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胆沢物語『止々井沼』【岩手の伝説㉑】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
【一章】止々井沼(とどいぬま)
諸事多く、日々仕事に追われている郡司兵衛吉実(ぐんじべえよしざね)には、好きな釣りに行く日を作るということは、容易なことではありませんでした。
ですから、何事にも煩わされることのない日を得た興奮に、その前夜、吉実はなかなか眠れませんでした。
うとうとと眠りかけると、大きな奴がうまくかかって、意地悪く釣り糸が切れそうになるところで目が覚めるのでした。
そんなこんなで本当に眠りに落ちたのは、夜もだいぶ更けてからでした。
ですからハッと思って目が覚めた時は、戸の透間から日の光がほのかに射している、朝もだいぶ経ってからでした。
慌てて起き上がった時は、妻はもう起きていて、朝の炊事はもう終わったらしく、今日の弁当の仕度に一生懸命の様子でしたし、供の者たちも馬の手入れを入念にしているところでした。
吉実はそれらに軽い挨拶をすると、食事もそそくさと、軽装にかかるのでした。
その頃、釣りに誘ってくれた覚之亟(かくのじょう)も見えて、立ち込めた濃い霧を仰ぎながら、今日の好天を喜んでいるのでした。
道はたわわの露に重く垂れた草で静まり、馬の蹄の音のみ高く響きました。
吉実の馬に後れがちの覚之亟は、急ぎ寄り添うと、舟など万事準備がなされていることなどを告げるのでした。
一刻足らずで一行は、止々井沼のほとりに出ました。
沼はまだ朝の露が淡く水面に残っていましたが、所々に散らばったように見える洲の茂みには、鳥の声などがしきりにしていました。
かねて覚之亟が手はずをしていた船頭の茂平が、二つ折りの手拭いをつかみながら、腰を低くしながら挨拶に来ました。
そして舟場へと案内するのでした。
舟場への坂道を数歩、一行が下りかけた時、みな軽い振動を地に感じて立ち止まりました。
不安の陰が一瞬、どの顔にも流れました。
と同時に、沼の西北に不思議な黒雲の立つのを発見しました。
その黒雲は見る間に拡がって、沼の面を包んでしまいました。
腥い(なまぐさい)風がどこからとなく吹き続き、沼面もいつの間にか渦巻き、波が荒れていました。
一行は再び坂を戻って、丘の上に立ちました。
沼の荒れは一刻にして止み、空は元の青さに戻りましたが、吉実一行にはもう釣りなどという気は湧いてきませんでした。
しばらくして船頭の茂平はピタッと額を音高く叩くと、
「沼の主、大蛇が贄(にえ)を求める一ヶ月くらい前までは、かくの如き異変が数回続く。」
と申しました。
それを聞くと吉実は、
「如何にも迂闊(うかつ)、そういえば今日は七月の十四日。」
と言って沈黙してしまいました。