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「美術」の脱構築とつくりての復活ー「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を観て

先日、上野の国立西洋美術館で開催中の展覧会、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?――国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」を見てきた。今までクラシックな西洋美術の展示が中心な当美術館にとって、ミュージアムの在り方そのものから現代から問い直すテーマは極めて画期的だと、開催前から注目していたのでとても楽しみにしていた。楽しかっただけではなく、充実したキャプションとともに良い疲労感が残った。

帝国主義的な価値観からの脱構築、「健常者」しか想定していない空間のしつらえなどが多様なアーティストによって考察されており、大変見ごたえがあった。
主に2つの観点で感想を記したい。


1.帝国主義からの脱構築・暴力の可視化

展示の根底を流れているのは、19世紀植民地を拡大していた西欧において生まれた「ミュージアム」の構造そのものに対する脱構造の志向である。イギリスの大英博物館は、大英帝国時代に植民地から強奪した「宝物の一大展示場」にほかならない。E・サイード『オリエンタリズム』でも指摘されている通り、植民地に住む人の幸福の権利や人権はないものと見なされ、「何か面白そうなものがありそう」「神秘的な何か」という一方的な欲望の対象として見なす視点が植民地に対して向けられていた。モノ化した視点が権力であり、暴力装置の引き金になる。
国立西洋美術館の設立の経緯も決して無関係ではない。明治時代の殖産化、大日本帝国としての植民地化にも加わっている川崎重工の社長を務めた、松方幸次郎によるコレクション(「松方コレクション」)がベースとなっており、作品によっては集められた西洋画のテーマが植民地に対する所有欲の視線が顕れたものだったと思う。なお、記者向けの内覧会では、出展アーティストの一人である飯山由貴氏や何人かのアーティストたちで、スポンサーである川崎重工がガザ地区のパレスチナ人の虐殺に武器提供することで加担していることを可視化し、非難するパフォーマンスを行った。
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/protest-nmwa-news-202403

所有欲だけでなく、植民地化の暴力的な本質を突くだけでなく、他の関係にも当てはまるという飯山氏の展示は気づかせてくれた。

松方コレクションが所蔵する絵画を何点か配置した中で、1945年までの大日本帝国の暴力性・フェミニズム運動などいろいろな視点で彼女の意見が大きな紙面で埋め尽くされていた作品だった。


飯山氏の展示

「自分に同化させるよう強制しながら決して自分と同じ力と権利を認めない」というのが帝国主義であり、大きな暴力装置にほかならない。例えば1945年までの日本は、台湾や当時の朝鮮に対して日本語の強制、教育を行ったが決して行政権など、日本人と同等と認めようとしなかった。自分が偉いんだからお前が同じことできるよう努力しろ、だが選挙権や立法権など、異議申し立てをする権利は認めなかった。今なお続いている、ガザ地区のイスラエル・パレスチナの間の暴力もそうだし、国家間だけでなく男性優位主義、それに異議を唱えるフェミニズム運動とも通じる。
また、特に後者について大事な説明がされており、しばしば「男性優位主義」をぶち壊す運動と誤解されてしまいがちだが、そうではないということだ。


男性優位主義≠フェミニズムということ(飯山氏の展示)

もちろん女性側の男性への暴力もあるし、同性同士もある。あらゆる暴力を根絶し、どんな社会的属性の人の人権も認められるのがフェミニズムだということを改めて認識した。脱構築は暴力性を脱することであり、一見平和的に見えるミュージアムについても、背景を考察することで、決して無害ではないと気づく。

2.「美術」のつくり手、観客のユニバーサルデザイン化

「パープルルーム」の展示は、現行の日本の美術教育が専門学校や美大に行って学び、院展などで出展して界隈に認められていくという、極めて狭窄的で権威的であることを自らの試みを通じて可視化している。「つくり手」は美大の卒業資格も、何かしらの展覧会の入選実績も必要ではないのだが、「世に出る=それでご飯食べていく」ために世間から求められるようになっている現実がある。参加メンバーのツイートも展示として含まれていたが、普段は美術と遠い人がふと絵を描き出すことが、驚きや新たな世界を拓くことがあるというコメントがあった。私は普段美術とは無縁な仕事で生活しているが、美術が目的と化している美大生やアーティストと違って、自分の人生を表現するツールとして捉えている分、描き方のメソッドや論理から自由なのかと思う。確かに「売れていく」ために必要な王道だったり、基礎からの積み上げは訓練としてどの分野にも存在するが、根源的に人間の欲望や感情、あるいは社会の表象を問い、表現する美術がただのノウハウの優劣を競うものになっていないか、権威を肯定的にとらえ、盲目的に従ってしまうことに対して警鐘を鳴らしていると読み取った。
「権威」とは何なのか。まことしやかに重んじられる価値観を根底から問うていた。

もちろん、観客も美術には不可欠だ。田中功起氏の一連のテキストによる託児スペースや美術作品の展示の高さについての問題提示は、公共空間がいかに「健常者」のみを想定しているかをあぶりだしていた。静かに・騒いじゃいけない・走っちゃいけない、と当たり前のようにアナウンスされたら小さい子どもは連れていけない。そして大抵、作品は大人が見上げる位置に掲げられているため、車いすに乗った人は見づらい。場所によっては座るスペースが少なく、杖をついた方や高齢者は長時間立ちっぱなしとなるため辛くなる。あるいは、作品のキャプションが日本語・英語・韓国語・中国語(他にはフランス語など一部の欧州語)と比較的地理的・心理的にも近い国々の言語がつくが、それ以外あらゆる地域からの外国人観光客が集まる中でアラビア語やトルコ語など、それ以外の地域の言語が不在なこと。日本のミュージアムはよくみると、限られたマジョリティのものなのだ。

描く側も、観る側もマジョリティの人間たちが多くなると、そもそもの美術館としての使命が果たせなくなるのではないだろうか。公共空間であらゆる人間の営み・文化の継承を鑑賞を通じて継承する場であるのが美術館の使命ではないかと、私は認識している。
この展覧会は、子どもや障がい者、外国人など、多くのマイノリティを包摂する場をつくること、「静かに・日本語を解して・ずっと立って」作品を鑑賞しないといけないという暗黙のルールを解き放ち、誰にとっても楽しく美術に触れられる場、ユニバーサルデザインを今こそ目指す必要があると美術関係者のみならず、鑑賞者の私たちも真剣に考えるべき問題だと突き付けさせるものだった。


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