懐疑的と盲信的、どちらが幸せか
最近、様々な書籍やニュースを見ていて感じたことと、自分自身を見つめなおして、感じたことをただ書いていきたいと思います。
題名に書いているように、懐疑的な人と盲信的な人はどちらが幸せなのかなと、ふと疑問に思い妄想に耽りながら書いていこうというものです。ここで、「幸せ」についての定義は敢えてせず、やんわりと生きやすい程度のものと思っていてください。
自分の性格を見つめなおして
早速ですが、自分自身はかなり懐疑的な人間だと思っています。ですので、何か気になる事や、誰かの意見などを見かけると、「へぇそうなんだ。本当か?」と取り合えず疑う、反対意見についても知る、安直に信じない、など情報が偏らないように意識しています。
これは、おそらく大学での研究を通じてネットや書籍の情報が、書かれている内容と異なっていたということが、”稀によくあった”ことや、教育分野に興味を持ち、心理学などについても色々調べて、如何に「人間」という生物はいい加減さで成り立っているのかを知ったからだと思います。
ですので、調べた(得た)情報は疑ってかかることが習慣となり、結果として取得した情報についてはニュートラルとでもいうのでしょうか。正しい/間違っているの中間地点で、得た情報が留まっているような感じになる事がほとんどです。
例えば、最近ブラックホールの観測に成功したニュースがありましたが、もちろん様々な研究機関などが協力し行った偉業である事は疑いようもありませんが、もしかしたら数年後に実は間違っていました、となるかもしれない。。など、世間一般には性格が捻くれた人間になりますが、安直に信じないというか、認めないに近いような認識をしてしまいます。
もちろん、個人的にはこのような情報の仕入れ方で大きな問題はなく、どちらかといえば意図せずに広範囲な意見や情報を調べるきっかけになるので便利だと感じています。
ですが、問題なのが「自分自身の意見」についてもこのニュートラルな状態になってしまうことです。
私事ですが、経営者としても活動しておりますが、その経営方針を決定する立場にいるにも関わらず、どうしても今後の方向性についても「正しいのか/間違っているのか」の判断を行う際に、どうじても自分の意見を疑ってしまい、行動に移せないことがあります。もちろん、自分の意見を鵜呑みにせず、反対意見などにも準備することは必ず必要なことは理解していますが、最後の一歩がでない、”これで行こう!”と自分の意見の正しさを認めることができないのです。
よく、とりあえず行動すればいい。自分の直感に従って行動あるのみ!といった意見を聞きます。もちろん、まがいなりにも経営者としての活動を通じて、「行動あるのみ」の意見には賛同できる部分が多くあります。
しかし、すぐ行動に移せる=自分の意見をとりあえず信じている、のではないか。つまり、懐疑的な自分の反対として、盲信的な人なのではないかと思ったのです。
自分の意見を信じてすぐ行動できる人を、「盲信的な人」というのは誇張表現すぎる気もしますが、今回は盲信的と書いていきます。
これが、今回の題目にあるように「懐疑的」と「盲信的」はどちらが幸せかについて、考え始めたきっかけにもなります。
ニワトリ小屋の話
ここで、昔2chで見かけた面白い話を紹介します。
もしかしたら、この話がきっかけで自分は、懐疑的になったのかもしれません。
あるニワトリ小屋で、飼育員が毎日、エサを決まった時間に同じ量だけを与えていた。 飼育員は、非常に几帳面な性格だったらしく、何年間も正確に同じことをしていた。
さて、小屋の中のニワトリたちは、 なぜ、毎日 同じ時間に 同じ量のエサが放り込まれるのか、 その原理や仕組みをまったく想像しようもなかった。
が、とにかく、毎日、決まった時間に同じことがおきるのだ。 いつしか、ニワトリたちは、それが「確実に起きること」だと認識し、 物理法則として理論化しはじめた。
そして、その確実な理論から、関連する法則を次々と導き出していき、 重さや時間の単位も、エサの分配についての経済や政治の理論もすべて、 毎日放り込まれるエサを基準にして行われた。
それは妥当なモノの考え方だ。 だって、それは「確実に起きること」「絶対的な物理法則」なのだから。
しかし、ある日、ヒネクレモノのニワトリがこう言った。
「でも、そんなの、明日も同じことが起きるとは限らないんじゃないの?」
そんなことを言うニワトリは、他のニワトリたちから袋叩きにあう。
「ばぁーか、なに言ってんだよ。いいか? この現象はな、この世界ができてから、ずーっと続いているんだよ。何十代も前のじいさんが書いた歴史書を読んでみろよ。それからな、この現象をもとにして書かれた理論、学術論文をちゃんと読んでみろよ。みんな、矛盾なく成り立っているだろ? それに、実験による確認だって、きちんとされているんだよ! それを何の根拠もなく疑うなんてな。そういう無知から、擬似科学やオカルトが始まるんだ。おまえは、もっと勉強した方がいいぞ」
しかし、ある日、不況の煽りをうけ長年働いた飼育員がリストラとなり、ニワトリへのエサやりは、ズボラなアルバイトの役目となった。次の日、ニワトリたちが、何十代もかけて構築した科学のすべては吹っ飛んだ。
この話は私たちの世界にも当てはまるものだと思います。
アインシュタインの相対性理論が出てくるまで時間は常に一様なものだと信じられてきましたが、今では可変なものとして扱われています。
過去の常識を疑ったからそこ、偉大な発見に繋がったものだと思います。
懐疑的と盲信的について
懐疑的な人については、自分自身を通じて説明しました。(もちろんこれが一般的なものでないことは重々承知です。)
しかし、比較して考えることを容易にするため、あえて極端な特徴としてみます。
懐疑的
とりあえず情報(意見)を疑う
情報の偏りがない
意見をどちらかに決めることが出来ない
盲信的
とりあえず情報(意見)を信じる
情報には偏りがある
意見はすぐに決めることが出来る
上記のような定義を付けたうえで、様々な場合で双方がどのような行動をとるのかを妄想に耽りながら考えてみたいと思いましたが、
書いているうちに、懐疑的な自分の性格上、曖昧な表現ばかりになったので、よくわからなくなりました。。。
上手くまとめることが出来れば改めて書いていきたいと思います。。。
ただ、言えることは、どちらかといえば妄信的な人の方が、すぐ行動に移せて、周りにも流されにくく、自分の行動を信じることが出来るので、生きやすい=幸せなのでは?と思った次第です。(隣の芝生が青く見えただけかもしれませんが。。。)
良ければ、この記事をきっかけに、懐疑的、盲信的、自分はどちらなのだろうか、どちらが幸せなのだろうか、と考えてみて頂ければ幸いです。
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