記憶喪失のまま歌っていても
先日、母方の祖父のお見舞いに行った。祖父はボケている。ソフトに言うとボケているし、もっと深刻に書くならアルツハイマーという病名がついている。今回は、そっちの病気じゃなくて、内臓の方に異常があって手術をしたという。もう歳だから今夜にも峠がくるかもしれないらしい と母が言い、お見舞いに行くかと聞かれ、私のことをもう覚えていない祖父に会いに行った。
車で二時間かかる山道を通り過ぎながら、正直言って、覚えていない人が来ることが祖父にとって良いことなのかどうか とか、忘れられていることで傷つきたくないな とか、静かで小さな葛藤はあったのだけど、それは杞憂に終わった。
クライマックスで記憶喪失になった恋人が、結婚式の直前に愛を思い出すドラマのような展開はない。祖父は、私のことを覚えていない。私はそれをもう知っている。なので、病室のカーテンの中にいた祖父には「おじいちゃん、来たよ」と声をかける。「おじいちゃんって言ったぞ? 困った。また孫みたいだ」と、目をきょろきょろさせて、リハビリのお兄さんと談笑している姿を見て、「あ、ここにいる」と思った。ボケはじめていたときのような苦しさは何もなくて、私と母を見比べて、「やっぱり娘より孫の方がかわいいなー」とか、軽口を叩いている。祖父はまだ、ここにいる。祖父は私のことも母のことも、よく美人だと言った。母のことも私のことも、もう覚えてはいなかった。でも、穏やかな顔をしていて、人の容姿について軽はずみに口にする。おじいちゃんは、おじいちゃんじゃなくても、こういう人だったんだ と爽やかな衝撃を受けた。
覚えていてくれる ということによって、その人が自分に傾けてくれる愛情の大きさをはかってしまうことがある。毎年、必ず誕生日にLINEをくれる先輩や、一回行っただけのお店にいる顔を覚えてくれる店員さんを身近に思う。どちらも素晴らしい美点だけど、記憶力や習慣は、その人がどんな形で愛情を表現するのかということと必ずしも結びつくわけではない。わかってるんだけど、今やっとわかった。
何もかも忘れた祖父は、どんぐりころころ をベッドに寝ころびながら歌ってくれた。私が知らない、2番の歌詞を教えてくれた。私のことはもう何も思い出さなくても良いから、その分いろんな歌を覚えてほしいと思った。