見出し画像

人付き合いが疲れることをもっと大きな声で言っていいはずなんだ

この前、集団行動を経験したんだけど、集団の中には大騒ぎしたりおしゃべりし続けたりする人たちが必ずいる。本質的に人付き合いを好む人たちがいることは知っていて、心の底から交流を願い、心の底から楽しんでいるらしい。明るい声を出し、笑い、楽しいらしい。一方で私のように、誰かと薄く広く交流することはできるけれども、心が疲れる人間もいる。社会生活に必要なやりとりは否定しないけれど、できるだけ静かにいたいと心から思っている。

その中間で、他人からは明るく思われたい。だから辛いけど、疲れるけど思い切り明るい人々と同調する人たちもいる。本心を見抜かれまいと努力しその場を乗り切ろうとする。私はそのタイプであったが、ここ最近はそんな努力を一切やめた。その場は乗り切れたとしても次に同じことができるかわからないし、ほぼそんな人間関係は苦労した割には継続しない。苦労と釣り合わない。

世の中のかなりの人々が、その交流好きの人達に合わせに行ってるんじゃないか。だから騒音は、少数のコアと、多数の同調者で成り立っているのではないかなと思う瞬間がある。

じゃあ、同調者も私のように「やれやれ」と言って、明るい人々を放っておいてくれるかというとそれは違う。明るく元気に友達100人できるかな、のパーソナリティーは社会規範でもあるので、その枠に入ろうと人々はよせばいいのに気苦労をしてしまうのだ。実は、本質的に明るい人々なんて少数なのに。

ここから先は

671字

仕事をしている人ならわかる話を毎日休まず一記事をアップしています。 詳しくは下記記事をご覧ください…

スタンダードプラン

¥300 / 月

プラチナプラン

¥1,000 / 月

サポートをお待ちしています。サポート頂いたお金は、orangeitems photosの取材に利用して行きます。