「社会の底が抜ける」とはどういう意味なのだろうか
4000字くらいです。
先日の兵庫県知事選が話題になっています。
その中で「社会の底が抜ける」という表現がありました。
私は、兵庫県民ではなく、特に誰を支持というわけではないのですが、この「社会の底が抜ける」という表現が気になったので、ちょっと考えを整理してみようと思いました。
以下は、読んでいただければ分かる通り、特定の人を支持しているわけでもなく、「社会の底が抜ける」という言葉について、あれこれ考えているだけの個人的な覚え書きです。
私が「社会の底が抜ける」という表現を見かけたのは、宮台真司さんの「日本の難点」という本でした。
宮台さんの本は、煽りが強い感じがしてちょっと苦手だったりするのですが、人の気を引くのがとても上手な文章で、なぜか割とすらすら読めてわかったような気になってしまいます。でも、よく読んでみると、すごい難しいことが書いてあるような気がして、結局よくわからなくなってしまうことが多いです。
この本のまえがきに、キーワードは「社会の底が抜けた」、とあります。
この「社会の底が抜けた」とはどういう状態かについて、この本では、アンソニー・ギデンズの「再帰的近代」が引かれています。
「するも選択、せざるも選択」というのがなんともわかりそうで、わかりにくいのですが、「再帰的近代」については、このそんそんさんのnoteがとても分かりやすかったです(恐縮ですが、勝手に引用させていただきました。ありがとうございます。)
流動性と複雑性が増すことで、それまで通用した基準が通用しなくなり、問い直さなければならなくなること、これを再帰性が増大する、と言っています。
今までよりどころにしていた基準が弱まっていくと、流動的で開かれた状態になる、これは、ある意味余計な外的基準に依存していない、純粋な状態ともいえます。一方、流動的で、常に問い直さなければいけない状態は、リスクが増大している状態ということもできます。このよりどころがなくなった状態、つまり、どうするのか自分で判断をするしかなくなった状態は、不安を惹起します。
この「再帰性が増大」した状態のことを、宮台さんは「社会の底が抜けた」と表現しています。
つまり、流動性と複雑性の増大で今まで自明だった伝統的な考え方は頼りにはできなくなり、根本から問い直すしかなくなってしまった。そのことを「社会の底が抜けた」と表現しているのではないかと思います。
そうだとすると、上記のⅩの「社会の底が抜けた」は、宮台さんの本や再帰性を踏まえると、流動性と複雑性の増大でマスコミが言っていることが正しいのか、SNSが言っていることが正しいのか自明ではなくなり、根本から問い直すしかなくなってしまった、みたいな感じかもしれません。
そのために、どうしたらいいのか、よりどころにできる基準がなくなり、一から自分で判断するしかなくなった、そんな状態を示しているということになりそうです。
そうすると、不安は増大したけれども、判断の純粋性は増しているのかも。そうすると、もしかしたら、それ自体は必ずしも悪いこととは言い切れないような気もします。
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ただ、上記のⅩは文脈的にそういうことをいいたいわけではないのかもしれません。
上記のⅩのニュアンスは、「前は社会の底は抜けていなかったのに、今回の選挙で社会の底が抜けてしまった」という言い方なので、ニュアンスとしては、否定的なものに読めます。
では、ここでの「社会の底が抜けた」というのはどういう意味なのでしょうか。
この点については、Ⅹの文脈からの推察でしかありませんが、いわゆるリベラルの立場から、(実際にそうなのかわかりませんが)SNSによって人々が扇動されて、ポピュリズムに傾いてしまうことを否定的に評価しているということをいいたいような気がしています。
どういうことか。
まず、リベラルの人が何を気にしているのかということを考えてみます。
リベラリズムの発想が生まれるのは、めちゃくちゃざっくり行ってしまうと人権という概念が生まれて、近代立憲主義が成立し、個人の自由が権利として認められたというところに端を発するのではないかと思います。
そうすると、リベラルの人が危惧するのは、「権力によって個人の自由が侵害されること」になると思います。そこで、「権力を常に監視し、権力の暴走を押さえる」のが大事になってきます。
この「権力を監視し、暴走しないように抑制するための考え方」が、例えば民主主義とか立憲主義ということになるのではないかと思います。
この「個人の自由を守るために権力の暴走を抑制する」というのが、リベラリズムの基本的な発想だとした場合、危惧しているのは、権力が暴走してしまうことなのではないかと思います。権力が暴走してしまった過去の事例で代表的なのが全体主義とかだと思います。
今回は、選挙において、SNSとメディアの扇動的な側面が強くなっているのは事実で、そうするとポピュリズムに傾き、権力の暴走が止められなくなってしまう恐れがあるのでは、もしそうなったらそれはまずいよな、そういうことをこのⅩは言いたいのでは、そんな気がしました。
今までよりどころにしていた自明の基準が「個人の自由を守るために権力の暴走を抑制する」だとしたら、それが自明ではなくなってしまった、それはまずい、そういうことを「社会の底が抜けた」と表現しているのかもしれません。
これが合っているのかどうかということをここで決めるのは難しいのですが、一つ言えるのは、ここ最近は「権力の暴走を抑制する」という発想自体が、あまり実感がわかなくなって微妙になってきている傾向はあるんじゃないかと思われます。
というのも、「権力を抑制し、国家権力からの個人の自由を尊重する(いわゆる自由権)」という価値観は、とても効率が悪いです。むしろ、「権力を活用して福祉を充実し、国家権力による個人の自由を達成する(いわゆる社会権)」という側面がどんどん大きくなっていくなかで、暴走のリスクよりもむしろ国家によるサービスをもっと充実させてほしいというニーズが高まっていると思います。
そうすると、民主主義や立憲主義の観点から、権力を抑制するのは、とても効率が悪い。今の時代、暴走のリスクを気にするよりも、むしろ効果的な国家サービスをやってもらわないと困るという方向に向かっているということがいえるかもしれません。
ここまで来て、一つの疑問が出てきます。
つまり、この「個人の自由を守るために権力の暴走を抑制する」という価値観は、果たして本当に自明だったのかと。
というのも、この「流動性と複雑性の増大で今まで自明だった伝統的な考え方は頼りにはできなくなり、根本から問い直すしかなくなった」という状況。この状況は実は200年~300年くらい前の近現代に、民主主義とか立憲主義が出てくるときにも発生していたのではなかろうかという気がしてきます。
すなわち、その前は王様が国民を統治する封建的な社会が、当たり前のようにはびこっていた。ある意味自明だった封建主義が民主主義とか立憲主義にとって代わったときも、当時の人は「社会の底が抜けてしまった」と感じていたのではないだろうか。
そうすると、最初から「社会の底」なんてあったのだろうか。
そんなふうにも思えてきてしまえます。
この点について、冒頭の書籍「日本の難点」にはこんなことが書いてあります。
〝どんな社会も「底が抜けて」いること〟が明らかになった、とあります。どんな社会も「社会の底は抜けている」。大手メディアの信用性も民主主義も立憲主義も実はなんらかの恣意性が働いている。
我々が、自明と思っていたものは実は自明ではない、「社会の底が抜けた」と気が付いたとき、我々は根本から問い直すしかなくなった状況に直面していることに気がつく。
どうするのかを自分で判断するしかなくなって、根本から問い直すしかなくなった社会は、不安です。しかし、実は最初から「社会の底は抜けていた」。そうだとしたら、ある一つの自明の基準に囚われず、純粋に自分で考えて判断するしかないというのは、結局、今も昔も変わらないのかもしれません。そんな感じです。
ということで、まとめてみると、
とまあ、一人で好き勝手あれこれ考えてしまったので、合っているのか全くわかりませんが、何かが間違っていたら優しく教えていただけると幸いです(笑)。とりあえず、こんな感じで「社会の底が抜けている」の周りを整理しておいて、この問いは、この辺で切り上げようと思います。
ということで、たとえ社会の底が抜けていても、抜けていなくても、「今日一日を最高の一日に」