オープンプラットホーム通信 第187号(2022.9.17発行分)
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NPO法人ウェルビーイングは、人々のwell-beingの実現するために自ら活動するこ
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このメルマガでは、ウェルビーイングに集う理事や会員のそれぞれのウェルビー
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喫茶去 ◆ 第86回 よいということ(5)
なぜ性善説がそんなに大切なトピックスとして取り沙汰されるのでしょうか。孟子の場合、人間には誰しも尊いものがそなわっているのに、そのことに気づいていないだけだというのが入り口でした。だから仁義礼智という大切な人間のあり方に対応する四つの徳目(惻隠・羞悪・辞譲・是非)はみな、元来われわれに素質として内在しており、まずそのことに気づこうではないか、という進み方になります。この指摘はふだん些事にこだわってぐじぐじしがちなわれわれに生きる勇気を与えます。人間に生まれた以上、本当は捨てたものではないのだから、善いことに向かって邁進せよ。お前のなかにある生来の徳目を発揮しさえすればよい、と励ましてくれているからです。孟子はさらに、われわれにはある種の道徳的エネルギーが内在しており、これを上手に育てるならば天地に満ちる気に成長するとして「浩然の気(こうぜんのき)」と名づけました。うむ。孟子の徒でなくとも、背すじをのばして深呼吸したくなるコトバです。人間に対する信頼感にみちた孟子の発言には、楽観的だなあなどというチャチャをはじく迫力がそなわっているでしょう。
しかしこれは理想論であって、現実はどうなの? というツッコミの余地がやはり残されています。1.生来の徳目を自分のなかに発見する方法は? 浩然の気を養う具体的なやり方は? 2.もしかするとこの生来の力をもっていない人間がいるかもしれず、自分がその例外的なひとりかもしれないのだが、という疑いです。これら二つについて、孟子は応えません。ただ、人爵(じんしゃく)に対して天爵(てんしゃく)があるとも述べるところを見ると、人間のもつ可能性には強弱・上下があるという現実的判断を無視していたわけではないようです。人爵はひとが人に与える評価と社会的地位であり、天爵は天与の位です。しかし、その天与の位の上下をわれわれがどうすべきなのかという肝心の問いを孟子は発しません。励ましの人生訓としてなら、孟子の語彙にはおおいにひとを動かす力があります。でも遠望して思想の書として読むと、どうでしょうか。物足りなくはないけれど(迫力があるから)、でも自分の知りたいこととは違うんだよなあという感慨が生まれます。
後の思想家たちはこの点に苦慮したようです。遠くの理想論(理)はよいのだが、近くの現実論(事)はどうなのかという問いですね。1500年跳んでこれを解決しようとしたのが宋代の朱熹(しゅき1133-1200)でした。一般には朱子とよばれて日本の近世儒学の中枢を占めた「朱子学」の祖とされる人物です。かれは孟子の徒として性善説にたちますが、孟子にはないいくつかの概念を導入します。いわく理気二元論、本然の性(ほんぜんのせい)と気質の性(きしつのせい)、窮理(きゅうり)と居敬(きょけい)など。かんどころだけを拾うと、孟子の主張する人間の本来の力は「本然の性」であってその理念上の議論だけを孟子は展開した。
そこに個々の人間によって異なる「気質の性」という考え方を導入すれば、現実的な議論ができるだろう。もともと善を志向する本然の性が、じっさいにはひとりびとりの気質によって曇らされ歪曲され、とうてい理想的とは云えない現実が生まれてくる。よって孟子の理想世界の実現のためには、この気質による曇りをぬぐい去ることだと云うのです。うん。なるほど。孟子単体の直線的な本性論よりも、はるかに説得力がある、というか呑みこみやすい議論です。
もしこの朱子に不服(というのか)があるとするなら、それは気質の曇りをぬぐい去る方法についてでした。朱子は敬愛する先達・二程子(にていし 程顥[ていこう]程頤[ていい]兄弟 ともに11世紀)らの語彙を借りて「居敬・窮理」を主張しました。これは字義としては「心をつつしみの状態に保ち、事物の理を窮め知ること」ですが、正直な話、あたりまえすぎて(というのか)どうしたらよいのか分からないのです。ときにからかいの対象になる謹厳実直な「道学先生」のイメージが強烈すぎて、これ、大丈夫なのかとツッコミを入れたくなるのです。いや、それだけはあまりに不謹慎なので、道教方面の修養方法(坐忘[ざぼう])がそうであるように、仏教の修行方法に着想の源流があるやもしれぬということがひとつ。ふたつには、その根っこにある問題として、古代中国の思想家たちの方法への無関心さがあります。そのような叡智のコトバにいたるための手順というか、聖人になるみちすじにかれらは関心がないようなのです。この点が、凡夫にすら仏の道を具体的・実践的に説こうとする仏教的伝統との最大のちがいです。
このことのはらむ問題を、以下、近世江戸期のふたりの対照的な思想家の対比にみてみます。石田梅岩(いしだ・ばいがん)と荻生徂徠(おぎう・そらい)のふたりです。
☆☆筆者のプロフィール☆☆
関 一敏
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ
感じ考え組み立てる 第62回 切片化ができない発言、研究ノート
切片化という考え方(方法)があります。切片化は質的研究でとても大切な方法です。私は量的研究よりは質的研究が好きで、この考え方に昔から親しんでいました。切片化はNPO-WBの活動でも活躍しており、特に今年はWBゼミで何回も取り上げられています。しかし私は先日、切片化に取り組むなかで「私は質的研究が大好きなのに長らく切片化を行なっていなかった」と気づきました。なぜかと振り返ってみて、この数年来関心を持っているプチプチとポリフォニーが影響していると感じました。切片化は以下のように定義されます。
「切片化とは、言語データを分析単位に分割すること。目的は、文脈から切り離すことで、分析者が言語データから距離をとることにある。」
しかしこの定義に基づいて、様々な人がプチプチに触れたときの発言という質的データを分析しようとしても、歯が立たないのです。
なぜ歯が立たないのかを考え始め、一応次のように結論しました。
1.一人または少数の人の経験を聞き取り、それを自分が研究者として、距離を置いて分析するときは、切片化が可能である。
2.しかし、プチプチからの発言は、その場で様々な気づきや発見が当事者によってなされているポリフォニックな場で得られたものであり、多様で混沌としており、分析者(私)が言語データから距離をとることが、難しい。
3.だから、その言語記録を文章化しても切片化はできない。
さらに振り返って考えると、実はWifyを行った際に得られる言語記録も、上記の1.2.3.が当てはまる、と気づきました。
ではこのポリフォニーから何かを読み取るにはどうしたらよいでしょうか。
こうしたポリフォニーのデータを前にしたとき、切片化という方法ではなく、「そもそも、このような多様な発言から、ポリフォニックな言語データから、私は何を読み取ろうとしているか」という私自身の価値観/世界観、要するに一種の理論が必要になります。ではどんな価値観・世界観・理論なのか、答えを見いだせないまま、ずっと考え続けています。
以前から知っている「物の見方・考え方」のなかでは、多重知性理論が役立つかもしれません。
多重知性理論Theory of multiple intelligencesは米国の心理学者ハワード・ガードナーが1983年に提唱した,知性を8つに分ける考え方です;1.言語、2.数理・論理、3.空間、4.身体・運動、5.音楽、6.人間関係、7.内省,8.自然。
ガードナーは「人には複数の知性があり、誰もが固有の知性の組合せパターンを持つ」と考えました。「誰でもが多重的・多面的な知性を持っている、だからその人の発言の背後には、どれかの知性が存在している」と考えると、プチプチやWifyから得られる発言・ポリフォニーが、少しは理解できるようになります。
長年親しんできた切片化という方法が使えない世界があり、そこに興味を持ち始めると、改めてのスタートラインに立たされたような気がします。NPO-WBも50周年を目前にしてその後の活動をどうするのか模索の時期に入っていますが、私自身も模索が続きそうです。
☆☆筆者のプロフィール☆☆
守山正樹
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ
ドクター・マコ At Home! (アット・ホーム) 第136回 ウイルスと資本主義
多摩美術大教授で美術評論家の椹木野衣さんが、西日本新聞で以下のように書いています。
資本主義は絶え間ない新たな商品価値の創出をエンジンにしている、と指摘。結果的に何が資本家に莫大な利益をもたらすかは、前もって計画することができないからである、というのが理由です。ゆえに資本主義は常に市場に対し大量かつ多品種の商品を供給し続けなければならず、そのうちの一つでも当たれば、莫大な富がもたらされるわけです。似たような商品でも、手を替え品を替え、絶えずマイナーチェンジし続けなければならない理由はそこにあるわけです。言い換えれば、資本主義体制下では商品は際限なく変異し続けなければならないということです。最近の例では、パソコンや携帯電話即ちスマホがそれに該当しますよね。長期にわたり売れ続けるロングセラーは確実な利益を生むが、それ以上の利益を生む商品が出て来なければ市場は拡大しません。市場の拡大が資本主義の命題なのであれば、当面は不要であっても、商品は些細な細部で変異を繰り返し、何度でも市場に再投入されていきます。いずれ、そのひとつが大ヒットを生むかもしれないからです。
これはウイルスの挙動とたいへんよく似ています。ウイルスにとっても大ヒットはわずかでよいのです。しかし、それを生むためには無限回ともいえる無駄な変異が必要で、それは無駄が無駄でなくなるほんのわずかなヒットの為に投機的に賭けられているのです。
この両者の決定的な違いは、ウイルスには資本が不要だと言う事です。ウイルスはどんなに変異を繰り返しても損失はなにもありません。その点では超資本主義的なわけです。ゆえに資本主義をどんなに加速させてもウイルスの超資本主義を凌駕することは、原理的にいっても不可能なのです。
資本主義が現在の人類を駆動する成長の拠り所だとしたら、ウイルスはそれを乗り越え、最終的な地球の勝利者になる可能性もあります。
ここまでくると、我々は、新型コロナウイルスの変異に大ヒットがでないことを心より祈るだけになるわけです。
*参考記事2021年3月26日西日本新聞「遮られる世界・パンデミックとアート」
椹木野衣、より
☆☆筆者のプロフィール☆☆
川上 誠
勤務先:川上歯科医院
編集者後記
今月もメルマガをお読みいただきありがとうございました。
先日、美味しそうなとうもろこしをいただいたので、フライパンで蒸し焼きにしてみました。フライパンを使った調理方法は、若松の農協でとうもろしを買ったときに教えてもらった方法です。ただ、フライパンを使ういうことしか覚えてなかったので、早速ネットで調べてやってみました。
フライパンにとうもろこし、水大さじ3、塩を入れて、強火にかけ、沸騰したら蓋をして3分間蒸し焼きにするというとても簡単な方法でした。3分くらいで大丈夫かな?と思いつつ試してみましたが、ちゃんとふっくら蒸し上がってました。とうもろこしが手に入ったときにはぜひお試しください。
(いわい こずえ)
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ご意見、ご要望などお待ちしています。
編集:NPO法人ウェルビーイングいわい こずえ jimukyoku@well-being.or.jp
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