Alephant ~なぜ象はパズルを解くのか?~

 ゲームを起動すると、“Aleph is the first letter of the Hebrew alphabet, and it is generally silent. However, it can be combined with the niqqud (vowels) to make a sound.”という全体を貫く主題が紹介される。あとは若干のシステム上の表示を除き、言葉は使われない。ルールの把握もプレイヤーの実践にゆだねられる。“A word-less abstract puzzle game about language”という看板に偽りはない。

 プレイヤーが操作するのは象である。象は言葉というものを知らない。見かけた牛に近寄ると、何か鳴き声のようなものを浴びせられる。象はただ戸惑うだけである。牛は愛想をつかし、どこかへ行ってしまう。何が起こったのか分からないまま、浴びせられた鳴き声の正体をもとめ、象の探求の旅は始まる。

 基本形に多少のギミックを加えた、スタンダードな倉庫番パズルである。床のアレフにニクードを付属させる。その後アレフを踏む。するとアレフは音を鳴らし、付属したニクードの種類により様々な効果を発揮させる。全てのアレフを鳴らせばクリアだ。

 ことさら難しいことをしているわけではない。文字にすると伝わりづらいが、簡明な設計のチュートリアルレベルにより、実際に動かせば難なくルールを把握できる。しかし練り上げられた倉庫番の例に違わず、その解法はきわめて精緻で複雑だ。盤面をよく見る。最も困難な目標を見つける。ルールを並べ挙げ、使えそうなものを選別する。最終形が見えてくる。これが第一の段階である。目指すところが明らかとなり、あとはそこへ向かって進むだけだ。前進が見え、この瞬間にも大きな達成感が感じられる。

 ところが実際に動かすとうまくいかない。どこかに小さなほころびがある。しばらく悩む。丁寧な検証が必要だ。これが第二の段階である。単純な一手を見逃していたことに気づくこともある。ふと動かした一手から思わぬ発見をすることもある。先が見えずに苦心することになるが、それを上回る探求の喜びがそこにある。そして最後のアレフを踏み、象がこちらを向いた瞬間、このステージが極限まで無駄を削ぎ落された美しい形を持っていたことを、そして自分が硬質な論理をもってステージから導かれていたことを悟る。

 他のあらゆるものと同様、パズルにも文法がある。慣れれば出題者がどのような意図をもってステージを設計したのかが見えてくる。当然、そこに至るまでのとまどいもあろう。敷き詰められたアレフとニクードを目にし、どこかに糸口が見つけられないかとステージを見つめる。何度か操作を繰り返す。そのうちに問いが形をとりはじめる。この感覚は何事にも代えがたい。

 その意味で私は象である。わずかな手がかりから牛と対話を図ろうとする象である。幸いにもゲーム内の牛とは違い、出題者はプレイヤーにそっぽを向かない。これならば理解できるだろう、と選りすぐった言葉をなげかける。よき教師を得たものだ。あとは生徒の領分である。なけなしの智恵をしぼり、能うかぎり鋭敏な反応を返そうとする。躓きながらも回答は少しずつ明確になっていく。そして全てが意味をなしたところで、何か高尚なものが得られるわけではない。また師は新しい言葉をなげかけるだけである。それだけだ。

 ここまでさんざん御託を並べてきた。しかし結局のところ、ステージの持つ「論理のキレ」は実際に触れなければわからない。面白いことに、「論理のキレ」というものはきわめて感覚的なものだ。少しでも早く本編に触れられるように、ここで稿を終えるとしよう。


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