深みは、このワインをアメリカのどのシラーとも異なるものにしている。120ケースのみ生産。1本200ドル以上での販売が予想される。
結婚はしていないが、セシル・ランドン(33歳)とバロンは指輪を交換している。セシルにはワインの血統がある。ボーヌで生まれ、リヨンで育ち、夏にはムルソーの祖父母のドメーヌ・アンドレ・ブリュネで過ごした。ボーヌのリセ・ヴィティコールでブドウ栽培と醸造学を学び、南アフリカのハミルトン・ラッセル、カリフォルニアのリトライ、そしてバロンと出会った2010年はドメーヌ・ドルーアン・オレゴンでインターンをしていた。オレゴンに来たばかりのランドンと他のインターン生は、マクミンビルにあるワインメーカーのたまり場「ニック」にいた。そこにいたバロンは、フランス語が飛び交っているのを聞いて、「どこで収穫作業をしているのか」と聞いてきた。ランドンが彼にインターンについて尋ねると、バロンは、ワラワラのカユース・ヴィンヤードを経営していることを説明した。「クリストフ・バロンという名前も、カユース・ヴィンヤードも、ワラワラも聞いたことがなかったわ」と、彼女は笑う。翌日、バロンは予定を変更し、チームを連れてドメーヌ・ドゥルーアン・オレゴンを訪問した。2012年、ふたりは一緒に暮らし、ランドンはワイナリーでブルシエを手伝いながら、バロンの特別プロジェクトの管理をしている。

" 私たちは同じフランスの文化を持っていて、価値観や人生哲学を共有している。私たちは同じ考え方のもと、ヴィニュロン(ワイン栽培者)の家系に生まれたの。ボーヌとディジョンの同じワインスクールに通ったこともあるんです。」とランドンは言う。そして、二人ともフランスで家族のプロジェクトに携わっている。 彼女は祖母と母がムルソーに所有する18エーカーのドメーヌのうち、家族の死去によって分割された半分であるドメーヌ・ブリュネ・ランドンの復活を手伝っている。
バロンと妹のイザベルは、シャルリ・シュル・マルヌ 近郊に両親から贈られた4.9haのシャンパーニュの畑を所有している。バロンは携帯電話で地図を出しながら、「僕たちは家族にブドウを売っているんだ。」と言う。「ダイヤの原石だよ。両親が植えた樹齢50年のピノ・ムニエを育てているんだ。私たちがいるところは、シャンパーニュ地方のピノ・ムニエの王国なんだよ。」今、彼はシャンパーニュ作りに挑戦している。2014年、彼は初めて250ケースを造り、すべてマグナムでボトリングした。2015年には2つ目の畑のブドウを搾って2度目の瓶詰めを行った。最終的には、各ヴィンテージから5〜6種類の単一畑のシャンパーニュをリリースしたいと考えている。「カユースの大切なお客さまに最初に飲んでいただき、10〜15%程度をフランスや国内の高級レストランに置きたいと考えている。」 と彼は説明する。最初のワインは2018年に出来上がると期待している。「僕はシャルリの町の大使になりたい。このストーリーの一部になりたいんだ」
実際、バロンは自分自身のストーリーを書いている。彼は、ニューワールドのワイン生産者のパレードを先導するには、あまりに異端児で旧世界の魂を持っている。おそらく、人々はバロンについていけないだろう。フランスの規制を避けるためにアメリカに根を下ろした彼は、自分のワインにザ・ロックス・ディストリクト・オブ・ミルトン・フリーウォーターAVAと表示することを拒んでいる。彼は、境界線が石畳の地質に厳密に沿っていないとして、このAVAに反対したのだ。彼のワインには、Walla Walla Valleyと畑の名前だけのタグが付けられている。しかし、彼はこの地域のスタンダードを作った。AVA提案書を書いた地質学教授のケビン・ポーグは、「クリストフは、この地の名前を作った人物であり、他の誰も気づかなかった可能性に気づいた人物だ。」と言う。「フランスから来た彼は、ヴィニュロン(ワイン栽培者)という新しい視点を持ってきた。彼は、ワインメーカーであると同時に農家でもある。岩を表面に出して、熱を逃がさないようにする。土壌の健康に気を配り、土壌に有益な生物群を育てている。彼は、ここが特別なテロワールであることを理解しているのだ。」
ザ・ロックスを征服した今、バロンは、シャンパーニュのような遠い場所から、ワラワラ川の北岸にある彼のオー・カテゴリーの畑のような身近な場所まで、未来を見据えている。
ワラワラの急勾配の土地にあるエルミタージュへのオマージュの名前こそ、まさに彼にぴったりかもしれない。「カテゴリーを超えて/オー・カテゴリー」


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