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多様性とはなんだろうかと考える。

多様性とはなんだろうかと考える。

英語ではダイバーシティ(Diversity)というらしい。
最初にダイバーシティと聞いた時は、なんというか海関連の単語で、海の見える街とか、ヴェネツィアとか、そういうものを想像していた。

グローバル化が進む今日では、コンビニの店員さんが外国人であることも珍しくない。

多様性ときいて、イコールで外国人を想像するあたり、私の思考はまだ凝り固まってるんだろうなと感じる。単に国籍だけじゃなくて、年齢とか性別とか宗教とか好きな野球チームとか、何であっても多様性なんてものは存在するんだろう。

多様性とはなんだろうかと考え出したのは、とある方が
最近はどこに行っても、多様性という言葉を耳にしますよね
と話していたからだ。

なるほど、と思った。

多様性を大事にしたいと考えている人は、多様性を大事にしたくないと考えている人のことを認めることができるのだろうか。
多様性を大事にしたくないと考えている人というのが、具体的にどういう層を指すのかはあまり想像ができないが、おそらく、というか限りなく絶対に近い状態で存在するとは思う。


少し話は逸れるが、大学に入学して間もない頃、グループワークの講義があった。
私は講義等で行われるようなグループワークが苦手で、それは目的意識やモチベーションに差がありすぎて、グループという形態にもかかわらず、統一感が生まれにくいからなんだけれど、その時はブレインストーミングを行う回だった。
ブレインストーミングとは、簡単に言うと案だしの話し合いみたいなもので、質より量を重視して、思いついた案を付箋にたくさん書くというものだ(と思う。)

このブレインストーミングといのはいくつかルールがあって、実現可能性をそこまで考慮しないとか、さっきの質より量重視とかがそうなんだけれど、そのうちの一つに”相手の意見を否定しない”というルールがある。

正直いって私はこのルールが好きではない。
いくらなんでも的外れな意見があれば、議論の時間を無駄にしないためにも軌道修正を行うべきであって、そのためには相手の意見を否定することも必要だと思うからである。

しかし、案を出すのが目的であるブレインストーミングは発現しやすい空気を整えることが何より重要であり、もし意見を否定されるようなことがあったら、意見しにくくなるからだと、また一見的外れに見えても、そこから連鎖的に生み出された案が素晴らしいものであることもあるかもしれないからだ、と教わった。

まあ確かに理屈はわかる。

しかし、その”相手の意見を否定しない”というルールは”軌道修正のためには相手の意見を否定することが必要な場合もあるだろう”という私の意見を否定してはないだろうか、と、それは矛盾してないか?と、そんなひねくれたことを思ってしまうのだ。

ちなみにこれはかなり余談だが、タチが悪いのはこの”相手の意見を否定しない”というルールの背景を理解してない存在だ。意識高い”系”の人が陥りがち(私も含めて)だが、そのルールに囚われすぎて、杓子定規のようにしか使えないからだ。

発現しやすい場を整えるため、という背景がわかれば、否定したい気持ちをぐっとこらえて、言い方を工夫したりするが、
「いや、ブレインストーミングってのはそういうものなんで。」
とだけ言われてしまえば、むしろ私のような輩は発言がしづらくなってしまう。

もし仮に、このルールが否定したがりの人々の発言を抑制するというテーマがあるなら、少なからずあるのだろうが、まあ使い方としては間違ってないだろう。

しかし、”相手の意見を否定しない”というルールはあくまで”発言しやすい場を整える”という目的に対する手段にしかすぎず、その手段にばかりとらわれすぎて、本来の目的を損なってしまうのではないだろうか。

話を戻すが、多様性というテーマに関してもそうだろう。

先に述べた、多様性を大事にしたいと考えている人は、多様性を大事にしたくないと考えている人のことを認めることができるのだろうか。認めることができなければその人は多様性を受け入れられていないことになり、しかし受け入れてしまえば多様性が重要でないということを認めてしまうことになるというジレンマをどう処理しているのだろうかと思う。

考えに考えた結果、「共感」「理解」「尊重」の選択肢を使い分けることが重要なのではないか、という結論に至った。あくまで今の段階では、だけど。

「共感」は納得と言い換えることができるかもしれない。
これは、自分とは違う存在を受け入れることを肯定する多様性とは少し離れた方向にあると思う。すべてのものに共感できるのであれば、そこに生まれるのは統一感であって多様性ではないと思うからだ。

近年多くの場では、この「共感」の押し付けが横行しているように感じる。

多様性が多くの場合、マジョリティがマイノリティを受け入れる構造だと思うが、マイノリティ側が、「私を受け入れてね」と振りかざしているように感じる。
確かに相手の気持ちや考えに共感することができれば、相手を受け入れることは容易だろうけど、反対に相手を受け入れるための必要条件として「共感」しなければならないということはない。
ここの勘違い(より言葉を正すなら、この私の考えに対する認識の違い)こそが、多様性が損なわれる要因ではないだろうか。

共感の次に来るのが「理解」だ。
あなたの意見に共感はできないけど、立場や背景を考えればその主張が言いたいことはわかるよ、というスタンスである。
「君がそう思うんならそうなんでしょ、君の中ではね」
という一見すると冷たい反応のように感じるが、衝突を避けるにはこれが一番適切ではないだろうか。異なった主義主張をもつ存在が共存していくためには、衝突を避ける必要があると私は思う。

そして最後に「尊重」である。
共感や理解ができなくても尊重はできるだろう。
生きている上で、相手の話が1ミリもわからないということは意外とある。
あえて言うならば私にとってはビーガンがそれにあたる。精進料理とかもそうだ。
動物の肉は命を奪う行為だから、野菜だけ食べる。なるほど。でも植物にも命はあるでしょ?とか思ってしまう。
でもその人の中にはきちんとした価値基準があるのだろう。
申し訳ないけれど、あなたの考えは理解できない。でもだからといって植物にも命はあるから野菜も食べるなとは言わないし、肉を食べろとも言いません、みたいな。

多様性が成り立つ世界というのは、人々がこの「共感」「理解」「尊重」を使い分けることができるということだろう。自分の考えとどの程度重なるか、重ならないにしても、重ならないなりにどうするかということだ。

受け入れる、認めると言った表現にこだわるのではなく、受け入れ方、認め方にも種類があることを踏まえた上で、その使い分けをすることが多様性ある世界への第1歩だろう。

でもこれは、私が自分とは異なる他の誰かを受け入れようとするような前向きなものではなく、たとえ異なっていても気に食わなくても、私のことを受け入れてほしいという甘えに過ぎないのかもしれない。

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