突然女性から抱きしめられた日
20代前後の頃にファミレスで5〜6年くらいアルバイトをしていた。月曜日から金曜日、朝から昼すぎまで。私と同じ時間に出勤のひとたちがピークのときは5〜6人くらいいたから、なんとなくそれぞれがロッカールームでのタイミングをずらしながら着替える。早くに来て着替えて仕事を始めちゃうベテランさんたちがいたり、ギリギリに来てささっと着替えてタイムカードを押すお姉さんがいたり。私はどっちでもない真ん中くらいの時間に来て一緒になった人と天気の話しや世間話しをしながら着替えることが多かった。
この職場で働いている方々は何十年も勤めているひとたちが多く、平均年齢は40〜50代だったと思う。私より干支が3周り上の人もいた。みんなパワフルでユニークで若々しかった。どんなところにだって人間関係のこじれや派閥争いみたいなものはつきもので、少しネガティブな経験もしたけど、私のことを子供や孫みたいだと思って可愛がってくれる方々のおかげで長く働けていたほうだと思う。職場のローカルルールを覚えたり、どのひとたちとも雑談が出来るようになったり、それなりに馴染めていた気がする。
私が働いて2〜3年の間で10〜20人くらい新しい人が入っては辞めたり飛んだりしていた。「母親の具合が悪くなった」「自転車で怪我してもう出勤できない」など嘘か本当か分からない退職理由をよく耳にした。
ある日、また新しいひとが入ることになった。私より2周りくらい上の年代の女性。私と同じ時間に出勤と退勤をするシフトだったので朝のロッカールームや帰りのエレベーターで少しずつ話すようになり親しくなった。とても穏やかな人柄で、年相応ながらもすごく綺麗な方だった。仮名で佐藤さんとする。
職場はそれぞれ持ち場があって、2〜3人くらいで協力しながら作業をしていた。私と佐藤さんは違うポジションだったけれど調理器具や食材を取りに移動するときに姿を見たり、職場のみんなで一斉に同じ作業をするときもあったりした。毎日、淡々と、作って、提供して、片付けての日々。とくに大きな出来事もなく、毎日同じメンバーで同じような時間。たまにあるアクシデントとしたら、発注のミスや食材の欠品、雨の日はお客さんが増えて忙しい、くらい。
しかし、働いていくうちに佐藤さんは日に日に元気がなくなっていた気がした。おそらく持ち場での人間関係が上手くいっていなかったから。もちろん勤務中はそんな姿は見せずに一生懸命に過ごされていたけれど、帰りのロッカールームで「なんか森さんといると落ち着くわ」と言う表情に心が痛んだこともあった。
そしてある日、佐藤さんは「私、辞めることにしたの」と教えてくれた。働き始めて1年に満たないくらいだったと思う。それでも頑張りきっての選択だったんだろうな。仕事が出来ないわけでも、素行が悪いわけでもない、それなのに辞めなければいけないのは悲しかった。辞めてしまうまでの数週間、他のひとたちにも惜しまれたり優しい声をかけられたりしていた。朝のロッカールーム、帰りのエレベーター。たわいもない話しを微笑みながら聞いてくれる姿が素敵だった。
佐藤さんの最後の出勤日。まかないを食べ終わっていつものようにロッカールームで一緒に着替えていた。「今日は退職手続きがあるから一緒に帰れなくて残念だわ」と私服に着替えた佐藤さんが言う。そして、お世話になったから、と可愛いトートバッグとポーチをプレゼントしてくれた。
そして「…ハグしても良い?」と聞かれた。突然のことに驚いたけれど快く受け入れた。「ありがとう。私ね、子供がいないから、森さんが子供みたいで可愛くてね、夫にもこんな子がいるのよって話してたのよ。…あなたと一緒に桜が咲くのを見たかったわ」と言いながら鼻をすする音が聞こえた。ロッカールームの天井の白さが目に刺さった。気が付かないふりをした。
ロッカールームを後にして、ひとりでエレベーターに乗って職場の外に出る。秋の終わりかけ、外の桜は寂しそうな姿だった。私も泣いてしまった。もう明日から会えないんだ、と。
最後のロッカールームでメールアドレスを交換していたので、佐藤さんが辞めてから少し経った頃に「新しい仕事が決まったの」と連絡が来たり、春になって私から桜の写真を送ったりした。けれど次第に連絡はしなくなってしまった。まだメールを送っても届くのだろうか。元気にしているのだろうか。私のこと、まだ覚えてくれているのだろうか。きっと元気でいらっしゃいますように。素敵な時間を過ごされていますように。
いつか私がテレビで活躍する人間になって、たまたま見かけて、旦那さんに「あのときの子よ」と伝えて微笑んでくれたら嬉しい。忘れてしまっていたとしても元気ならそれで良い。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?