それでも、人間の心を信じる③/「倫理資本主義の時代」(マルクス・ガブリエル著)
かなり長くなってしまいました。今日で締めます(笑)
前回検討した幻の解説
批判3 ガブリエル自身の哲学と倫理資本主義の関係性(続き)
斉藤氏は「幻の解説」の中で、ガブリエルの「新実在論」について触れ、そのうえで、ガブリエルのガブリエルのハマスやイスラエルについての発言を引き合いに出している。
その発言とは、ガブリエルが、大規模テロ行為に対して、イスラエルが軍事行動をとる権利を否定しないという趣旨の内容であった。
そのうえで、斎藤氏は以下のように指摘する。
つまり、上記イスラエルの軍事行動肯定(?)発言を受けて、ガブリエルがいう道徳的事実は、普遍的なものではなく、所詮ドイツ的なものでしかないのではという。
そのうえで、斎藤氏は、だから「脱成長コミュニズムは必要」と結ぶ。
ここが正直ちょっとよくわからなかった。
まず、前回、批判を論理的な問題に絞ったのにガブリエル個人の発言・記述の問題点を指摘していること。確かに、このガブリエルの発言内容については、私も違和感があった。イスラエルの軍事行動を正当化するのが普遍的な道徳的事実になりえるのだとするとどうも違和感がぬぐえない。
だから、ガブリエルが主張するこの「普遍的な道徳的事実」は間違っている、ガブリエルの言っていることが全部正しいとは限らないということであればわかる。
しかし、斉藤氏は、ガブリエル個人の発言・記述の問題点を指摘したうえで、最終的に「普遍主義の理念がヨーロッパ中心主義の隠れ蓑にすぎず、脱成長コミュニズムの必要性をパレスチナの解放とともに訴えなければならない」と結んでいる。
ガブリエル個人の個別の発言・記述が間違っていると言う指摘なのであれば、その間違いを指摘するまでが批判のスジのような気がした。ガブリエルが言っていることが当然すべてあっているわけではないはずだし。
それにもかかわらず、個別の発言の問題を指摘して、「普遍主義の理念がヨーロッパ中心主義の隠れ蓑にすぎず、脱成長コミュニズムは必要」と結ぶのは、少し飛躍があるような気がした。
あと、この結びは結局、前回の批判1の進化系みたいな気がした。批判1のあとで、「論理的な問題に絞りたい」といったのに、論理ではなく実質的な問題を論じているような気がした。そういう意味でも、なんでこういう結びにしたのかがよくわからなかった。
もしかしたら、ガブリエルの思想では、帝国主義的、植民地主義的な意味で独りよがりになる危険性がある、だからダメだということを強調したいのかも知れない。
確かに、ガブリエルに対してこの批判もありうるんじゃないかという気がしている。結局強い者が「普遍的な道徳的事実」を作り上げてしまって、弱い者が割を食うという構造になってしまうんじゃないか、という危険性はありそうだ。
ただ、そうなのであれば、そういう言い方の批判にした方がすっきり入ってくるような気がする。もっとも、斉藤氏の言いたいことはもしかしたらそうではなく、私の読み違いなのかもしれない。
ということで、批判3だけいまいち腹落ちしなかったけど、ガブリエルの主張にはいろいろ批判がありえて、その批判は必ずしも的外れとはいえないということになると思う。
マルクス・ガブリエルという人をどう理解するか?
長くなってしまったけど、前回盲目的にガブリエルが正しいと即断するのは、それ自体が間違っているような気がしたと述べた。
盲目的に即断せず立ち止まって思案することが必要だし、そうでなければガブリエルの掲げる「普遍的な道徳的事実」にはたどり着けないような気がする。
ただ、ガブリエルには「それでも、この立場を取る」と清々しいまでに「人間」を信じていることにある種の魅力があるように感じる。本人は、自分の立場が絶対に批判を受けることをわかっていると思うのだけれど、「それでも、この立場を取る」のである。
一方で、斎藤氏の立場も、まあ、自分の立場をまず簡単には譲らない人なんじゃないかと思う。「脱成長」なんて、直ちに肯定できない人はたくさんいるだろうし、斉藤氏も批判が来ることは承知のはずである。「それでも、この立場を取る」のは、彼は彼で「人間の心」ではなく、「人間の取るべき道」を信じているからではないかと思う。
実際、ガブリエルや斉藤氏の立場のどっちが合ってるか、合ってないか、なんて正直わかんない。それでも「人間の心」を信じるか、「人間の取るべき道」を信じるか、そこにめちゃくちゃ頭のいい人たちが、常人にはたどり着けないレベルの研究をして、全精力を懸けて自説に批判が来ることを覚悟して論じているのである。
そうだとしたら、合っているか間違っているかの前に、その生きざまみたいなものに、まず敬意を払いたい、そんなふうに思った。
また、どちらの立場を取ったとしても、私たちレベルだと、我々が現実的に直面する課題は、個別の問題に対して、どう対応するかになってしまう。
そうすると、個別の問いに対する対応方法も考えておく必要がある。答えは、それぞれの立場によって、同じときと違うときがあるはずである。
そのときに私たちは物差しにできる引出しを増やしておくことで、個別の問題の判断に硬直的にならずにすむのではないだろうか。学者の人はそんな態度を許さないかも知れないけれど、市井の人間はそんな感じでいいんじゃないかという気がしている。
そんなわけで、ここでひと段落。
根本的な議論は難しいけど、全体的にはいろいろ考えられて、面白かったです。長々とすいませんでした。
ということで、それでも人間の可能性を信じて、「今日一日を最高の一日に」