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モーツァルトとグラスハーモニカ

12/5はモーツァルトの命日。今から233年前の今日。
「グラスハーモニカのためのアダージョ」k.617a。
チェロで多重録音してみたもの。

亡くなる半年前の作品。
アンコールピースらしい。1791年8月19日のグラスハーモニカの奏者のためのコンサートのアンコールで披露されたらしい。

自筆譜

この小さい自筆譜を見ていると、これは勝手な想像なのだが、
コンサートが始まる直前に、「そういえば、アンコール用でソロ曲があったほうがいいな」とふと思いついて、手元の楽譜にちゃちゃっと書きつけました、という感じがする。妄想だけど(笑)
有名な「アヴェ・ヴェルム・コルプス」がk.618、同じ時期の作曲ということもあるのか、静謐で美しい雰囲気が似ている感じがする。

このコンサートの一ヶ月後、1791年9月30日がオペラ『魔笛』の初演、
11月18日のフリーメーソンの会合に出席して、フリーメーソンのためのカンタータ「我らの喜びを高らかに告げよ」 K.623を自分の指揮で披露したが、これが生前に完成された最後の作品となったらしい。
11月20日から病床に伏し、12月5日に死亡。

あの「レクイエム」についてのエピソードや、映画『アマデウス』の影響などもあって、死の直前のモーツァルトは心身ともにぼろぼろな状態で、自分の死を予感しながら「レクイエム」の作曲を続け、最後は病気で立ち直れないまま悲惨な死をむかえた、というイメージがあるが、それは間違いだと思う。すくなくとも11月の中旬までは。

この年、1791年の5月には聖シュテファン大聖堂の楽長補佐に正式に任命される。当面は無給だが、すでに高齢な楽長が亡くなったあとは新たに楽長に就任することとなるわけで、その意味では高い報酬(年収で約1,000万円!)がすでに約束されていたといっても良い状況だった。
7月にはオペラ『ティトの仁慈』をプラハでオーストリア皇帝皇妃の隣席で上演、その初演はいまいちだったらしいが、その後も繰り返し上演されるなかで徐々に人気を高めて、さらには9月からはウィーンで『魔笛』を上演し大ヒットをかちとる。

妻のコンスタンツェへの1791年10月7日の手紙では、
「ぼくのオペラがあんなにも熱い拍手で迎えられた初演の晩、その同じ晩に、プラハでは『ティート』が異常な喝采を受けて最後の幕を降ろした。 どの曲もそろって拍手を浴びたのだ」と、自分の成功を興奮気味に伝えている。

未来はまさに開けた、というのが11月中旬のモーツァルトの実感だったのではないか、と思う。


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