大堤の由来【岩手の伝説⑱】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
小山字油池と前大畑の境する所を、昔から俗に大堤と呼ばれ、今なお大きな堤防の残骸が判然としている所があります。
灌漑水路のなかった時代に、ここに大きな溜池が作られ、松の木沢を通じ、一帯の稲作りの水源となっていたのであります。
※灌漑水路・・・かんがいすいろ。作物栽培に必要な水を、水源から農地まで、人為的に取水・配分・供給する水路のこと。 水源は河川、湖、ダム貯水池が多いが、溜池と呼ばれる小規模な農業用の貯水池も多く使われている。
この堤を造るに当り崩壊を防ぐために、幾多の動物、即ち猫犬は言うに及ばず、馬も犠(いけにえ)として生き埋めされ、馬の装具、甲冑等も埋められたと言い伝えられています。
またこの堤の起源について、次のような言い伝いが残っています。
上西門院北面の下﨟の武士に、遠藤武者盛遠(えんどうむしゃもりとお)という武士がいました。
※上西門院・・・じょうさいもんいん。統子内親王のこと。
※北面の武士・・・院御所の北側の部屋を警護する武士。
※下﨟・・・げろう。官位・身分の低い者。
大の男で力が人に勝り、気性が猛々しく武芸にも勝れて、非常に感情の烈しい熱血漢でありました。
盛遠の伯母に当たる人で衣川の娘に、あとまという者がありました。
あとまの別の名を袈裟(けさ)と呼び、人並優れた才媛で、美貌の持ち主でありました。
※才媛・・・さいえん。高い教養・才能のある女性。才女。
盛遠はこの袈裟に思いを寄せ、熱狂禁じ難く、伯母に対して、妻にと、刀を首にして懇望(こんもう)しましたが、伯母は既に源渡左衛門尉なる者と婚約してあるのでと断ると、盛遠はさらばと袈裟に直談(じきだん)を以て申し入れました。
※盛遠の伯母が袈裟の母親。袈裟が妻になってくれなければ母親を殺し、自分も死ぬ、と脅迫まじりにひたすら願い望んだ。
※源渡・・・みなもとのわたる。
※左衛門尉・・・さえもんのじょう。律令制下の官職のひとつ。
※さらば・・・それならば。然らば。
袈裟は、
「浅からざる思し召し、さらばただ思い切って左衛門尉を殺し給え。
互いの心も安らかならん。
私は家に帰り左衛門尉に髪を洗わせ、酒に酔わせて寝させおく故、濡れた髪を探り殺し給え。」
※浅からざる・・・それほど浅くはないさま。中々に深い様子。縁故や因縁について言う場合が多い。
※浅くはないお気持ちなのでしょう、それならばただ思い切って左衛門尉を殺して下さい。互い(盛遠と袈裟)の心も安らかになるでしょう。
と告げて家に帰り、左衛門尉を酒に酔わせて帖台の奥に臥せさせ、袈裟は髪を濡らし帖台の端に臥して、今か今かと待っていました。
※帖台・・・ちょうだい。平安時代に貴人の座所や寝所として屋内に置かれた調度(家具)のこと。
それとは知らぬ盛遠は濡れた髪を探り当て、一思いに首を切り落し、袖に包んで家に帰り、素知らぬ顔で空寝していたところに、郎党が駈け込んでくるなり、
※郎党・・・ろうとう。古代〜中世の武士の従者。
「何者の仕業か、夜中に渡左衛門尉の女房の首が切り取られた。」
と告げると、盛遠ははっと顔色を変え、袖包み(そでぐるみ)の首を確かめると、それは正に袈裟の首なのでありました。
盛遠は早速、渡を訪れ、事の次第を物語ると渡は、今は詮方なし、菩提を弔うことにするとして、髪を切り僧になりました。
※菩提・・・ぼだい。死後の冥福。
盛遠もまた元ずり(?)を切り落とし僧となり、名を文覚(もんがく)と改めました。
僧となった文覚は、二十年の歳月、難行苦行を続け、その間に熊野、金峰(きんぽう)、葛城をはじめ、日本の名山霊地を遍歴し、たまたま京都高雄の神護寺(和気清麿草創の名刹)の荒廃を見て、修造を発意し、勧進を始めたのでありました。
※和気清麻呂(わけのきよまろ)という貴族が初めて建てた名高い寺。
※修造・・・しゅうぞう。神社や寺などを繕い直すこと。
※勧進・・・かんじん。堂塔・仏像などの建立・修理のため、人々に勧めて寄付を募ること。
たまたま京都御所近くを通りかかった際、声高らかに法皇の悪口を吐き、捕らえられて伊豆に流島となり、検非違使庁より伊豆に護送に際しても、放免後も、人を愚弄罵倒し、揶揄等甚だしかったと伝えられています。
※島流しになり、当時の警察による護送の際も、放免された後も、悪口が激しかった。
斯くて先に、平氏によって流罪にされていた源頼朝に近付きを得るようになり、頼朝に対してしばしば平氏討伐、源氏再興の挙兵を進言し、遂に頼朝をして決意せしめるに至ったのであります。
※斯くて先に・・・かくてさきに。こうして前に
斯くて平氏を亡ぼし、鎌倉に幕府創設し、天下統一の業が遂げられたのであります。
奥州平泉討伐の挙兵も、文覚に預かるところが多かったと伝えられています。
晩年文覚は、衆生済度の一端として、大堤の構築を思い立ち、自ら先導となってこれを指揮し、一方奥州、特に平泉の情勢を監視する目的から、衣川と小山に、それぞれ一族を配したのだということであります。
※衆生済度・・・しゅじょうさいど。衆生を迷いの苦しみから救って悟りの境地へ導くこと。
これが小山と衣川の遠藤氏の祖であると言われています。
また、元は平泉も胆沢地方も、藤原氏以後一時、糠部氏の支配下にあったが、文覚の進出によって失脚し、北方に去ったと言われています。
※糠部・・・ぬかぶの。人名ではなく地名?糠部郡。岩手県北部から青森県東部。平安時代末期は蝦夷の居住地の汎称だったので、おそらく蝦夷のこと。