燈 〜第1話〜
虎になれればと思っていた。
自分で自分の人生を終わりにできるほどの覚悟も理由も持ち合わせてはない。だからといって歳を重ねて背中が丸まるように、根拠のない自信や自尊心で伸ばしていたはずの背筋がどんどんと縮んでいくだけの日々を、僅かばかりの希望を頼りに生きていけるような人間でもないのだ。
だから、虎になりたいと願っている。
生き続けなくても誰にも責められない、夢を諦めるどころか、夢を描いていたことすら忘れてしまえるような、そんなリタイアの証明書。
東京にはこんなにもビルが立ち並んでいるのに、そんな証明書を発行してくれるところなんてどこにもない。
ふと夜空を見上げれば、街灯に負けてたまるかと叫ぶようにベガとアルタイルが輝いていた。1等星じゃなくてもいい。人間が認識できるギリギリの光を放つような6等星程度の輝きでもいい、死ぬ間際の爆発が長い年月を経て誰かの目に届くような、そんな刹那の輝きでも放てたならば私は私の生を肯定できるだろうか。
果たして私は今、何等星なのだろうか。
いくら必死に輝こうとも、幾千の残業からなる夜景の明るさに負けてしまっては誰の目にも映らない。
誰の目にも映らない星は、存在しないのと同じなのだ。
小説家を目指してフリーターを続ける生活が4年になろうとしている。ぼんやりと小説家になりたいと考えていたのが、高校2年の頃。それから数えればもう10年の時が過ぎた。もはや、夢のためのバイトなのか、バイトのための夢なのかがわからない日々が流れていた。それでも自分で選んだ道なのだからと言い聞かせ、バイト終わりの疲れた体に鞭を打つ。Wordに向かい続けてはや3時間、画面左下の文字数を示す数字は0から増えないままでいた。気分転換にならない気分転換のためにベランダに出る。見下ろせるほど高くないのだが、大通り沿いのこの部屋は少し遠くまで見渡すことはできる。遠くに見える繁華街の空は薄らと明るく、人間色したネオンの集まりが寂しさを掻き消しているようだった。
根元まで吸い切った煙草を、今にも吸い殻で溢れそうなコーヒーの空き缶にねじ込んだ。
部屋に戻ってスマホを見ると、umeteの通知が画面に表示されていた。umeteは私が大学生になるくらいから流行り始めたSNSだ。基本的な機能は従来のSNSと大差ないのだが、コミュニティハドルという機能が少し特徴的で、趣味の合う人同士で音声通話ができる。もちろん聴くだけというのも可能なのだが、それだけでなく、その音声通話はボイスチェンジャーがついている。より匿名性を保ちたい人、自分の声に自信がない人、性差によって先入観を持たれたくない人など、微妙な需要があったため細く長く続いている。使っている人は様々だが、いわゆるサブカル界隈と呼ばれるような少しマニアックで混み合った界隈や、そのサービス名の通り深夜にこっそりと寂しさを埋め合いたい人たちに重宝されている。
スマホの画面に表示された通知は、私がフォローをしているアカウントの「Eve」がハドルを始めたことを知らせていた。彼か彼女かわからないその子はおそらく学生で、私と同じかどうかはわからないが、小説家を目指している。その子はショートショートくらいの長さの短編小説をよく投稿しており、その文章は澱みのない無垢な文章でありながら、少しドキッさせるような仄暗さを持ち合わせている。どうせまたWordに向かっても何も書けないのだからと、部屋の電気を消し、コミュニティハドルの参加ボタンを押した。
「こんばんは、NAGIさん」
NAGIというのは私のアカウント名で、本名の凪生(なお)からとっている。Eve以外の私を含めた4人は全員リスナーで、中性的に変えられたEveの声を聞きながら、チャットでたわいもない会話をしていた。最初は私も聴くだけのつもりだったのだが、スピーカーリクエストのポップが私の画面に表示される。Eveからだ。少し躊躇っていたが、今話している小説が大学時代に読んだことのある小説だったためリクエストを承認した。
「NAGIさん!きてくれた!もしかして今回もこの小説について何か教えてくれるんですか?」
Eveの声が無邪気に弾む、その嫌味のない声色のせいで(声色は変えられているはずなのだが)つい私は喋りたくなってしまう。
「その小説は大学時代に読んだことがあったからね。そもそも、その小説が書かれたのは第二次世界大戦後で、、、、」
大学で学べる程度の知識をひけらかし、軽くその小説に対しての自分なりの考察を話した後、いつも通りEveの質問攻めにあう。質問攻めが落ち着いてEveも私も満足いったところでEveのあくびが聞こえた。
「もう寝ようか」
「はい、また色々聞かせてくださいね、おやすみなさい」
「おやすみ」
真っ暗な部屋にも街灯のあかりが差し込んで、ぼんやりと全景が見える。枕元で光っていたスマホの画面が、自動ロックによって勝手に消えてしまった。静寂というにはあまりに頭の中がうるさい。何となく目を瞑ってみるが、頭の中で響いていた自分の声が大きくなるだけだった。結局、寝ることすらままならないので、ブルーライトに目を浸す。数時間後、カーテンと窓の間から朝を確認し、それと同時に訪れた睡魔に身を任せた。
目が覚めた時には太陽はとっくに頂点を過ぎていて、そろそろ準備をしなければバイトに遅れてしまうくらいの時間だった。軽く身支度をし、自転車を走らせバイト先の蕎麦屋へと向かう。いくら風を肌に感じるとは言え、東京の夏の暑さは尋常ではない。
ハンドルを握る手からも夏をジリジリと感じる。
「お疲れ様です」
「今日もありがとねぇ」
いつも通りの優しい声で話しかけてくれる美智さんは蕎麦屋の奥さんで、奥からは主人の慶さんが蕎麦を打つ音が聞こえる。2人とも還暦を過ぎているはずなのに、それを思わせないほどパワフルで私にはない生を感じる。美智さんが暖簾をかけ営業が始まると、数分で常連さん達が顔を覗かせる。19時を過ぎると店はピークになり、閉店の23時までバタバタと忙しい。最後まで帰ろうとしない常連さんを美智さんが送り出すと、慶さんが腰を叩きながら客席の方へと歩いてくる。店を閉めてからすぐに締め作業をするのではなく、ビールを1杯飲みゆっくりと煙草を吸って一息ついてから締め作業をするのが慶さんのスタイルだ。
「やるか?」
慶さんがジョッキをこちらに突き出しながら私に話しかける。
「毎度毎度すいません」
「いいんだよ、せっかくの仕事終わりの1杯もあいつの見慣れた顔だけじゃもの寂しいからよ」
そう言って美智さんの方に目配せをする慶さんを睨みつつ、美智さんが私の分のビールを運んできてくれた。
「それで、最近は書いてんのか?」
「そうですね、ぼちぼちって感じです」
「ぼちぼちね。まぁ、書き続けてんならいいじゃねぇのか?」
「いいんでしょうかね」
「最終的にてめぇの人生のけつ拭くのはてめぇしかいねぇんだからよ。好き勝手やってみりゃいいじゃねぇか」
そう言って慶さんは短くなった煙草を灰皿に押し付け、残りのビールを一気に飲み干した。その姿に釣られ私も急いでジョッキを空にする。雰囲気を少し仕事モードに切り替えた慶さんの背中を追い、私も厨房へと入っていった。
締め作業が終わり、自転車に跨ろうとすると後ろから声をかけられる。
「いつも蕎麦で飽きちゃうかもだけど、今日も少し残ったから持っていって」
美智さんが袋に入った蕎麦を渡してくれた。いつもだからこそ、いつもより深くお辞儀をして、自転車に跨る。家に帰る頃には薄れてしまうのだが、バイト終わりの体に染みついた煙草と蕎麦つゆの香りが私は好きだ。今日の自分は何かをしたと、少しでも誰かのためになれたかもしれないと思えるから。
家に着き、風呂にも入らず布団の上で横になる。
必要ないのだが、誰かからの連絡がないかを確認する。
ただ、今日は確認してよかったのかもしれない。
umeteのダイレクトメッセージが届いていた。Eveからだ。
「NAGIさん、もし良かったら会って話をしませんか?」
続くかも
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