The Golem ~思考の残滓と、それに覚える親愛の情について~

 少し前からこのパズルゲームをプレイしている。今まで私がプレイしてきた中で、おそらく最も難しいパズルの一つである。
 どのレベルもよく練り込まれており、常に新しい刺激を提供してくれる。ステージ数は全53面だ。一見物足りないように見えるかもしれないが、プレイしてみればこれでも十分に納得のいくボリュームである。それほどまでに一問一問の満足感が高い。ステージに含まれる要素が多く、始めこそどこから手をつけるべきか躊躇うものの、糸口が見つかればだんだんとひらめきが誘発されていく。極めて完成されたパズルだ。
 さて、私が感動したのはその難易度だけではない。このパズルは、グラフィックの面で通常の倉庫番とは少し異なる点がある。キャラクターやブロックが移動した軌跡が足跡や砂紋として残るのだ。この軌跡はステージをクリアするまで消えることはない。手を戻せばその分だけ戻るが、一度操作した痕跡は幽霊のようにいつまでもつきまとうことになる。
 正直に言ってしまえば、この機能は邪魔である。理由は単純で、試行が増えると盤面が見えづらくなるからだ。ブロックのリーチする範囲を可視化できるというメリットはあるが、動かしているうちによく分からなくなってくるからどのみち関係ない。こうしたユーザーフレンドリーではない要素は可能な限り排除するべきであり、その観点から言うとこの機能は失敗だ。こんな欠陥の多いものをわざわざ手間暇をかけて実装する必要はない。それでも私がこの機能を気に入ったのは、その軌跡をあえて実装した意義に深く感心したからである。
 当然ながら、パズルは見ているだけではなかなか解けない。いたずらに動かして偶然発見することもあるし、実際に動かしたときに思わぬところでつまづくこともある。パズルでは思考と盤面は不可分なものだ。この共同作業において、プレイヤーの思考はだんだん盤面と一体化していく。様々な分野で「手で考える」と表されるような試行錯誤がここでも行われることとなる。要するに盤面は思考であり、逆も然り、ということだ。
 この関係において、キャラクターやブロックの軌跡とは文字通り「思考の軌跡」を表す。このブロックを繋げることはできないか、あるいはこのブロックを消去することはできないか、実際に思考した痕跡がこのゲームには刻まれることになる。正しい推測も、間違った推測も、この記録のうちでは等価に扱われる。
 ただクリアするだけならば、その思考の軌跡は極めて明晰なものになるだろう。あいにくこのゲームは高難易度のパズルだ。思考は明確な出口を持たず、ただあてもなくふらふらと彷徨うことになる。その痕跡は逐一記録され、やがて積み重なった痕跡は、どのように動いたのか分からない黒い摺り跡と化す。
 この黒い摺り跡について、プレイ中の実感を伴わずに語ることは難しい。それほどまでにこの摺り跡は身体的に、このパズルの困難さ、解法に至るまでに辿った(あまりに無駄をはらんだ道程に一種の馬鹿馬鹿しさすら感じさせる)思考の過程を如実に可視化してくれる。自らの思考の迷走と連動して汚れていく盤面は、まさにこのパズル自体を象徴するような記号なのだ。そして一度盤を離れ、ふたたびステージ全体を俯瞰しなおしたとき、判別ができないほどぐちゃぐちゃになった迷走の痕跡は、一つの愛おしさをもって顧みられることだろう。
 ストアページからの引用で稿を締めよう。この文章はディベロッパーのパズル観を端的に伝えてくれる。

 No matter how great or small your accomplishments, to make time to think about a difficult problem is a beautiful thing.

 困難な設問に頭を悩ませた時間、その美しさの集積こそ、黒く染まった盤面の正体に他ならない。

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