自分の当たり前 = 自分の才能
今日もこんにちは。
前島公です。
本日は、多くの人が自分の才能に気づかずに、自己嫌悪、自己否定をしてしまっているのではないかと、
感じたたことについて個人的な意見を書いていきます。
ボクは自分には到底出来ないことをそつなくこなす人を見ると、素直に、
すごいですね。とか、どうしてそんなことができるんですか。とか、
訊いたりします。
ですが、多くの人は至って、
こんなの誰でも出来ますよ。
とか、
全然大したことじゃないです。
お世辞ですか?
と、返してきます。
誰も
そう? すごいでしょ?
とは言わないのです。
きっと自慢してる、おごり高ぶっていると思われるのが怖いんですね。
すごくわかります。
ですが、他人がそうやって褒めてくれる、認めてくれるということは、たとえそれほど偉大ではなくとも、
一定の市場価値は持っていると考えられないでしょうか。
ひいてはそれが自分の才能だったりするわけです。
多くの人は、才能という言葉を異次元的な意味で捉えているのではないでしょうか。
才能というのは超人的な能力のことだと、思い込んでしまっているのです。
だからこそ、こんな当たり前なこと全然才能でもなんでもない。と
勘違いしているのです。
あるいは、自分の才能はもっとすごいものであると思い込み、自分の才能を自ら否定してしまっているのです。
例えば、お米を研ぐのがうまいとか、卵を割るのがうまいとか、
本人的には、そんなこと出来たところでカッコよくもなんともない。
そんなことが自分の才能であると認めてしまったら、自分の存在意義に疑問を呈するのです。
ですが、どんなことでも、自分で気が付かないうちにスラスラと当たり前にできることは、
自分の才能であり、大切にしてもらいたいと思います。
どんなに些細なことでも、地味でもいいんです。
一度も日の当たらないようなことでもいいんです。
才能とは別に特別なものでもなんでもありません。
誰だって必ず持っています。
そして、才能とは、他人からマウントを取ったり、ひけらかしてカッコつけるものでもありません。
強いて言うならその才能を用いて社会に価値を与え、自分の自己肯定感を上げるものでしょうか。
謙虚であることと、卑下することは違います。
それではまた。
続く、、、。