受動的、あるいは中性的な人間の行動
直線的時間と円環的時間。誰の評論か忘れたが、中学校の論説文で読んだ本の一説を水風呂に近かったお風呂から15分ほどおいだきさせながら頭をよぎった。前者はより多くのカネ、富、便利さを求める近代的価値観を現す一方、後者は有機的な、ゆったり、時には非効率とも共存する前近代的価値観、といった説明がされていたと思う。およそ15年経った今は、SNSやI・Uターン、昨年のパンデミック以来更に加速している、場所にとらわれないWork from homeなどがあいまってその境目が見えなくなっている気がする。らせんでくるくる展開しながらまたひゅってスタート地点に戻るような心持がする最近。
つい先日、登用試験を受けた。中途で入った今の会社は契約社員という雇用形態で、この試験で無期雇用(正社員)の仲間入りになるかが分かれるため、ここ数週間なんとなく上の空。今の職場や仕事や会社が好きだし、また転職活動をしたくないしでついつい、マイナスの方向に妄想がいってしまう。社会人になって6年が経過した今、いわゆるインタビューに乗りそうな輝かしいキャリアを積むタイプではないことが薄々分かってきていた。ミーハーじゃないし、ベストは尽くすがまあまあ、のラインをいければいいかなと。パンデミックで本当にある人にとっては仕事がなくなったり、感染したりと2年前には考えられなかった世界の中で生きるには、直線的な欲望なんて邪魔だと思っている。がんばりすぎず、健やかに、その時食べたいものを食べ・行きたいところに行き・読みたいものを読む・書きたいことを書くなどの生活を正直に実践しつつある気がする。一方で、自分で何とかしてやろうと暴力的な響きがプンプンするいわゆる「自己啓発」という言葉を聞くたびに、社会人1年目よりも生理的な嫌悪感に襲われることが多くなった。
SNSの友人から、ある方のブログ記事を紹介されて読んでみた。まだ20代前半とお若いが、宗教家として哲学、倫理学、宗教学など様々なフィールドを縦横無尽に考えをめぐらせて書かれている様子に、難しくて長そうだな…と途中でそっ閉じするはずが、最後まで惹きこまれて読んでしまった。ふと、大学時代の東洋哲学を専攻していた先輩を思いだした。よく、授業の合間に近くの公園で本を片手に話したり、その人の好きな哲学者について話したりしていた。無為な、無駄とものんびりとした時間が後から思えばじっくりと内面の栄養になってくれていたのだと思う。
哲学本など読むことも、それについて考えることも日々に追われて減ってきているが、実家を出てから仕事以外で活動量が増えた家事をやっているときにふっとつらつらと答えのない問いを脳内で繰り広げているときが多くなった。包丁で野菜を刻みながら、あるいは床を掃除しながら。
「ある目標のためにではなく、必然によって、行動すること」(略)「どんな目的でということではなく、どこから来ているのかということである」(シモーヌ・ヴェイユ著/田辺保訳『重力と恩寵』P79~80より)
周りの変化を受け入れたり、受けれなくても認めつつ、自分にスポットを当てずに自らのルーツと何となくのつながりを感じながら思い・行動することの可能性を感じさせる言葉だ。どこでも光・闇はあるし、単純に二項対立では語れない。常にお互い変わるものだ。冒頭の中学の論説文で読んだ「直線的時間」とは真逆で、やや予定調和な円環時間を少し変形させながら、その場の環境や内なる使命を聴きながら時間を過ごすことが、終わった後も血肉になって思い出や経験が息づく人間らしい過ごし方なんだなとつらつら思った晩夏・初秋の夜であった。