オレゴンのお城はアメリカンドリーム
レオヴィル&ランゴア・バルトンの話を書いていてアメリカってどうかなー?と考えてみました。ワイナリーのテイスティングルームが大きく豪華なのは結構あります。でも家がスゴイ、しかもそれを一般人が見る(知る)事が出来る。というのはそんなにないですね。私たちが取り扱っているワイナリーでは、オレゴンのドメーヌセリーヌが唯一です。自宅ではなく別荘ですが、丘の頂上にお宅がありその周りにブドウ畑があります。
このワイナリーのオーナーのエヴェンスタッド夫妻はこの豪邸に生まれ育ったわけではありません。努力して素晴らしいワインを造って富を得ました。(ちなみに今私はネットフリックスのSelling Sunsetにハマってます。アメリカで大豪邸を売る不動産営業のお姉さんたちの話)
日本でもオレゴンワインの代名詞と言える「ドメーヌ・セリーヌ」なのですが、このワイナリーを有名にしてのは何と言っても、ブラインドテイスティングであのロマネ・コンティを圧倒した!という2004年の出来事です。めちゃめちゃ古い話ですがやっぱりこのキャッチーな話は受けます。
ドメーヌ・セリーヌは数々の受賞履歴がありますし、いまでも毎年その記録を更新しています。限定ワインなんて貴重すぎて手に入りません。(輸入してる私達だって飲むチャンスないですから。)
↑ このリンクにその華々しい受賞履歴がまとまっています。
うーーん。キラキラ・ファミリーだ☆彡☆彡☆彡(Selling sunsetだ・・・・違います。)ただのキラキラ・スター・ワイナリーではなりません。
2021年1月のオレゴンワインプレスPersons of the Yearに選ばれた時の記事が素晴らしいものでした。やっぱり信念をもって努力しつづけるって大事だなー。と思えるストーリーでした。下記にその記事を置きます。
グレース&ケン エヴェンスタッド
エヴェンスタッド夫妻はオレゴンワインの絢爛さを明確にし、地域社会とその先にも影響を与え続けています。
ここ数十年のオレゴンワイン業界の軌跡を振り返ってみると、グレースとケン・エヴェンスタッド、そして1989年に二人が設立したワイナリー、ドメーヌ・セリーヌの影響力は計り知れないものがあります。2020年10月にケンが逝去し、ウィラメット・ヴァレーのワイン業界が悲しみに暮れる中、オレゴン・ワイン・プレスでは、エヴェンスタッド夫妻をOWP 2020 Persons of the
Year賞を授与しこの功績を称えたいと考えます。彼らのオレゴンワイン文化への多大な影響力と豊かな遺産は非常に素晴らしいものです。
エヴェンスタッド家とドメーヌ・セリーヌは、オレゴンの高級ワイン市場を確立し、90年代にオレゴンのピノ・ノワールをアメリカ国内のみならず世界中の市場に広め、そのテイストが批評家や消費者の注目を集めた事は称賛に値します。彼らはオレゴン州で最高のワインを造っているだけでなく、マクミンビルにあるリンフィールド大学のワイン教育のためにエヴェンスタッド・センターを設立し、資金を提供、慈善活動にも惜しみなく貢献し、数々の賞を受賞し、歴史的なブルゴーニュコート・ドールのワイナリーを購入しました。
オレゴン州のワイン産業は、脆弱な操業開始時から今日の世界的な名声に至るまで、信じられないような道のりを歩んできました。オレゴンの可能性を確信した多くの人々が、ブドウの木を植え、収穫し、圧搾し、醸造し、そして、卓越したワインを追求し続けてきました。オレゴンワインが国際的に尊敬される存在へと進化してきたのは、ある文化的な出来事のおかげでしょう。ジ・アイリー・ヴィンヤーズのオレゴン・ピノ・ノワールが1979年に国際的なメダルを獲得し、世界中の食通の注目を集めたことはよく知られています。2004年にはドメーヌ・セリーヌも同様の偉業を成し遂げ、オレゴン・ピノ・ノワールの世界的評価をさらに高めました。
エヴェンスタッドの原点ストーリー
二人のパートナーシップは、1966年、ケンがミネソタ大学の大学に通っていた時に偶然に始まりました。
グレースのルームメイトだったセリーヌは、ケンが大学の春のフォーマルパーティに一緒に参加するはずだったデート相手が直前になってキャンセルしたのを知りグレースをケンのパートナーとして誘ったのです。セリーヌの厚意とブラインドデートから始まったロマンスは一生の冒険へと変わって行きます。ダンスが終わる頃には、二人は恋に落ちていました。7ヶ月も経たないうちに、2人は結婚生活を始め、最終的には2人を引き合わせた友人の名前にちなんで娘を名付けることになりました。そして彼らは後に、オレゴン州のワイナリーには娘の名前を、最初のブドウ畑には息子のマーク・ブラッドフォード・エヴェンスタッドの名前をつけました。
最初のうちは、夫妻はワインでいろんな挑戦をしました。グレイスは話します。「私たちは両親が家の中でお酒を飲まない家庭で育ったので、料理にワインを合わせるという概念は私たちにとって初めてのことで、とても刺激的でした。私は料理が大好きで、ジュリア・チャイルドは私の師匠のような存在でした。私たちはすぐにブルゴーニュのワイン、ピノ・ノワールとシャルドネに夢中になりました。
使命感を持って
夫妻のオールドワールド・ワインへの情熱は、国内のカリフォルニアのカベルネやボルドーワインの関心をはるかに超えていました。「なぜアメリカはピノ・ノワールを造らないのか、私たちはずっと不思議に思っていました。」とグレースは言います。この疑問が彼らを惹きつけ続け、アメリカ国内ではこの品種はうまくいかない事を学びます。ミネソタに住んでいた彼らの耳には、オレゴン州でピノ・ノワールを造り始めている事は届いていませんでした。そしてまたその後、オレゴンで世界に通用するピノ・ノワールを造ることを考えたとき、国内の流通にも疑問を感じました。
「オレゴンの素晴らしいワインメーカーたちは、『俺たちもやってみたけど、州外でピノ・ノワールを売るのは無理だ』と言っていました。オレゴンの人以外、誰もオレゴンのピノを欲しがっていないのです。そこでケンと私は「これは挑戦だ。何ができるか試してみよう。」と考えました。
まず私たちは、自分たちでやってみようと決めました。その時点では、子供たちは大学に行っていたので、私には時間がありました。ケンはまだ製薬会社を経営しており、彼には時間がありませんでしたが、私たちはこれ以上待つことはできないと思い、とにかくどうなるか試してみる事にしたのです。そしてオレゴン州が最適だと思ったのです。実際、彼らはカリフォルニアの将来性をも調査しましたが、あるピノの生産者が「もし自分が再度ピノノワールを植えるとしたらオレゴンに行きたい。」と言っていたのを聞いたのです。
ドメーヌ・セリーヌの立ち上げ
1989年、ケンがまだ製薬会社の経営に忙殺される中、夫妻はダンディー・ヒルズに17ヘクタールの土地を購入し、ワイン醸造のビジネスを始めました。彼らのワイン造りは気軽な趣味ではありませんでした。彼らはとてつもない野心を持ってスタートしました。それはヨーロッパの歴史深いオールド・ワールド最高のワインに匹敵するピノ・ノワールをオレゴンで造ることです。
彼らは最初から全力で臨みました。契約ブドウからワインを作り、常に現場に出ていました。「収穫実習生のように働いて、できる限りのことを学びました。パンチダウン、選果、瓶詰め、、とにかくあらゆることを。そして、ブレンドを行い、ラベルのデザイン、ワインの名前を考えました。とても興奮しました。本当に楽しい事だと思いました。
夫妻の信念の勇気は称賛に値するものです。ドメーヌ・セリーヌの初代ワインメーカーであるケン・ライトは、ワインスペクテーター誌に次のように語っています。「私は彼のさまざまな面において尊敬しています。彼は、ウィラメット・ヴァレーのピノ・ノワールがワールドクラスである事に気が付いた自分の味覚を信じていました。その信念がオレゴンワイン業界への真剣な投資につながり、それが私たちの知名度を高めることにつながったのです。」
グレースは、その信念によって最初のヴィンテージが販売出来たと認めています。彼女は「他の生産者には出来なかったのに、どうやってドメーヌセリーヌには全米でワインを売ることができるのか?」とよく尋ねられたと言います。「私たちはブルゴーニュのことをよく知っていたし、ブルゴーニュには全国的な市場があることも知っていた。そして、自分たちのワインを試飲したときに、ブルゴーニュにとても似ていると感じていたのです。その自信があったからこそ、ワインを売ることができたのです」と語っています。
品質へのこだわりは、初日から実を結びました。エヴェンスタッドの最初のリリースである1990年のリザーヴは、ワイン評論家のロバート・パーカー・ジュニアから90点を獲得しました。「私たちは、ニューヨーク、ボストン、ワシントンDC,シカゴ、そしてミネアポリスに行きました。そして初ヴィンテージのほとんどを州外で販売し、オレゴン州内はわずか5%以下の販売量でした。2つのヴィンテージで16の州で販売していたと思います。しかし悪い事にオレゴン州の人々は私たちの存在を知らず、全国の人々が私たちのことを知っていた事です。それでも、オレゴンのピノ・ノワールの全国流通を確立したのは事実で、すぐに他の生産者も追随して来ました。それは素晴らしい事だと思っています。オレゴンのピノは、アメリカ中の人に楽しんでもらえるはずなのですから。
不屈で永続的な影響力
エヴェンスタッド家はオレゴンの高級ワイン市場を確立する道を先導してきました。「私たちは誰よりも高い価格設定で参入しました 」とグレースは言います。 そして、私たちは品質に鋭く集中してきました。シカゴのチャーリー・トロッターズやニューヨークのダニエルのような有名レストランに商品を置いた事で、ワイン界に簡潔なメッセージが伝わりました。
"オレゴンワインの到来”です。
ドメーヌ・セリーヌは、フランスのドメーヌ・ドゥ・ラ・ロマネ・コンティ(世界一高価で世界一の品質と言われるワイン)と真っ向から対決するという大胆な行動をとりましたが、これが功を奏しました。2004年に行われた国際的なソムリエやワインバイヤーによるブラインド・テイスティング・テストでは、ドメーヌ・セリーヌはこのフランスのワイナリーを何度も破ったのです。
リンフィールド大学エヴェンスタッド・ワイン教育センターのディレクター、グレッグ・ジョーンズによると、エヴェンスタッド家は「高級なおもてなしに力を入れる」という点でも大きな評価に値するといいます。"彼らのクラブハウスに行ったときは、オレゴンにいるとは思えないほどでした。本当に有名なワイン産地の豪華な舞台が、私たちの裏庭に現れたような感じで、驚きました。本当によく考えられていて、驚くほど美しい場所でした。
デイトンにあるドメーヌ・セリーヌの広大なクラブハウスは贅の極みです。丘の上に建つトスカーナ様式の建物には、複数のテイスティングルームがあり、広々としたテラスからはウィラメット・ヴァレーを見渡すことができます。階下には、石灰岩の壁のアーチ型のセラーがあり、オールド・ワールドのシャトーを彷彿とさせます。ポートランド、レイク・オスウィゴ、そして近日オープン予定のベンドにあるワインラウンジも、同様にクラシックな雰囲気を醸し出しています。
2015年、エヴェンスタッド夫妻は、ワイナリーの優れた評判を利用して、歴史あるフランスのシャトー・ド・ラ・クレを購入しました。「私たちは世界で最も幸運な人々だと思いました。ブルゴーニュのコート・ドールでワインを造ることは、私たちの夢でしたから。」とグレースは説明します。「私たちは、フランス人がそう考えるように、私たち自身は次の世代のためのブドウ畑の羊飼いにすぎないと感じています。」とグレースは説明しています。
ドメーヌ・セリーヌは、品質へのこだわりを続けつつ、サステイナブルと社会貢献のための手段としての役割を果たしています。彼らはドライファーミングを採用し、土地の大部分を未開墾の原生地のままにしています。彼らのワインはすべてLIVE認証を取得しており、人と自然の両方に対して最高水準であると、第三者認証を受けています。
エヴェンスタッドのワインコミュニティとコミュニティ全体への献身は、彼らの慈善活動によって実証されています。多様性を高めながら次世代の業界リーダーを育成するために、エヴェンスタッド夫妻は、リンフィールド大学のワイン教育のためのエヴェンスタッド・センターに、アメリカ初で唯一の学際的な大学院ワイン教育プログラムを設立するために、惜しみない寄付をしました。夫妻の支援により、リンフィールドは新校舎の建設準備を進めています。ジョーンズは、「その一部はエヴェンスタッド・ワイン・研究室となり、学生に果実やワインの化学や官能評価の実地体験を提供できるようになります」と述べています。
慈善活動は、ドメーヌ・セリーヌとシャトー・ドゥ・ラ・クレの両ワイナリーの歴史の重要な一部であり続けています。これまでのワインとワイナリーの体験をもとにした寄付は、全国の慈善団体に数百万ドルの寄付金を集めてきました。さらに、エヴェンスタッド夫妻は、ナポリ・ウィンター・ワイン・フェスティバル、デスティン・チャリティー・ワイン・オークション・ファンデーション、タムタムツリー・ファンデーション、クラシック・ワイン・オークション、ハイ・ミュージアム・オブ・アート、カーニバル・デュ・ヴァンなど、全国の著名なワイン・オークションに時間と資材を提供してきました。
30年間にわたる大望、努力、情熱がオレゴン州を代表するワイナリーを生み出しました。グレースは子供たちや孫たちと同様に、ドメーヌ・セリーヌを愛し、この素晴らしい家族の偉大な遺産の継続に尽力しています。