(読書メモ)カント『実践理性批判』読解1(道徳の原則について)
以下、『実践理性批判』「実践理性の原則について」の読解(第一部原理論-第一篇分析論以下の)。
定義
▼主観的なルールと客観的なルール
道徳を実践するルールは二種類ある。
一つは、主観的なルールで「格律」と呼ばれるもの。もう一つは客観的なルールで「実践的法則(*)」と呼ばれるものだ。
前者は自分だけに通用すればよいものであり、そのまま【各個人のルール】と呼ぶことにする。後者は、すべての理性的存在者(理性さえあれば人間(ホモ・サピエンス)でなくてもよい。文章がわかりにくくなるので、以下は便宜的に「人間」と表記する)に通用するルールで、これを【万人のルール】(あるいは道徳法則)と呼ぶことにする。
▼道徳の実践ルールの表現(二種類の命令)
道徳を実践するルールは「~すべし」という命令で表される。
しかし、結果を考慮した命令は、仮言命法(条件付き命令)に過ぎず、【万人のルール】とはいえない。たとえば、「年をとって生活に困らないようにするためには、若いうちに働いて倹約に励まなければならない」というのは、条件付き命令である。そうすべきかどうかは、当事者の状態(遺産がある、など)や欲求(困っても構わない、など)にゆだねられる。必然的なことではない。
【万人のルール】は、結果を考慮しない。とにかくやらなければならないことである。定言命法(無条件命令)となり、普遍的な法則となる。たとえば、ある特定の人に向かって「偽りの約束をするべきではない」と言う場合、それは、その人の意志に関するルールに過ぎない。しかしこれが、普遍的に通用するルールとわかれば(*)、無条件命令となり、【万人のルール】となる。当事者の状態や欲求に関わりなく、すべての人々(理性的存在者)にとって、すべての場合にそうすべき必然的なことであるからだ。
4つの定理
(定理1)自分の欲求を充たしたり、利益を見越しての行為は、【万人のルール】ではない。
(定理2)上記(定理1)の行為は、一言でいうと、自分の幸福を求めることである。
(定理3)【各個人のルール】でも、結果はどうあれ、とにかくやらなければならないのであれば、それは【万人のルール】に分類できる。それは、結果や利益に関係なくやらなければならないことがらである。実質的に何かが得られるかどうかは、一切考慮しない。期待もしない。
(定理4)自律的な行為だけが【万人のルール】である。他律的な――何らかの衝動や傾向に推されて行うような行動は該当しない。「やらなければならない」形式にたまたま当てはまっても、【万人のルール】ではない。
定理1の補足ーー他律的行動(快不快からの欲求)は除外すること
(定理1)では、とくに快不快を原因とする行動のことを想定している。欲求に基づく行動は理性的行動ではない。何らかの利益が得られることを期待して行なう行動の根底には、快不快の感情がある。感情に動かされることは自律的ではなく、他律的である。
定理2の補足ーー幸福(感情、快不快からの欲求)を動機としてはならない
(定理2)は、損になっても正しい行動をとるべき状況を想定している。つまり、自分がその行動をすることで、利益が何も得られないか、逆に損害にしかならない、あるいは、不快な感情しか得られない。自分は不幸にしかならない。それでもその行動をとらなければ正しいとは言えないような場合である。
幸福を求めることは主観的なことなので法則(普遍的なルール)にはなり得ない。法則は万人に客観的なものである。幸福を根拠にして言えることは、「そのようにしたほうがあなたのためになる」というおすすめ程度のことだ。幸福を道徳の根拠にするくらいならば、「万人に通用する道徳法則【万人のルール】はあり得ず、せいぜい『こうしたほうが良い』という教訓が設定できるだけである」と主張するほうがまだ理解できる。
定理3の補足ーー本当に自由な判断とは、利益から離れた判断である
(定理3)は、行動の動機として実質的な利益を考慮しないことが重要である。実質的な利益はその実行者本人だけのものであるため、その人個人の動機となってしまい、例外なくすべての人に適用すること(普遍的立法)ができなくなるからである。
(定理3の例:委託物)
たとえば、私が「あらゆる安全確実な手段を用いて自分の財産を増やすこと」を【各個人のルール】としている、とする。その私に、ある人が高価な物品を委託して、返却前に不慮の事故で死去した、とする。さらに、その委託を証明する書類はまったく残っておらず、証人もいないとする。すると、私はこの物品に対して、【各個人のルール】を適用することができる。
では、この【各個人のルール】は【万人のルール】になり得るか?
ならない、と回答できる。なぜなら、もしこのルールが普遍的な【万人のルール】となった場合、「証拠が何もなければ他人から預かったものを自分のものとしてよい」ということになり、委託物というもの自体が存在しなくなるからである(*)。
(課題1)論理だけを根拠として形作られる意志とはどのようなものであるかを説明せよ
感覚器(五感)からの快不快と感情による判断を除いた場合、残るのは論理による判断(理性による判断)だけである。このような判断は、物理的な縛りから解放されたものであって、完全に思考だけによる判断となる。「完全に思考だけ」ということは、完全にその人の自由な判断ということである。つまり、論理だけを根拠とする意志は、自由な意志である。
(課題2)では、上記の自由な意志を、自由にしている根拠を説明せよ
ルール(道徳)の対象はつねに経験的なーー実際に起こる一つ一つのことがらである。この実際に起こる一つ一つのことがらから、快不快・感情・物理的な縛りを取り除くと、残るのは論理だけである。一方、自由な意志は、快不快と感情を除いたものであり、経験から離れた存在ーー論理のみの存在である。この「論理のみである」ということが、意志を自由にしている唯一の根拠である。
例( 快不快・感情・物理的な縛りを取り除いて、純粋に論理だけで行動の是非を判断すること)
ある人がどうしてもセックスしたい相手がいて、「もしそんなチャンスが訪れたら、どんなことがあってもその人とセックスする」と宣言しているとする。そして、その人に望む相手とセックスできる機会が訪れたが、セックスしたらすぐ処刑されるという。この場合、その人はどうするか? この程度のことなら、(宣言に反して)セックスせず我慢するだろう。
しかし、次のような場合ーー。
ある人が君主に仕えているとする。君主がその人に、「ある邪魔な家臣を死刑にしたい。お前、そいつを罪に陥れるために偽証しろ。さもなければ、お前を死刑にする」と要求してきたとする。そして、君主が陥れようとする家臣に罪はなく、むしろ君主の方に非がある。この場合、さすがにその人もすぐにはこの要求を拒否できかねるだろうし、しぶしぶ承諾するかもしれない。しかし自由な意志による判断(快不快・感情・物理的な縛りから離れた純粋に論理だけの判断)で、「たとえ死刑にされても偽証するべきではない」という考えを持つくらいのことはするだろう。
▼法則
自由な意志での判断によって、(普遍的な)道徳法則に沿った行動を選択することができる。つねに自由に意志判断をせよ。
▼直ちに導き出される命題
(経験的なことを排除した)純粋な論理によって完璧な善悪判断が実行される以上、論理はそのまま実践的であり、道徳法則を人々に与えるものである。
定理4の補足ーー実質的な利益の除外(とくに幸福の除外)について
▼除外すべき幸福の種類(金銭、好意、他人の幸福etc.)
(定理4)で念を押して言っている他律的行動というのは、実質的条件を含むことである。この「実質的」なものは金銭のような利益だけでなく、心理的な安心安全や他人からの好意や支持のようなものすべて含む。「幸福」と言い換えられるようなことがらすべてである。これには他人の幸福も含む。他人の幸福を動機とする行動も他律的である。
▼幸福の除外は特定の状況だから(必然的規則ではないから)
実質的条件を排除するのは、これらが各人の限られた状況(時間や関係者が限られた状態)の中での条件となるからだ。限られた特定の状況での判断に左右され、しかも各状況は多種多様で変化しやすい。確かに、幸福のような実質的条件をもとに道徳規則を設定したとして、上手くやれば、だいたいにおいて極めてよく当てはまる規則を与えることはできるだろう。しかし、いかなる場合にも当てはまる(万有引力の法則のような)必然的規則とはならない。
▼道徳法則は根拠として確実であり、幸福は不確実である
道徳法則は「〜すべし」と厳然と命令する。幸福(自愛、計算高さ)のルールは「〜したほうがいい」と勧めるだけである。自由な(自律的な)意志で「何をなすべきか」を判断するなら、ことの是非は簡単に判断できる。世間知も必要ない。力強い、確実な判断となる。一方、(他律的な)幸福を基準として「何がなされるべきか」を判断するとなると、何がより永続的な利益となるか、広い世間知や計算高さが要求される。頼りない、不確実さの残る判断となる。
▼道徳法則には簡単に従うことができるが、幸福に従うのは難しい
また、道徳法則には誰でも従うことができる。結果の損得を考えることなく、すべきことをただすればよいからだ。自分のできる行動をとりさえすればそれで済む。しかし、幸福のルールとなると、従うのが難しくなる。幸福は結果が問題になるからだ。結果を出し、幸福を得なければ、よい行動とはいえなくなる。知識や人脈や身体能力が必要となる。それだけに、「幸福になるべき行動をとれ」と命令されても、方法まで提示されないとなかなか正しい行動はとれない。
例(道徳法則を基準とする場合と、幸福を基準とする場合)
ゲームでチート行為をして勝った場合、道徳法則を基準にするならば、実行者は「自分はろくでもないことをした」と考える。幸福を基準にするならば、「自分は賢く勝ちをとった」と考える。前者は行為(本人の意志)を評価し、後者は結果を評価している。
▼刑罰に対する考え(純粋な物理的悪である)
道徳法則の違反は刑罰に値する。今、論じている実践理性の思想は、その考えを含んでいる。もちろん、刑罰は正義によって行われる。しかし、刑罰に違反者を矯正する意図があったとしても、刑罰自体は純粋に物理的な悪であり、まったく善いものを含まない。
これは、次の考えを否定する意図がある。「犯人は犯罪を犯すことで自分の幸福を毀損したために、刑罰を受けた」という考えである。この考えは矛盾している。この考えのみなもとは、「ある行為が犯罪と判断される根拠は、その行為自体が悪いからではなく、行為の結果として、その人自身の損害になるからだ。また、さらに大きな代償として刑罰が設定されている」というところにある。この理屈でいくと、「犯人は犯罪を犯した時点ですでに罰を受けているので、刑罰は必要ない。むしろ、正義の側としては、これ以上罰を加えるべきではない」ということになってしまう。
▼人間には「道徳的感覚」が存在する、という論説への反論
「人間には「道徳的感覚」というものが存在する」と主張する学者たちの道徳論にも反論を加えておく。
この学者たちによれば、人間には「道徳的感覚」というものが存在し、道徳法則はこの感覚によって決定されている、という。そして、この感覚が、道徳的行為を満足・快楽に、不道徳を不安・不快に直接結びつけ、人間の行動を動機づけている、というのだ。
これまで語ってきた幸福に基づく道徳法則の間違いによって反論してもよいが、ここでは、この説のごまかしを説明して反論としておく。
罪を犯した者が、その行為の悪さによって不安や苦痛を感じるには、本人が「自分の行為は悪いことであり、自分は義務を欠いた」と認識していなければならない。つまり、その「道徳的感覚」が、一つ一つの行為・出来事を善悪に振り分ける基準が先立って存在していなければならない。善悪の根拠となる道徳法則や義務の概念が、快不快に先立っている。したがって、快不快から道徳法則や義務が成立したとは言えないはずである。
私は人間がそのような感情をもつことを否定はしないし、むしろ、道徳的訓練によってそのようになるべきだとすら考える。しかし、快不快を責任や道徳の根拠とすることはできない。もし、快不快・満足感・不安などに根拠を求めるなら、義務の代わりに、人間の傾向をできるだけ洗練したもの(人間とはそういう行動をとりがちである、というような傾向)(*)に、道徳の基準をゆだねることになる。しかしそれはもはや、自由な意志から導き出される義務ではない。機械的な条件反射である。
理性を道徳判断(理性の実践的使用)に使える理由についてーー実質をもたない形式だけの理性が、なぜ、意志決定し行為を実行できるのかについて
1 原則(理性は道徳判断に使用できること、その場合の問題点)
快不快や感情から離れた形式(論理)だけのものが理性である。そのような理性が、意志決定を行い、実行すべき行為を判断できるのか?
快不快や感情から離れ、論理だけになること(つまり理性)で、意志は自由(自律的)な判断ができるようになる。利害損得や欲求から離れるからである。この状態では、自分自身を理性による吟味の対象として扱うことができる。
しかし、自分以外のものについては、すぐに理性で吟味することはできない。
▼自分以外のものを、すぐには理性の認識対象にできない理由(物自体)
前著『純粋理性批判』では、最初に与えられたデータは、リアルタイムで認識できる時間と空間に関するものだった。これらは直観によって認識されるデータ、つまり、五感(感覚器、正確には八感以上ある)から取り込まれて認識できることがらだった。そして、この感覚器を通じて認識できるデータから論理を組み立てていった。感覚器を通さずに、概念だけから物事を説明することは不可能だった。感覚器を通じて認識できるデータあればこそ、カテゴリーという「物事のくくり」を設定できた(*)。
ところが前著では、感覚器の認識を超えて、その物自体を認識することについては不可能という結論に至った。例えば、目の前に机があるとして、この机(机自体、机そのもの)が本当に存在するのか、目の錯覚や触覚の間違い、幻覚ではないのか、感覚器が机が存在すると誤認識しているのではないか、この世界は実は『マトリックス』の世界ではないのか、それを証明することはできなかった。ただ、物自体(この場合の机自体)が存在する必然性を確認できただけだった。
結局、理性だけでは対象物を認識できないーー感覚器を通さなければ対象を認識できない、という見込みで完結した。
2 自然を認識することと、道徳的判断との違いについて
▼行為・出来事は理性の認識対象となること(物ではないから)
これに対し、道徳法則は行為や出来事をいくらか抽象化し、カテゴリー分けして整理することをわれわれに指示する。
一般にいう自然は、先ほど例に挙げた「机の認識」のように、感覚器を通して認識するしかない。そして、自然の法則ーーたとえば万有引力の法則は、理性とは別に存在する他律的なものである。一方、行為・出来事はリアルタイムでの認識と違い、一度感覚器を通してデータを取り込んでしまえば、あとは理性で直接認識できる状態になる。自律的な思考の対象にできる。思考の中で「模型化された自然」というようなものになる。論理的な思考(理性)は、この模型化された自然から本質的な要素を抽出し、カテゴリー分けして整理する。そうしてできるモデルをひとまず「本質的な自然」と名付けておく。このモデルをさらに理性が精錬することで、最高善へと行き着く。重要なのは、これら(模型化された自然、本質的な自然、最高善)が感覚器を通さず、理性(論理的な思考)で直接認識できることである(超感性的自然)。
例1:正しい証言をすること
本気で「【万人のルール】であるにはどうしたらいいか」という問題と向き合うならば、誰でも(どんな嘘つきや狂信者でも)誠実な気持ちにならざるを得ない。そうなればーーたとえば、自分の決めたルール(つまり【各個人のルール】)にしたがって、ある証言を行う場合、故意に偽った証言をすることはあり得ない。この自分のルールが【万人のルール】とみなされるとしたらどういうルールであるべきかを考えるからだ。自分の証言が、証明力をもつものであると知りながら、故意に偽った内容を証言するなら、【万人のルール】の普遍性と矛盾することになる。
例2:自殺が否定されること
では、私が自殺をしようと考えているとしたら、私にとって正しいルールはどうであるべきか?
この場合でも、自然が自然法則にしたがって自己保存を計るためにはーーつまり【万人のルール】であるためには、【各個人のルール】はどのようなものでなければならないか、を考える。自己保存を欲する自然(*)においては(自殺志願者本人が欲するのではなく自然が欲する)、誰も自分の命を自分の意志で断つことはできない。自殺しようという心の状態は、恒常不変の自然秩序ではない。したがって、自殺は否定される。
以上の2つの例は、ほかのすべてのことに対しても同様である。
3 道徳法則は思考上での客観的基準であること(一方、自然法則は現象の世界での客観的基準である)
▼思考の中の(模型化された)自然について
自由意志はみずから進んで道徳法則に沿う【各個人のルール】を採用するようにはできていない。人間の行動は一般にいう自然にしたがう傾向がある。一般にいう自然は、前節で述べた「思考のうちに作られた【本質的自然】」とは別のものである。
しかし、損得を離れた論理的な思考は、私たちに一つの法則(道徳法則)を意識させる。この法則が道徳法則=【万人のルール】である。損得を離れた意志によって、思考の中の自然は秩序づけられる。【各個人のルール】は【万人のルール】に沿ったものとなる。道徳法則は、一般にいう自然ではない。自律的な意志(自由な思考)によって形作られた理念である。理性が「思考の中の自然」を認識する以上、思考の中の自然は客観的実在と言っていい。
一般にいう自然(自然法則が支配する)と思考の中の自然(道徳法則が支配する)を区別する根拠は次のとおりになる。一般にいう自然は、意志が感覚器を通じて受け取るイメージの原因であり、意志とは別に存在する客観である。一方、思考の中の自然は、意志が自然を思考の中に作り出しているのであって、意志が客観の原因である。つまり、一般にいう自然と思考の中の自然を区別する根拠は、意志が自然に従属しているのか、意志に自然が従属しているのか、である。
ここで二つの問題が発生する。
理性は、客観をどのように認識しているのか?
理性はなぜ、意志決定の根拠となりうるのか?
▼理性は、客観をどのように認識しているのか?
まず、直観を説明する。人間は感覚器を通じて物のデータを思考に取り込む。取り込んだいろいろなデータを無意識のうちに組み合わせて(悟性によるカテゴリー分け)、理性によって認識する。これが直観である。直観は感覚器からのデータの取り込みを必要とする。したがって、直観にもとづく認識は、経験可能なことを超えることはできない。感覚器で捉えらえないものを認識することはできない。認識可能なのはその物自体ではなく、物自体が与える現象のみで、それだけで完結した全体を捉えることはできず、一部のみを認識できるだけである。つまり、「(物自体⇒)現象⇒感覚器⇒悟性(カテゴリー分け)⇒理性(認識)」となる。
▼理性はなぜ、意志決定の根拠となりうるのか?
第二問は言い換えるなら、理性はどうして意志決定のルールを決めることができるのか? あるいは、理性が経験抜きの思考上の自然の法則(道徳法則)たり得るのか? ということである。
まず、ことわっておくと、直観は感覚器を通して行うものであって、思考の中でだけの「知性的直観」というようなものはありえない。直観はルールや思考上の法則にはならない。
一方、快不快、利害損得を離れた論理的思考が理性である。そのような理性は自由であるから、何に捉われることもない判断ができる。そうした判断が意欲の根拠となる。その判断が意志決定のルールとなり、経験抜きでの思考上の法則となる。
▼道徳法則の客観的実在の証明がすぐにはできないこと
ここでひとつ、注意がある。
『純粋理性批判』と同じ論法で、前述の意志決定のルールが客観的で普遍的な妥当性をもつことを証明できるかというと、そう簡単にはいかない。純粋理性批判で論じた認識論では、感覚器を通して思考に取り込まれた一つ一つのデータが、カテゴリーという物事のくくりと照合されて認識される(「(物自体⇒)現象⇒感覚器⇒悟性(カテゴリー分け)⇒理性(認識)」)という話だった。この手順によって、元のデータは経験の対象となった。すべての経験は、この認識の法則にしたがって行われることが証明された。
しかし、道徳的判断の対象となる出来事は、外から感覚器を通じて得られるデータに基づいて理性が認識するわけではない。対象となる出来事の本質を理性が直接認識する。前節で説明した、思考上の模型化された自然の認識モデルの通りである。理性の側に原因(自由・自律)をもつ認識だからである。
「なぜ人間はこのような認識を行えるのか」、「なぜ理性を持っているのか」といった、人間がそもそもこのような能力を持つ理由、能力が存在する理由については、回答できない(*)。人間の身体の構造としてどういう仕組でこのような能力が発生しているのか我々には理解できないし、「道徳的感覚」のような架空の能力を持ち出すのはただの誤魔化しだからである。理由の説明として使えるもののうち、まっさきに思いつくのは経験である。しかし、経験を持ち出すと、すべてに先立つはずの実践理性が後天的な経験を根拠とすることになってしまう。したがって、経験も使えない。
ただ、道徳法則が思考上の事実であることは前節で説明した通りである。すべてに先立って理性で直接認識できる。これは、現実の一つ一つの事例で道徳法則が厳格に守られた行動が見つからないにせよ、まちがいない事実である。道徳法則の客観的実在は根源からの推論によっても、経験からの立証によっても証明できないものの、しかし間違いなくそれ自体で成り立っている。
(結論)道徳法則が成り立っている根拠は、推論によっては証明できない。
▼自由(自律)の実在が道徳法則によって推論できること
道徳法則が成り立っていることが、自由の実在を推論する根拠となっている。自由は極めて原因に近いものであるため、その結果である経験では証明できない。しかし経験抜きでも、理性は、自由という原因的な能力を想定せざるをえない。道徳法則が自由を原因にさせている。道徳法則は経験と関わりのない思考上の自然を成立させているーー思考上のことがらを整理して全体に秩序を持たせているである。これによって、『純粋理性批判』では消極的な概念でしかなかった自由が、道徳法則によって積極的に原因となり実在のものとなる。
▼道徳法則が理性に常識を与える
道徳法則は意志に理性を付け加える。これによって、意志に普遍的妥当な(すべての場合に適切にあてはまるか)条件という枠組みが設定される。さらに道徳法則は、理性に経験の範囲内での判断という枠組みを与える。これによって、理性は自由や神や心の不死のように野放図にならないように制限をかけられる。
4 自由=原因は道徳法則の一部であること
▼自由の仕組み(自由がどういうもので、そう言える根拠は何か)
感性界(現象界:Sinnenwelt)ーー五感で感じとることのできる世界、自然を現象で見た場合の世界(だいたい自然と同じものだが、五感で認識できさえすればよいので『マトリックス』のような世界でもよい)(*)では、原因を遡ると切りがない。にもかかわらず、仮に探求し切ることができれば、おそらく、ほかのものを必要としないそれ自体で原因となる何かがあるはずである。それゆえ、原因となる自由は、経験(感性)抜きの理性においては、理性の不足を補う補助パーツではなく、分析の原則の一つであった。条件付きの側ではなく、無条件の側の存在(根源の一つ)だった。時計の仕組みそのもの(パーツの一つではなく)のように、理性の仕組みの一つだった。
自由は、上記のような現象の世界では存在し得ない。現象の世界はすべて何かの結果によって構成されており、根源的な原因となるものは特定し得ない。例えば、万有引力の法則も、時間や重力についてはすでにあるものとして説明される。なぜ時間や重力が存在するのかについては説明してくれない。これらの説明は、私の死後、アインシュタインの相対性理論を待たなければならない。しかし、その相対性理論も説明できるところまでを説明したのもに過ぎず、この世の根源までを説明しているわけではない(*)。したがって、原因である自由が存在しうるのは、思考の世界(可想界、叡智界:intelligible Welt)だけである。この思考上の存在者に自由が適用される。今までの論説でも述べたとおり、思考上の自然の中であれば、自由(自律)が無条件に原因となる。これは、自由が、理性を形作る仕組みの一部であることと矛盾しない。
ただ、自由が理性を形作る仕組みの一部であるとなると、このままでは、自由の原因の対象(道徳法則)を理性が認識できないことになる。ちょうど、右目で右目を見ようとする、あるいは、右手の中指を右手でつかもうとするようなものである。
それは、次の方法で解決する。自然界については、この世界の出来事は結果から原因へと際限なく遡ることになる。この自然の必然は仕方ないと認める。一方、思考の世界は思弁的理性にとっては空虚な場所なのであけておく。ここへ無条件者である道徳法則を移し入れるのである。
『純粋理性批判』では、このように思想を思考の中に実在化するというモデルに行き着かなかった。自由の原因的な働きに従って行為を行うような存在(実践理性)に気づけなかったからである。これにより、思弁理性にも実用性が出てくる(*)。自由の存在を、確実にすることができるのである。『純粋理性批判』では、自由は、あるのは間違いなさそうだが存在を証明できるというところまではいかなかった。しかし今や、以上の論理から自由はこの場所(思考上の世界)に、思考上の実用に過ぎないにしろ、客観的な実在が与えられる。
▼(論理だけの)理性が意志決定できる根拠
そもそも、思弁理性は損得抜きの論理である。理性が思弁理性という働きしかしないのであれば、理性が思考の中でどうして意志決定できるのかを説明できない。論理的思考には論理だけで欲求がないからだ。経験は現象が連結しすることでできあがっている。欲求がないと、その経験を選ぶということができない。
そこで理性は、実践理性としてふるまう。意志決定の根拠を思考上の秩序のなかに設定する。それは個別の対象を認識するためのものではない。道徳法則の正しさに則した認識であり、この世の枠組み(カテゴリー)と一致する損得抜きの論理の行き着いた形である。それゆえ、意志決定がなぜできるのか=思考上の自然秩序に従うから、と言える。損得抜きの論理的思考である理性であればこそ、この判断に従うしかないわけである。
▼原因について
原因を客観的実在にするのは理性ではなく、道徳法則である。それゆえ、原因は先天的な概念であって、いかなる対象にも適用される。ただ、対象が五感で捉えられない論理やイメージだけのものの場合は、本質的な思想として捉えられる。
意志はみずから原因となるか、原因の根拠となる。
現象の認識の場合(理性の理論的使用)には行えなかった理性での物自体の直接認識を、なぜ、道徳判断(理性の実践的使用)では行えるのかについて
ここまでの探究で、我々は理性が道徳判断を行えることを明らかにした。理性は、善悪の選択肢がある場合に、自律的に(原因となって)意志決定できるということである。これは、道徳法則を介することで可能となった(道徳法則は、現象の世界における自然法則とはまったく別のものである)。ただ、人間の意志がなぜ存在するのか、意志の主体とは一体何であるのかについては(脳科学が未発達のため)わからない、というしかなかった。
しかし、ここで大きな問題がある。このような認識の拡張――対象物を感覚器と種類分け(悟性、カテゴリー)を通さず理性で直接吟味しに行くということは、私の前著『純粋理性批判』では「できない」と主張したはずだった。この拡張を許したことについて、どう筋道をつけたらよいのか。この節ではそれを説明していく。
▼イギリス経験論・懐疑主義のデービット・ヒュームの考え(感情による認識論、理性の否定)
上記にあたって、説明のたたき台として、まず、イギリス経験論かつ懐疑主義の哲学者であるヒュームの認識論について概説する。
ヒュームは、因果関係(原因と結果)を推論する理性の働きを否定し、経験だけを認識の原理とした。たとえば、玉突きのボールが他のボールに衝撃によって運動を起こさせる場合、実際には、第一のボールの運動と第二のボールの運動はまったく別のものである。第一のボールの運動が第二のボールに運動を起こさせたと、観察者が習慣から思い込んでいるだけである。現に、観察者は玉突きを何度も見ているうちに、そのような現象を当然のものを思い込んでいるのであって、2つのボールの運動の因果関係を証明したわけではない。明日も今日までと同じであるという予想は、習慣によって植えつけられたものである。習慣(主観的必然)に過ぎないものを、客観的必然だと思いこんでいるにすぎない。
この理屈では、ある事実から推論によって結果を導くことは不可能になる。せいぜいのところ、次も同じことが起こるであろうという期待ができるだけである。決して確実ではない。あらゆる出来事についての原因がなくなり、結果から原因へ遡る推論も不可能になる。
また、安泰かと思われた数学ですら、次のような危険がある。ヒュームは数学の命題は分析的だと考え、1+1は「2」であるのは確実だと考えた。つまり、「1は、1以外のいずれの数値(2~無限大)でもないので、1+1=2にならざるを得ない」ということである(*)。しかし、経験論では観察者が存在し、この観察者たちの認識(経験)の仕方によって数学の因果性の確実さも危うくなる。たとえば、プログラマーは1+1=10(2進法)と認識するかもしれない。採用する理論や決まりによって、観察内容(経験)が変わってくる可能性がある。
▼ヒュームの認識論の欠陥(「物自体を経験できる」という思い込み)
ヒュームは人間の認識の仕方の考察が足りず、物自体を経験できると思い込んでいた。実際には、前著『純粋理性批判』で説明した通り(「(物自体⇒)現象⇒感覚器(経験)⇒悟性(カテゴリー分け)⇒理性(認識)」)、人間の感覚器は物自体は認識できず、現象を認識できるだけである。それゆえ、映画『マトリックス』のような状況があり得る。
物自体はそれだけで成り立っている本質であるため、他の原因はあり得ない。もし、ヒュームがそのことを指摘したのだったら、彼は正しかった。たとえば、前述の玉突きの2つの玉の運動は、それぞれが独立した存在であり、それぞれがそれ自体で成り立つ本質を持つ。他の原因はありえず、他の本質を生成するような結果も生じない。となると、「玉突きの2つの玉の運動が原因と結果である」いうのは思い込み(習慣)に過ぎない、ということになる。
▼『純粋理性批判』の認識論による反駁
私は『純粋理性批判』で、認識に関して次のことを明らかにした。
第一に、人間が経験できる対象は現象だけであって、物自体は経験できない(*)。
第二に、物自体としての(A)と(B)は認識できないため、「原因(A_物自体)が結果(B_物自体)を生じさせる」ということが矛盾するかどうかを考察できない。にもかかわらず、経験として「原因(A_現象)が結果(B_現象)を生じさせる」が成り立つ、ということはあり得る。
『純粋理性批判』で発見したこの「(物自体⇒)現象⇒感覚器(経験)⇒悟性(カテゴリー分け)⇒理性(認識)」という認識モデルによって、わたしは経験のみに頼ることから生じる懐疑論を自然科学からも数学からも除去した。
▼カテゴリーの働きについての補足
カテゴリーについて言うと、以上の認識におけるカテゴリーの働きは、原因性のカテゴリーだけでなく、他のすべてのカテゴリーについても同様である。種類分け(カテゴリー分け)なしでは、認識は成立しない。聴覚が捉えた音が、人間の声なのか、エアコンの動作音なのかを区別できない。なお、カテゴリーの経験への適用が客観的――どういう場合にも通用するものである、ということは、『純粋理性批判』ですでに証明した。
▼カテゴリーを直に物自体に適用してみる
では、ここで問題にしている「原因のカテゴリー」を(経験できないはずの)物自体に適用できないだろうか。
これまでの議論で、思考上に「仮想的な自然」が存在することは説明した。この思考上の自然でなら、物自体に対してカテゴリーを適用できる。
問題は、この作業が直観ではないことである。「(物自体⇒)現象⇒感覚器(経験)⇒悟性(カテゴリー分け)⇒理性(認識)」という流れが直観である。思考上の自然は、理性で直接認識できるため、原因のカテゴリーを適用する必要はない。しかし、原因のカテゴリーを何らかの形で、思考上の認識に関係させる(使用する・適用する)ことはできる。
▼なぜ、カテゴリーを直に物自体に適用しようとしているのか?
原因というカテゴリーを思考上の物自体に適用する条件は、「なぜ今、原因のカテゴリーを経験の対象だけでなく、物自体に適用しようとしているのか?」を考えれば自ずとはっきりする。それは、理論的意図ではなく、実践的意図からである。ものの在り方の理解を探究するためではなく、何かを解決したいのだ。根源的な価値(この世の――道徳上の根源的な基準)をはっきりさせるためには、どこまで探究しても終わりのない現象の世界から離れて(*)、思考上の自然へ(条件付きから無条件の側へ)目線を移す必要がある。たとえ現象の世界に残された多くの未知について気になるにしても、ひとまずそれらは置いておいて、感覚器で捉えられる現象の世界から、理性のみで認識可能な思考上の自然世界へと観察対象を変えなければならない。
▼実践理性の存在証明
悟性(カテゴリー分けをする知性)は、『純粋理性批判』の直観モデルでは、認識対象と関係していた。一方『実践理性批判』の道徳法則に則った思考上の自然モデルでは、悟性は欲求能力と関係している。
この欲求能力は意志と呼ばれる。
純粋な悟性=理性は、実践的である限り(道徳に使用される限り)純粋意志=実践理性と呼ばれる(*)。
実践理性の客観的実在(存在)は、道徳法則によってすべてに先立って――つまり事実によって、与えられている。
否応なく発せられた意志(実践理性)は、経験論の原理にもとづいていない場合でも、事実と呼んで差し支えない。
意志は原因でもある。
純粋意志=実践理性には、自由にもとづく原因が含まれている。この「自由にもとづく」とは「自然法則に拘束されない」ということである。
(結論)以上のことから、経験的直観で自由な意志が存在することを証明できなくても、純粋意志=実践理性(=自由な意志)の存在は証明されているといえる。
▼カテゴリーを直接物自体に適用できるのは思考上においてのみ
自由な意志を持った人は、思考上の自然の原因となることができる。原因は理性から発生したもので、確実に存在する概念としてだいたい何にでも適用可能である。しかも原因は現象の世界においては一切制約がない。したがって、現象だけにでなく、物自体にも適用できる。ただ、このような完全に思考上の原因は、「何かの原因」という内容のない枠だけの存在である。内容を得るには、感覚器を通す直観によって、現象の世界から内容を得るしかないが、思考上の自然ではそれができないからだ。以上で、原因と自由と(また自由と不可分である道徳法則と)が関係することを確認できた。ここでは、ひとまず以上の議論で充分である。自由な意志を持った人(=存在者)がどのようなものであるかを理論的に知る必要はない。ここで言いたかったことは、「原因というカテゴリーは思考上の世界のものごとにのみ適用できるのであって、現象の認識(純粋理性による直観)には適用できない」ということだ。原因は、経験ではなく理性に起源を持つ。人(理性的存在者)は、道徳法則に関係する場合のみ、原因というカテゴリーを適用できる。
▼カテゴリーの使い方
ここまでで、次のことを確認した。直観による認識(理性の理論的使用)は「(物自体⇒)現象⇒感覚器(経験)⇒悟性(カテゴリー分け)⇒理性(認識)」というモデルで表される。この認識モデルでは、感覚器から取り込んだ現象のデータに対して悟性で原因のカテゴリーを使用する。物自体を直接認識することはできないため、物自体に対しては原因を使用できない。ヒュームは、この直観による認識の悟性での原因使用を認めなかった。しかし、それでは原因自体が成り立たなくなる。
経験に制約されない原因は内容がない。しかし、枠としては使用できる(*)。この場合、意義を与えるのは、客観でなく――存在しているかどうかではなく、道徳法則である。意義が与えられるのは、もっぱら実践的(道徳的)に使用するときだけである。原因というカテゴリーは何らかの現象を中身としてもつことはないものの、道徳的使用時には、動機やルールの面で具体的な使い方ができる。
原因というカテゴリーが思考上の領域に存在を許される以上、道徳法則に結びついている限りにおいて、ほかのすべてのカテゴリーについても同じく存在を許されることになる。ただし、この存在はあくまで道徳的使用時のみである。カテゴリーはすべて知識ではなく枠――内容のない整理の基準のようなものである。思考上の世界から出られず、現象の世界で(内容を持つものとして)使用することはできない。つまり、現象の世界において、(カテゴリーを利用することで)直観以外の方法によって、物自体を純粋理性で直接認識することはできない。それは、物自体を(思考上の世界を)現象として感覚器で捉えられる形にするか、感覚器を通さず悟性で捉えるかするようなもので、どちらも人間の能力を超えることだからである(*)。