価値観は守るためではなく壊されるためにある
人は価値観を大切にしながらも価値観を誰かに壊してほしいと願っている節がある。
そして価値観の破壊は一人では不可能で他人を必要とする。
価値観は放っておくと膜をはる。
さらに放っておくとカチカチになり、そう簡単に壊れなくなる。
価値観を破壊する武器は遠いところ、つまり対極にあることが多い。
自分が大切に思っていることや
当たり前と思っていることが否定され、価値観が崩れる時
驚きと同時に少しの嬉しさが込み上げてくる。
そして 力みに気づいてふっと力が抜ける。
時に価値観を守ろうとしてか苛立ちに似た感情が芽生えるが
価値観にヒビが入って新しい空気が入ってくる。
少し嬉しい。
本当に不思議だ。
大切に大切に守りながらもどこか価値観が壊れないか待ち望んでいる。
破壊衝動という強いものではなく
価値観が壊される前提で構築されているのか
大人しく静かでデフォルト設定されているような感覚。
守りながらも誰かコレを壊してくれとキョロキョロしている。
好奇心の源も価値観の再構築を目的としているのかとさえ思う。
価値観ってなんなんだろうか。
価値観は常に真空状態で満ちては崩れをただくり返えしているだけなのかもしれない。
先輩に「お前の価値観がわからん!」と作成した書類を返されたことを思い出し現実に引き戻される。
価値観ってなんなんだろう。
完成系なんてないのでは?と思いながら
返された書類でゴミ箱を満たし
また書類を作るのであった。