学校教育の場にあったらいいと思ったこと
大人と本気で向き合う経験のできる授業
こういう授業、ぜひとも繰り返し経験してほしい。
あるニュース記事を見たときに強く思いました。
子どものプレゼンに大人が本気でぶつかり、子どもに忖度しない。
子どもを子どもとして扱うのではなく、一人の人として向き合う。
こんな経験を学校教育の場で積むことができたなら、それこそが将来につながる学びができるのではないかと思うのです。
子どもたちが本気でプレゼンした結果
私が強く心を動かされたのはこの記事です。
子どもたちは「桃鉄に枚方を追加してもらおう」をテーマに、桃鉄製作者にプレゼンをしました。
枚方の良いところ、人気のある場所を挙げて、ここにはこんな価値があるからぜひ採用してほしい、と。
しかし、結果は「無理です」という厳しいものでした。
子どもたちは大変悔しい思いをしたようです。
調査、資料作り、プレゼンの練習、相当力を入れてきたはずです。
そして、学校という場では常に発表の後には拍手と労いといいとこ探しがつきものだったはずです。
その中での、厳しくも的を得た評価は、子どもたちにとってはもしかしたら初めてのことだったかもしれません。
大人の目線はやさしさなのか忖度なのか
基本的に子どもたちは守られるべき存在です。
だから、認めて伸ばす、それが子育てや教育における今の時代の大原則であり、私も基本的にはそれに賛同しています。
でも、本当にそれだけでいいのか、何となくひっかかりを持っているのも事実です。
子どもたちに対しては、がんばっていればそれでいいのか、もっと違う視点を入れたほうがいいのでは?と言ってはいけないのか、私たち大人が「子どもががんばっているのだから」と過度に忖度しすぎていないかそのことがとても気になるのです。
本気で評価しないことは本当に大人のやさしさなんでしょうか。
子どものがんばりを好む大人たち
大人たちは子どもたちのがんばりを好みます。
がんばって練習してきたことがすばらしい。
本番当日を迎えられたことで十分。
子どもたちが一生懸命ここまでやってきたことなのだから、今さら口を出すのはナンセンスだ。
いや、私は、大人たちがこんな考えで子どもたちに接しているのならば、その方が子どもたちに対してよっぽど失礼だと思います。
もちろん、子どもたちの発達段階に応じて、そのがんばりを称えることに意味がある場面は存在します。
しかし、社会に出たら少なくとも仕事の上では、ただ自分ががんばったからといって評価されることはありません。
相手の満足度や納得感、課題解決ができたかどうか、異なる立場の人との協働などが複雑に絡み合い、自分の目線から見ている世界線だけで動いていては認めてもらうことは難しいでしょう。
これ、社会に出ていきなり失敗を喰らうのはダメージが大きすぎませんか?
だからこそ、学校生活の中でこんな経験ができたらいいなと思うのです。
学校の外にいる大人が本気で関わる機会を
学校の先生が評価を下す側に回る必要はありません。
先生は、日ごろから一緒に子どもたちと過ごし、学ぶサポートをする存在であって、外との関わりから得た経験を学びにつなげる役割になってもらえることが理想です。
だから、学校の外の職業人としての大人たち、地域人としての大人たちが本気で学校に関わること、これが必要なのだと思います。
その仕事で報酬をもらっているプロとして、その地域で日々暮らしている当事者として、忖度なく子どもたちに関わる機会をつくれたならば、子どもたちも社会に参画して生きることの実感が湧いてくるのではないでしょうか。
子どもたちの将来につながる学びを深める経験
正直、公立小学校でこのような取組みが進んでいることを初めて知りました。
公立の学校も捨てたものじゃないな、と思います。
どんどんこういう取組みが広がっていってほしい(もちろん桃鉄に限らず)ですが、全国すべて一律には広がっていかないところが悩ましいところですね。
でも、このような経験が、普段の教科学習も含めて子どもたちの学びを深めていくことができるのは間違いないと思います。
学校にいる間はいくら失敗しても構わないのだから、やってみて、学びを深めて、またチャレンジして、そういうサイクルが学校教育の中であればいいのにな、と思います。
そして、そのことが子どもたちの将来を開いていくのではないかと、これからの取組みに期待するところです。
このような取組みを広げるために
こういう取組みを事業化できたらいいのに、と思いました。
教育に他の何かを組み合わせることで、それは足し算でなく、指数関数的に子どもたちの成長に寄与できるようなこと。
もし、いっしょに考えてくれる方、やってみたい方がいれば気軽に声をかけてください!(まだまだ私もノーアイディアなので、ゼロからでもいいよ!という方がいればぜひお願いします。)