幸せになるためには
人は皆、幸せになるために生きていると私は思う。
自傷行為や自殺をする人は、幸せになりたいのか、という疑問もあると思うが、(こればっかりは理解できない人は理解できないともうけれど)それでも何かしら救いを求めて、そのような選択をするのだ。
ただ、世の中には「生きているだけで幸せになれる」と思っている人が一定数存在すると思う。
これは普段から幸せそうに振る舞っていて、努力している姿や悲しんでいる姿を周囲に見せない人、という意味ではない。
「生きているだけで幸せになれる」と思っている人というのは、言い換えるなら「他人に気が使えない」、「周りが見えていない」ような人だ。
公共の場で騒いでいたり、人混みの中で傘を横向きで持っていたり、道や階段で広がって歩いていたりとか、挙げたらきりがないがそういう人々だ。
ただ間違いてならないのは、そういう人は「生きているだけで幸せになれる」と勘違いしているわけではないのだ。
おそらく本当に生きていることで、幸せになっているのだ。
大きな挫折とかもなく、家族関係も良好で、部活が大変だとか、一限目のある日は朝起きるのが大変だとか、アルバイトがだるいとか、恋人ができないとかそういう悩みが関の山で、本気で死にたいとか思ったことがない人なんだろう。
だから気づかない。
だから傷つかない。
自分の行動で、知らず知らずのうちに、他の人にしわ寄せがいっていることに気づかない。
「無理が通れば道理が引っ込む」という諺があって、無理とまでは言わないけれど、そんな感じ。
だからそういう人の裏で、気が使えたり、周りの目を気にしすぎたり、そういう人にしわ寄せがいって損ばかりするような人が生まれる。
私もどちらかといえば損を被ることが多い方だと思う。
ボランティア団体の代表をやっていたことがある。
若い世代は、東日本大震災だとかオリンピックだとかボランティア活動が生まれた頃から身近にあった。
とはいえ、自分のことを後回しにして、お金ももらえないのに、他人や社会の役に立ちたいなんて考えるような人は、何かしら思うところがあるのだろう。
ボランティアという性質上、活動参加へ強制はしないし、団体と言っても所詮は大学生のサークルだったので、まあしたい人がどうぞくらいの軽いノリだったんだけれど、それでも積極的に活動に参加するような人は、話してみると特に何か抱えている人が多かった。
ボランティアという言葉の語源になったような、持つものが持たざる者へ支援をするような精神は薄れ、親の離婚や浪人、いじめられた経験、身内に障がい者がいるというような人々が自分の存在意義を探すかのごとく、ボランティア活動を行っていた。また、そういう人ほどきちんと取り組んでいたし、活動にあたっての調整やその後の片付けなどもきちんと行っていた。
何が言いたいかというと、困っている人の気持ちがわかるのは困った経験がある人で、相手の痛みがわかるのは、誰かに傷つけられた経験がある人だということだ。
誰よりも優しい人は、誰よりも不幸な人なんだろう。
しかしこれもきっと私の被害妄想の賜物に違いない。
自分が辛い思いをしているのに、あいつはのんきにしやがってと思っているだけできっとみんな何かをふり切りながら生きているに違いない。
そして私自身も、他の誰かにはそう見られていることもあるだろう。
幸せとはなんだろうか。
そう考えるのは、相対的に不幸が何かを浮かび上がらせる。
だから、幸せとは何かを考えなくなることが幸せなんだと思う。
きっと、人生の中のどこか一点から見たら、今の私も幸せなんだろう。
今、あなたは幸せですか?
宗教じみた質問だけど、考えてみたほしい。
この質問に答えるために幸せとは何かについて、あなたに考えさせている私はあなたを不幸にさせたがっているだけなのかもしれない。
この質問にためらいなく、幸せです、と答えられる人になりたい。