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1.誰かに必要とされる私、選ばれる私であるために。

久しぶりに予定が空いているので、日々の思考の整理でもしてみる(ZINEの原稿作りに役立つかもの願いを込めている)。暇な人は覗いて言って、ぜひアドバイスをお願いします。 

活動を始める経緯とか、そういうの少しずつ書き記すにあたって、私の根本的なところを書いていきます。

自分に対する無価値感、元気じゃない私

よく尼崎をはじめとする地域で活動する私を中心に、私と関わっている人は「ホントに元気だね。」「めちゃアクティブ」とか、言ってくださる方が多いが、実際のところ、そうではない自分も多い。

夫に対する、ネガティブな壁打ち会話は、もう何万回と繰り返した(壁打ち会話といえば聞こえは良いが、実際はありもしない思い込みをただ繰り返しているだけ)。
「私みたいな人間は生きている価値はない」「死んでも誰も悲しまない」「社会に貢献できていない自分は役立たない人間だ。死んだ方がマシ」みたいな思考に捉われてしまっている時間もある。


2024年は出産を経て、妊娠に伴う体調不良も概ね改善。そして育休中なので、仕事の組織からも合法的に長期間離れている。ゆえに「自分は仕事を普通にこなせない、配慮の必要な人間(配慮が必要である、という状況を自分が受け入れられないというニュアンス)」という劣等感からも、遠ざかることが出来た。夫が一年育休を取ってくれたおかげで、この一年、のびのび過ごすことが出来た。(日記には今年はボーナスタイム、有意義に使う、と書いてあった。)


2023年は、7週目から悪阻に倒れ、病院での点滴、嘔吐、電車酔い、とにかく日々地獄だった。幸いにも、悪阻のピークは平均的な週数で、その後はある程度緩和されたが、出産までは自宅と近隣の移動、が限界だった。(産む直前まで吐いていたり、入院した方に比べれば屁みたいなものだろうが、ここでは人と比較しないようにしてみる。)

当然、仕事は休職していた。悪阻が軽減すれば復帰するつもりだった仕事も結局、ほとんど復帰出来なかった。仕事柄でも、性格柄でも、かなり先読みしたり、色んな知識は幅広くある方なので、妊娠出産のトラブルやリスクは理解していたが、ぼんやりと産休まで働くイメージだった私としては、その時点で大ダメージだ。

お腹の中で大切な赤ちゃんを育てているのだ、という考えに理解はあるものの、自分が能動的に作り上げている訳じゃないので「何もしていない自分」にばかり、フォーカスがあたる。

他人に対して「生産性のない役立たない奴は…」みたいな考えはしないのに、自分に対しては「優生思想」の極み、みたいな考えを持ってしまう。
それは今も正直、あまり変わっていないのだけど、自分の理想とする自分と、あまりにもかけ離れていた2023年は特に、その思考に苛まれ「生きる価値のない自分」に、とにかく意識が向いていた。

よく「私が死んでも一緒に住む家族以外に生活の変化はない」「夫は私以外と結婚した方が幸せになれる。」「友人や知り合いから連絡が来ないということは、誰からも必要とされていないわけで、生きる価値はない」と、仕切りに訴えて、悩み、苦しんできた。

ここに対する疑問や答えって、いつ考えても答えは出ないけど、同じ問いを、長年持っていると、自分の考えが時間と共に進化してくるし、考えを客観視したりできる。その日の体調によっても、上がったり、下がったりする。そのバロメーターになるくらいには、頻繁に落ち込んでいる。


人間は複合的なのに、短絡的に点数化して、優劣をつけたがる私

0.100.思考のご都合完璧主義な私。全て点数化して、優劣をつける思考から抜け出せないのだ。
世の中、資本主義なのだから、選ばれる人間になって、なんぼでしょ、という考えしかできない。

例えば仕事において、A.B 2人の候補者がいたら、
納期…Aは3日、Bは5日。A:70点、B:50点。
値段…Aは1,000円、Bは700円。A:60点、B:80点。

みたいに、全ての項目で点数化される仕組み。合計得点が多い方が選ばれるのだから、選ばれる人間になるために、努力しなければ、勝たなければいけない、という思考から抜け出せない。他人軸なのか。誰のために、何のために、なぜ、競っているのだろうか。

もちろん相手によって、どんな項目にウェイトを置くかはバラバラで、相手のニーズと自分の強みが、合致すればするほど選ばれやすい。

自分が、どれほど負荷をかけて、相手のニーズに寄せる努力をするのか、そこにかける労力に対する対価(いわゆるコスパ?)を見極める必要がある。

そういった仕事みたいな考えを、プライベートの対人関係においても、全て当てはめてしまう。

だから「役立っていない自分は、社会に需要がない。生きている価値などない。」という思考に至る。(自分限定)

相性もあるし、数値化出来ない部分が多い

夫と「要は相性よな、相性って大事よな」という話を、もう何千回としている。

夫とは、マッチングアプリで知り合った。
私も夫も、頻度や年数に違いはあるけれど、アプリで出会って、どうやって良し悪し?を判断するのだろうということに悩んでいた。これはマッチングアプリを使う多くの人が悩む壁じゃないだろうか。

サクラや勧誘、突如姿を消す、窃盗とかは論外of論外。
でも、店員さんに非常に横柄、見た目がどうしても生理的に受け付けない、金銭感覚が致命的に合わない、みたいな”絶対に無理だな”という要素がない限り「悪い人じゃないし、とりあえず次も会うか」と、なるだろう。

恋愛ってこんなもの?うーん?結婚か?
悪い人じゃないけど、好き…?うーん?

みたいな。

でも、私たち夫婦は、お互いに初対面のときから「昔から友達だったのでは」と思えるほど、話が弾んだ。特に、夫の性格からすると、たしかにこれは奇跡に近いと思う。出会って2回目に、日帰り旅行に行けるほど、仲良くなって、その日のうちに付き合うことになった。こりゃめでたい笑。

夫が「こんなに自然体で話せる人は初めてだった」と、よく言ってくれるが、私が、他の人と、夫とで、態度を変えたわけではないし、本当にただの「相性」の問題なのだ。

誰が悪いとか、劣っている(と、ある人物が自分をそう評価している)とか、そういうのって、結局は(相手からの評価も含めて)相性よな、と思う(それでも私は多くの人と相性を良くできるように、相手が「快」を感じられる立ち振る舞いを身につけたいと思ってしまうけど)。

本当のところは相手の下した評価は、相手主観の評価でしかない。でも自分にとって、対象人物のウェイトが高ければ高いほど(とりわけ恋人だと100%に近い人も多いのかも)、また、一緒に過ごす時間が長ければ、長いほど、相手からの評価=自分自身の評価(私はここを自分の価値とすり替えてしまう)、と思い込む。

実際それは盛大な勘違いである。でも、そう考えるのはそれは致し方のないことだとも思う。

一緒に住んでいる大好きな彼氏や夫から「お前は本当、出来が悪くて、俺がいないと何にも出来ないよな。」と、毎日言われ続けている人が、本当に「自分は(彼氏 or 夫)がいないと、何も出来ないダメ人間だ」と思うのは、自然な流れだからだ。

他者との関係性の中で、自分の価値を見出そうとしている私

対人関係という、揺らぎやすい、そして絶対的な正解がない、客観的な評価がしづらい、不安定な関係性の中で「私」という「価値」を、測る・捉えようとする、という私の考えが、間違っているのだろう。「私の価値」なんて、固有の物で、上下しないはずなのに。

私は「自分の価値」=「他人からの評価」という思考から、永遠に抜け出せずに、もがき苦しんでいる。



〈余談〉
数値化出来ない部分が大事、は手帳判定でも思う

「これって療育手帳判定と一緒やん」とふと考えたことがある。

療育手帳の判定は、知能検査や発達検査で出るIQもしくはDQが大切な要素の1つであるし、知名度もそれなりに高く、保護者さんにとっては、数値が出る分、ある種一つの指針にしやすい。そして公的な手帳ゆえに、ラインを引かないといけないことも事実である。だから数値的に〇〇以上は非該当、とはっきり規定してある。

判定結果を聞く保護者の方は、特にとても数値がいくらだったかを、とても気にしておられる。それは当たり前だし、自分が同じ立場だったとしても、きっとそうなる。

でも、私はこの判定の仕事を重ねれば、重ねるほど、
「数値って、本当数値だな。数値でしかない。」と、思うようになった。「大切なのは数値じゃない。」と、考えるようになった。判定結果で保護者の方に伝えても”ただの慰め”としか、捉えてもらえないことが多いかもしれないけれど、私自身は少なくとも本当にそう思っている。

同じ正答率でも、心理士さんの話を聞く態度、集中のそれやすさ、会話ラリーのテンポ、返し方、など。その子の性格、特性はテスト全体を通して測られる。テストに使う積み木や紙を、使いやすいように、直してくれたりと、相手に対する気遣いを見せてくださる方もいる。

そういうことって、テストではプラスにならないわけだけど”相手が次、使いやすいように”の視点や言動は、社会では、とてもプラスになる。

同じ数値がでても、特性や性格は全然違うし、周りの人の環境や、本人の捉え方で、困り感や自身に対する認識も、全っったく違う。SOSを出すのが得意な人もいれば、苦手な人もいる。そもそもSOSを出さなくても、何となく周りが気づいてくれやすいタイプの人もいる。またはそういう環境で生きている。(どんな環境にいようが、どんな状況だろうが、人権が侵されてることなく、本人が望むことを、周りがササっとサポートして、さらっと補い合える環境が理想だけどさ。)

人間、多面的で複雑で、どんなに数多くの項目を作ったとしても、パキッと数値化して、優劣をつけれるものじゃないのに、私はその思考から抜け出せてないみたい。
でも、手帳の判定に置き換えると「数値化できない部分が沢山ある」、と理解できる。別に手帳判定だけじゃなくて、人間誰しも数値化できない、良さがある。そういうものも、全て複合的に組み合わさって「私」という「人間」がいるのだ、と、定期的に思い返せるようになりたい。

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