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碧い瞳は美男の証 2
「ここはなにかの店?」
「どうしてそう思ったんだい」
「家の広さのわりに色んな食器があるし、そもそも玄関に<Blue Eyes>と<CLOSE>っていうプレートがあったから」
「何だ、見ていたのか」
その口ぶりに自分がまるでそんなことにも気づかないような間抜けだと思われていたような気がしてフィリックスは思い切り眉間に皺を寄せた。
フィリックスはしばらく黙考したのちに意を決して男に切り出すことにした。
「あの、ぼくをここで雇ってくれませんか?」
そう言うと男は瞠目してはじめて表情を変化させた。面白いほど目を見開かせるのでフィリックスはつい笑ってしまいそうになった。
「雇う?きみが?この店で働くということか?」
「そうです」
そう答えると、突然喉から呻り出すような、嗚咽ようなものが聴こえた。それが目の前の男から発せられているものだと気づいてフィリックスはふしぎそうな顔をした。男は俯いて肩を震わせているので表情はよく見えないがどことなく自分を嘲っているのだろうな、とぼんやり思った。揣摩憶測の域を出ないので男自身の言葉を待つしかないのだが。
「なんて面白い子どもなんだ!盗みに入った店の主に雇ってほしいと頼むなんて!きみ、なかなか肝が据わっているじゃないか」
男はこれ以上ないほど破顔して捲し立てるように言った。
「今まで盗みに入った子供は何人もいたが、僕に”雇ってくれ”だと頼んだ奴はきみが初めてだよ」
「頭がおかしいと思うかもしれませんが、さっきちょっとした事件に、巻き込まれまして。もう思い出すのも厭なので説明をするのは勘弁願えますか。ああ、それで、ぼくもう家には帰りたくないし家に帰られないなら仕事にも行けないしで、その、他の仕事がもう見つからないだろうしこれからどうしたらいいか分からなくて、ええその」
勢いで言ってしまったこともあり、どう説明したらいいか分からずまとまりのない言葉を羅列してしまう。しかし言ったことはすべて正直な心の裡であり、盗みに入ったというのは若干語弊があったが”なにかに引きつけられて”――”なにか”の正体を説明できるかは別として――この店に忍び込んだのは紛れもない事実なのであり、後がなく此の店が頼みの綱で本当に雇ってもらえるのであったら願ったりだった。フィリックスにとってこの店は、禁忌だとわかっていても手を出してしまうようなセフィロトの樹だった。
「いいだろう、ぼくはきみを気に入ったよ。きみの願いを聞き入れてやろう。雇ってあげるよ」
男は笑って受け入れた。どんな預言者の言葉よりも崇めたい、乃ちヨハネの一声だった。
「しかしきみ、この店がどういったものなのか訊かなかったがいいのかい?知らないんじゃないのか」
そう言われてフィリックスはそうだったと気づいた。雇ってもらいたいことにばかり気がとられてこの店がどういったものなのかすら知らないし、訊ねてもいなかった。フィリックスは其れを自覚して罌粟の花のように顔を赤く染めた。其の様子を見て男はけらけらと笑った。
「じゃあ説明しよう。この店の名はきみが知っての通り<Blue Eyes>と言う。フリートストスートに並んでいるから一見分かりにくいけど、非会員制の社交クラブだよ」
「えっ、ここってフリートストリートなんですか?」
フィリックスは驚いて男の言葉を遮って言った。
「そうだよ。知らなかったのかい?」
「知りませんでした。ここに来るまで気が動転してたし、その、こっちはあんまり来たことが無くて詳しくないので」
ホワイトチャペルからフリートストリートは歩くとかなりの距離があるのでこの界隈には余り縁が無かったのだ。それを聞いて男は話を続けた。
「非会員制だから階級とか年齢とか性別問わず出入り可能だ。お金さえ払ってくれるならね。社交クラブだから客同士や客と従業員の交流が主な目的だよ。男女の引き合わせも依頼されたら出来るけど、”そういった趣旨”のクラブではないから”親密な付き合い”は外部でお願い、ってところだ」
男は用意された科白を読むかのように流暢に説明していく。
「従業員の条件は、店名にもあるけれど”碧眼”の若い男子であることなんだ。だから従業員には女性はいない」
フィリックスは”碧眼”という単語に首を傾げた。フィリックスは髪も眸も胡桃色だ。どこから誰が見ても絶対に碧色ではない。おそるおそると言った様子で男に一瞥をくれると男は示指を突き立てて悠然と言った。
「従業員、というのは直接お客様と交流したり表に立つほうのことだ。君は裏方で雑用をやってもらう。つまり下男ってことさ。なんせきみは”碧眼”じゃないからね」
一瞬は驚いてしまったが、下働きをすることに特に不満や異論はなかった。雇ってもらえるなら安い給料でも多少汚くてつらい仕事でも構わないと思ったからだ。ただ、なぜ”碧眼”であることに拘るのか気になったが男は説明するつもりもないようだった。
「おっと、自己紹介がまだだったね。ぼくの名はグラントリー。知っての通りこの店のオーナーだ。きみの名前は?」
「フィリックスといいます」
「フィリックス!立派な名前だ。ますます気に入ったよ」
グラントリーと名乗った男は満足したようににっこりと笑ってフィリックスに歩み寄った。すると不意にジャケットの懐から折り畳まれた白い紙と萬年筆を取り出した。淡々とした動きについ見逃してしまいそうになったが忍ばせておいたというより”突然そこに出現”したかのように思えて息をのんだ。
「それでは契約に移ろう。ぼくは約束事が大好きなんだが、何でも書類に残しておきたくてね。口約束は性分じゃないんだ。きみは字は書けるかい?」
「書けます」
「そうか、なら良かった!契約内容は先刻口頭で説明したぶんと、これからきみを雇用するにあたって守ってもらわねければならないことがあるんだが、良いか?」
フィリックスは構わないと返事をしたが、瞬時にグラントリーが鼻と鼻がくっつきそうなほど接近して”有無を言わさず”といった様子で話し始めた。
「きみに必ず守ってもらいたいことが三つある。一つ目は、従業員たちのことを穿鑿しないこと。色んな従業員がいるけれど彼らにも知られたくないような事情はある。無理やりに聞き出そうとしたら駄目だよ。次に二つ目は、ぼくが入ってはいけないと言った部屋には入らないこと。最期に三つ目、嘘をついたり約束を破ったりしないこと。ぼくは嘘をつくのも約束を破るのもこの世で三本指に入るほど嫌いでね。特に守って欲しいんだ」
グラントリーは片手にそれぞれ示指、中指、環指の三本を立たせて凄むような形相で話した。”ノーとは言わせない”と言わんばかりだ。先刻とはあまりにも違う雰囲気で睨まれてつい萎縮してしまう。話し終えてしばらくしても動かないのでフィリックスは慌てて返事をすることにした。
「わかりました。約束守ります」
「本当かい?ありがとう!」
僧衣ってグラントリーは即座に離れ、フィリックスと堅く握手を交わした。グラントリーの手はフィリックスの手よりも大きく、ごつごつと骨ばっていて、そしてとても冷たいのでなんだか妙な感覚だった。
「じゃあサインを頼む」
フィリックスは近くにあった背の高い木製テーブルの上に契約書を置いてサインすることにした。テーブルが壁に沿うように置いてあるため、前屈みになるとちょうど電燈から背を向ける状態になってしまい手元が暗くなって見えづらいのが難点だが他に台に出来そうなところが無いので仕方なかった。フィリックスは間違えないように、そして汚くならないように丁寧にゆっくりと自分の名前を記した。手元を見ながらグラントリーが感心しながら言った。
「きみ活字が書けるのかい?てっきりつづけ字かと思ったよ!」
「ぼく、元々は中流階級だったので」
「そうなのかい?それはまた大変だったね」
“大変だったね”という言葉には慰藉の意図よりも”可哀想に”、”色々あったんだな”とかいうある意味下世話で悪趣味な意図があるんだろうとふとフィリックスは考えた。 サインを終えて契約書をグラントリーに渡すとそれを閲して満足げに笑った。
「よし、これで契約完了だな。今日からきみは正式に我がクラブの仲間だよ。ようこそ、<Blue Eyes>へ。歓迎しよう」
グラントリーは、ただ不敵に笑っていた。
契約が終わり、部屋から出るとグラントリーは湯浴みをさせてやるとフィリックスを浴室に連れていってやった。フィリックスはそのことに感激した。仕事終わりで泥塗れの上今までにないほど汗を流したので、体の汚れを水で洗い流せるのは恐悦至極なことであった。
まだ両親が健在で屋敷で暮らしていた頃は浴室があって湯水浴が出来ていたが、工場や救貧院、泥ひばりの仕事をしていたときはまともに入浴なんて出来なかった。浅い盥に水を入れて体を拭く程度しかできなかったが、これが元からの習慣ならまだしも、湯水浴の習慣があったフィリックスにとってはつらいものだった。だから湯水浴させてくれると聞いたときは涙が出そうなほど嬉しかったのだった。
浴室は広くは無かったが浴槽も一人入れるだけじゅうぶんな物だった。湯沸かし器の使い方を教えてもらい久しぶりの湯水浴をした。ひさびさすぎたせいかまるで生まれて水浴びをした赤子のような気分だった。 グラントリーは着替えにポプリンのシャツと褐色のズボンを用意した。他の従業員の御下がりらしく、そのうち仕立て屋で採寸してもらって専用の服を拵えると言っていた。フィリックスは御仕着せでも作るのかと思ったが実際どうなのかはわからない。
用意された服はフィリックスにぴったりのものだった。先刻まで着ていた継ぎ接ぎだらけの襤褸とは大違いで破れた箇所も色落ちした箇所も汚れた箇所も無かった。アイロンがあてられたのか皺一つ見当たらず、フィリックスは久しぶりに着たまともな服であったため上等な晴れ着を着たかのような気分だった。
「腹が減っているだろう。食事を出してやろう。と言っても、たいしたものは無いんだけどね」
そう言いグラントリーはフィリックスをキッチンへと案内し、テーブルに着席させると白いライ麦パン、チーズ、ニシンの燻製、ペストリー、ミルクを出した。テーブルに置かれた温かい食事にフィリックスは思わず唾を吞み込んだ。少し前ならドリッピングつきのパンにミルクというのが毎日の主な夕食だったというのに、かつての屋敷に居た頃の生活に戻ったんじゃないかと錯覚するような心境だった。精肉どころかベーコンすら食べられないほど質素な食生活だったのに突然こんなに良いものを食べて胃がびっくりしないかと心配にもなったが、それよりも獣のように唸り出る飢えと渇きを満たしたくて喰らいつくように料理に口を付けた。
グラントリーの「遠慮せずにおあがり」という言葉とともに、味わう暇もなくテーブルに出された料理を全て腹に入れていく。そうしているとあっというまに皿にあったものは影も形もなく消えていた。
「よほど腹がへっていたんだな。あっというまに無くなってしまったよ」
傍で見ていたグラントリーは感心したように言った。フィリックスはその言葉にちょっとした羞恥のようなものを覚えた。あまりに賤しい食べ方だったかもしれない。しかしどうしようもなく空腹だったのは確かだったし、食べ物に在りつける幸福のほうが上だった。フィリックスがふとキッチンの中を見回すと、先刻までは感じることのなかったものを感じた。家の広さの割にキッチンが広く見たことのないような器材が沢山置かれているが、それ以上にキッチンの空気が”異様”だと思った。至って普通の内装なのに”おどろおどろしい怪物”が潜んでいるような不自然と、端切れのように見えないところが腐蝕しているかのような奇怪さが漂っていた。”呪いが繞った荒寥の家”などと形容するといみじくも言い当てた表現だ。フィリックスは鼬の巣に放り出された盲蛇のような気分になった。雇ってもらえることになった時は純粋に喜ぶ気持ちがあったが、あの一計の帰趨が此れであるとは考えていなかったので突如として心配事が生まれたのだ。此れが単なる杞憂で終わるならば其れに越したことはない。否、そうであってくれと希うばかりであった。
フィリックスは何かを信じることももう厭になっていたが、望みを並べて失ったわけではなかった。この家が、この主人が自分を救ってくれるのではないかと思ってしまうのはきっと人間であれば至極真っ当なことだ。
「おいで。きみの部屋に案内してやろう。仕事は明日からだから今日はゆっくり休むといいよ」
食器を下げるとフィリックスはグラントリーの言葉に従ってキッチンを後にした。
「きみの部屋はいちばん上、屋根裏だけどいいかい」
「部屋をもらえるだけでもじゅうぶんです」
どれだけ狭くても汚くてもぼろくても個室が与えられるだけましだとフィリックスは考える。それにどうせ寝るだけならそうであって何ら問題はないはずだから。グラントリーを追って球根のような形の装飾的な手摺子のついた黒光りしている階段を上っていく。
「そういえば、ずいぶんと見入っていたみたいだけどぼくの蒐集品が気に入ったのかな」
その言葉を聞いて、フィリックスは一瞬キッチンのことを言ってるのではないかと体が強張ったが”蒐集品”という言葉で違うのだと分かった。先刻のパントリーのことを言っているのだと、そう思った。
「あまりに奇麗な食器だったから。あんなに奇麗なものははじめて見ました」
「そうか!きみは良い”眸”をしているね。ぼくに言わせてみれば、あの食器たちはどんな高価な金地金より魅力的に見えるよ」
グラントリーはうっとりとして言った。宝石に魅入られた女さながらにまるで愛する者を想うように微笑んでいた。確かに言う通りあの食器たちはとても美しかった。あんなに美しく磨かれたものは今まで見たことがなかったし、生まれた時に授けられた銀の匙に劣らないほど魅力的に見えた。
「彼らが何の柄か分かるかい?蘭だったり木犀だったり薔薇だという植物や、孔雀や龍とかの動物をあしらっているんだ。ああいった物を何て呼ぶかわかるか?」
「さあ。わかりません」
そう言いながらフィリックスは先刻パントリーで見た食器の柄を思い出した。植物や動物が描かれているのは分かったが、それらの名前までは知らずぼんやりとした姿だけが浮かぶ。
「シノワズリと言うんだ。聞いたことないか?ぼくはいわゆるシノファイルってやつだよ」
グラントリーは喃々と喋り続けた。好きな物に関することは幾らでも喋り続ける気性なんだろうとフィリックスは思う。様子からしてかなり好きなようだ。
三階へと続く階段の踊り場に来ると、上の廊下から足音が聞こえた。二人がその方向を見遣ると其処には若い男が立っていた。男はフィリックスに少し視線を遣って立ち止まるがすぐに階段を下りて二人のところまでやって来た。
「グリー。俺の時計を何処に置いているんだ?」
「やあアーニー。悪いね、今日時計屋から帰ってきてそのままにしてたんだった。ぼくの部屋のデスクに置いてるから、勝手に持って行ってくれ」
「わかった」
男はフィリックスのことを訊ねるわけでもなく、まるで居ない者かのようにグラントリーと言葉を交わした。フィリックスは男の無関心そうな態度と自分だけ一人蚊帳の外である状態にすこし居心地の悪さを感じた。それに聞き覚えのない名前が聞こえた。”グリー”というのは恐らくグラントリーのことで、”アーニー”というのはこの男のことだろうと察した。”アーニー”という呼び名もきっと本名ではなく綽名なのだろう。グラントリーは笑っていて随分睦まじい様子であるので余程親密な仲であることが分かる。
「アーニー、彼はフィリックス。新しい仲間だ」
グラントリーはフィリックスの方を見て言った。アーニーと呼ばれた男はフィリックスを訝しげに見た。突然仲間だと連れて来たのもおかしいし、そもそもフィリックスの瞳が”碧くない”ことを不審に思っているのだ。
「下働きか」
「そうだ。雑用兼小姓かな」
雑用はともかく小姓という聞き覚えの無い言葉を聞いてフィリックスは顔に出さずと内心で焦りを感じた。小姓をするというのは聞いていなかったが、グラントリーの様子では既に確定事項のようだった。
「俺はアーネスト・ノックス。宜しく頼む」
「宜しくお願いします」
アーニー――もといアーネスト・ノックス、と名乗った男は自己紹介をしたが、未だ不信感を拭い切れていないといった様子だった。フィリックスはノックスとしばしの握手を交わすと、彼の姿を観察した。ノックスはグラントリーと違いラウンジスーツを着用していた。象牙炭の黒髪に鋭く切れ長い紫青色の眸、滑らかな線の顔郭が冷たい印象を醸し出しており、鰾膠も無い男だった。此れだけだと只のいやな男だったが、ノックスの最たる特徴は容貌ではなく其の”声”だった。怜悧そうな容貌からは想像できないほど低く嗄れている。あまり聞き心地の良い声質ではないのでそれが更にノックスの印象を裏付けているのではないかと思った。
「じゃあアーニー、また後でな」
「ああ」
フィリックスがグラントリーに付いて階段を上ろうとした時、すれ違いざまにノックスと眸が在った。ほんの玉響だったが鋭く澄んだ紫青色が射抜くようにフィリックスを捉えたのだ。瞬間なのに其の場で足に杭を打たれたかのように動かなくなった。グラントリーが数段先に上がり、ノックスが数段下りた先にいるころに軈て足が動く。奇妙な感覚だった。グラントリーといい、ノックスといい神妙な碧眼ばかりだ。筆舌には尽くし難い、怪しい魅力が在る。きっとこの店にはそういった碧眼の者ばかりを集めているのだろうと、フィリックスはそう思った。