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忘れてはいけないこと
保育士が一人の子どもを見ることは比較的簡単だ。しかし、保育所の現状として一人の子どもを見るということは絶対にありえないことである。大体は、20名〜30名を一人、もしくは二人で見ることが一般的ではないだろうか。
その中で、保育者は子どもたちの生活の一助となるような役割を担わないといけない。1日はあっという間に過ぎていく。ほとんど一瞬で過ぎていく。
その中で、保育者は子どもたちに「保育」をしていかなければいけない。ただ遊ぶということではない。子どもたちの「楽しい」という感情だけを引き出すことではない。そこが託児所と保育所、幼稚園、認定子ども園との違いではないだろうか。
保育というのは、1日を通してさまざまなところにかかってくる。登園してから靴を脱ぎ始めてから、降園する時に靴を履く時まで全てにかかってくる。
しかしながら、保育者は毎日激務に追われている。その中で、保育者の念頭には「クラスの子どもたちをスムーズに動かしていかないといけない」ということではないだろうか。そうなってくると子どもたちの行動にのみフォーカスすることになってしまう。
私が思うのは、行動にフォーカスするだけでは足りないということである。それはどういうことかというと、子どもたちの行動のその先には必ず、子どもたちは何かしらの「気付き」を持ち、そこから「学び」へと向かい、最終的に「育ち」へと繋がっていくということである。
保育者は激務の中で、子どもたちの行動から一歩踏み込み、この子どもたちの「育ち」について考えていかないといけないのである。
ただし、全てを考えていこうとするのは不可能に近いため、1日の中で、この子のこの行動はどのような育ちにつながるだろうか、というようなことを1つだけでもいいので、1回立ち止まって考えてみる。
そこからどのような育ちにつながったのかということについて、考え出すこと、その一滴を絞り出すことが保育者の力量であり、真骨頂であり、専門性だと思う。
保育者は子どもたちに「教える」人ではない。そして、子どもたちは保育者から「教えられる」存在ではない。
保育者は子どもたちの育ちにそっと寄り添う人でなければいけない。保育観はそこを根底に据えないといけない。私はそう思う。