その文章はもう誰も全く同じように読むことはできない
小学校4年生の娘が大河ドラマ「光る君へ」にハマって毎週見ている。ドラマを考察をしている人のyoutubeまで見ている。
昨日の話(第47話)のラストでは、倫子さまがドキッとすることを言って「つづく」となった。「えー、ここで終わっちゃうの~」と娘。
次回が最終回のようである。
「もうどの平安時代の大河ドラマを見てもこれより面白いのはないと思う」
そんなことを言っていた。
娘は、第一話から欠かさず見ているようである。
私も、最初は毎週見ていたが、途中で脱落してしまった。あいだが多分15回分くらい抜けている。昨日は、久しぶりに1話分通して一緒に見た。
今日の第47話のラストは、仮に今回しか見ていなかったとしても、次回がとても気になる終わり方だった。
しかし、一話から欠かさず見て、ドラマを考察するyoutubeまで見ている娘とは全く見え方が違うと思う。
いわば、私は「飛ばし読み」をしてしまったようなものだ。
妻は、連続ドラマを見るのが苦手らしい。一度間が空いてしまうと追いつくのが大変だからとのこと。もっとも今回の「光る君へ」は、娘といっしょに第一話から毎回欠かさず見ているようだ。
一方で、自分は、間が空いても全く気にしない。連続ドラマなのに第1話と最終話しか見ていなかったみたいなパターンが割とある。そんな自分の見方を妻はありえないという。ふつうはそうだと思う。
断片的に視聴してしまった状態を後からつなぎ合わせるのも比較的平気である。
たとえば、自分は映画「風の谷のナウシカ」を、最初から最後まで通しで見たことがない。ただ、金曜ロードショーとかで何回もやっているのを断片的に見たことがある。多分なんだかんだ10回くらいは見ていると思う。その断片的な記憶をつなぎ合わせるとおそらくすべてのシーンは見ていると思う。
一番「ナウシカ」を長く見ていたのは、小学校のときの遠足の帰りのバスの中ではないかと思う。この時は、1時間近く見ていたと思うが、全部視聴する前に目的地に到着して、途中までとなった。
いい加減に、最初から最後まで通しで見ようとは思うのではあるが、いかんせんなかなか時間が取るまでにはなっていない。ほかに見たいものはいろいろある。
*
さて、先ほどの「光る君へ」。
私と娘のどちらが誠実な見方かと言ったら、間違いなく娘である。
間をすっ飛ばして、第47話だけ見ているなんてひどいとしかいいようがない。おそらく今日の倫子さまの発言の真の意味をちゃんと理解しようとしたら、最初から順番に見ていなければならないはずである。
しかし、もう私は第47話を見てしまった。なんで第47話がこういう話の流れになっているのかを確かめるためには、その前の見てなかった15話分くらいをさかのぼってみるしかない。
そうはいっても、これはもう何も知らない状態から、順番に見ているのとは全く勝手が違うものである。一度見てしまったものを後から検証するようなものだ。邪道も邪道。ひどいものである。
ただ、あえていうとしたら、こういうことができるのかもしれない。
最初から30話くらいまで見て、そのあと間が空いて、第47話だけ見ちゃった自分のような見方。これはもうある意味で自分にしかできない見方なのではないか。
もっと突き詰めるとこう言える。表現物として世の中に出てきたものは、もはや誰も全く同じように鑑賞することができない。そうだとしたら、ある作品を鑑賞したことによって得るものは、実は、人によって全く違う。そこには無限の創造の可能性があるとも言える。
自分でいっておいて、屁理屈もいいところだと思うほかないが、これは文章についても同じようにいえるのではないだろうか。
つまり、ある時、ある文章が世の中に出されると「その文章はもう誰も全く同じように読むことはできない」
この点において、文章は特に、読み飛ばしが可能である。
文章を読みながら、ある一行を、ある段落を飛ばしているということがよくある。ちゃんと読んでいるつもりでも、特に長い文章を読んでいると無意識のうちにある箇所を飛ばしてしまうことがある。
特に、noteだとよくあるのではないだろうか。
一文一文丁寧に読むのもその人の読み方だし、適当なところで読み飛ばすのも一つの読み方である。このパターンは人によって違うのであり、逆に言うと全く同じ読みをしている人はいない。
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このことを踏まえると書き手の観点からはこういうことが言えそうである。
「読み手は、全員が違う読み方をしている」
noteでいえば、スキを付けた人もつけていない人も、コメントをしている人もしていない人も全員が違う。無限のパターンがある。
たとえば、ある投稿でビューが増えることがあると、みんな同じように読んでくれているように見えてくるかもしれない。しかし、実は一人一人の読み方は全く違う。一文一文丁寧に読んだ人もいるだろうし、飛ばし読みをしている人もいる、もしかしたら全く読んでいない人もいるかもしれない。
ひとつ言えるのは、ある文章に対する無限の読みのパターンがあるということは、書き手の創造に対し、読み手の新たな創造のきっかけになっているかもしれないということ。
書き手からすると、この性質を押さえておくと少し楽になるかもしれないなんて思う。つまり、いろいろな人がいろいろな捉え方をしていてある意味当たり前なのである。ひとつひとつのリアクションには、それぞれ別の物語がある。
そうはいっても、書き手からしたら読み手がちゃんと読んでいるかどうかというのはどうしても気になってしまう。飛ばし読みよりはちゃんと読んでほしいと思ってしまうかもしれない。大胆な飛ばし読みをしているかどうかは、内容を聞いてみると比較的わかるような気がする。
たとえば、私が「光る君へ」をだいたい15話分くらい飛ばしてしまっていたこととか……
「それで、あなたはいつから見てないの?私が気づかないとでも思っていた?」
そんなことを、言われそうな気がしてヒヤヒヤしながらとりあえず最終回は見てみようと思います。
そんなわけで、この文章も誰もが全く違う読み方をしていることを想像して、「今日一日を最高の一日に」