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平凡だった僕がNYでUDON IS ROCKパフォーマンスをするまでの軌跡【中巻フジロック編】

「みなさん、帰るのはまだです!」
大層盛り上がった僕の前に歌ったミュージシャンが去り、機材の転換中。
フジロックのステージで僕は叫んで観客を呼び止めていた。

「これから、、、、、ここで、ステージで、うどんを打ちます!」

!?何人かが振り向いた。遠くで笑っている者もいる。
客はまばらだが確実に何人かの足を止められた。

僕は生地の巻き付いた麺棒をマイクのついたテーブルに打ち鳴らした。

「たった一曲に、魂込めます」
手を上げ、音響の人に合図を出すと音楽が流れ始めた。

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▼分岐点ー停止編ー

話は遡ること1年前。

うどん修業中の僕は、働いている中で業界に対して疑問を持ちつつも、ここからは一人で歩きだすためのいわば「独立の準備だ」という姿勢で出勤し続けた。

そして2016年5月、谷やを辞め、直白を辞め、数年ぶりにうどんに触れない期間が訪れた。

解放感とはこのことか、と感じたのは一瞬。
自分の資金でちゃんとうどん屋を出すんだと思い、柄にもなく経営のセミナーに出たり勉強しながらアルバイトを始めた。

うどんとはスポーツである。

この時の僕の中にはまだこの言葉はなかったが、技術、感覚というのはブランクで確実に鈍るものであることは、あらゆる分野に言えるだろうことは知っていた。

慎時代から髪を切ってくれていた美容師に聞いてみた。

「ブランクできないように何したらいいですかね?」

ここが一つの大きな分岐点になった。

「出張うどんでもやってみたら?」

僕は名古屋の大学時代から持っていた愛車「道雪」で出張手打ちうどん屋を始めることにした。

▼初陣ー出張うどん編ー

とは言え前例がなく、何を参考にどうやっていけばいいのか、全くの0スタートだった。道具を一通りそろえ、これらをどう運ぶかを考えて実験を繰り返した。

まずが近くの公園まで機材を運び、打って茹でて食べる、これができないと話にならない。

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とにかくやってみる。やれば改善点がわかる。直す。
いわゆるPDCA的なやつのPの時間をめちゃくちゃ減らすって感じですね。

実践の場求む!格安でうどんやるぜって言うのでSNSに投稿すると、友人の紹介でBBQ場で打たせてもらえることになった。

初陣である。

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颯爽と道雪で駆けていくが、強風で原付は揺さぶられ幾度とこけそうになりながらもなんとか現着。それでも臆病な僕は3時間前入りをした。

風で消えゆくカセットコンロの火をキープするために風よけを即興で作るが、いつ沸くのか見えず、カセットは次々に開始前から空になり購入しにまた原付を走らせる。てんやわんやである。

まあ新店開店なんていつだって想定外が発生するわけで、そのための3時間前入りなので、開始前からへとへとになりながらも、準備万端で開始時間。

大勢の参加者が目の前にいる状態で、あれこれとうどんの説明をしながら、うどんを手際よく製麺していった。

特注の麺切カッターを持ち出し、麺を切り始めると観客は沸いた。

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気持ちいい。

僕は大学時代バンドでベースを弾いていたのですが、ステージで演奏する感覚を思い出しました。凡庸だろうが目立つことは嫌いじゃなかったんです。

お店の看板も何もない、ただあるのは己の力量。
純粋に喝采を喜べた。
この時の爽快感が僕の中の何かを取り払った。

その後、僕は深夜にローソンで働き、早朝にハウスクリーニングの仕事をし、日中に体をあけることでイベントの仕事をいつでも受けられるようにした。

目立つために髪をなるべくうどんっぽい白めに染め、和装っぽいけどスタイリッシュなSOU・SOUっていう京都のブランドをネットで見つけたので表参道まで車を走らせ、衣装を即購入。

さらにエフェクターという眼鏡ブランドで入店直後に「ぜってぇ買いたくない」と思ったゴツい白縁サングラスをレンズに替えたものを購入した。

これで目立つっしょ。恥ずかしさとか優先度低いねん。
まずは覚えてもらわんと依頼ももらえんからね。

人生の分岐点、マイノリティへの一歩。
出張うどん職人白麺士の誕生である。

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▼音楽×うどんー進化編ー

交流会に出まくった。
怪しいものや怪しい人に一番会った時期。
詐欺にも遭い大金を失いながらも前だけを見た。
お世話になる人にも出会った。
とにかく人生で一番多くの人と出会う刺激的な期間が始まった。

修業時代から店内で流れる音楽に合わせてうどんを打つことは多く、楽しかったのですが、曲の途中でうどんを打ち終えてしまう時の締まりの無さにいつもモヤモヤしていた。

そうだ。ちゃんと計算して一曲の中でちゃんとリズムに合わせてうどん打ってみよう!

上手くいったのでYoutubeというものに上げてみることにした。

イベントか何かどこで会ったのかも忘れてしまったが、怪しい音楽プロデューサーに出会った。
でもその人のアドバイスはドンピシャだった。

「打ち台にピックアップ(楽器用のマイクみたいなもの)つけてみたら?」

怪しいなんて思ってすいませんでした、、

それから色んな箱で機会をいただければどこでも飛んでいきうどんを打ちまくりました。僕はそれからその人に恐らく世界初であろううどんの初ステージにも出させてもらいました。池袋の芸術劇場前だっけか?

うどんがいきなりとんでもないところに出てしまった。

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大学の時から好きだった音楽を武器にUDON IS ROCKを掲げ、僕は加速し始めました。

▼断捨離は尖りを生むー車上物々交換生活編ー

ステージ出演から2か月前、僕はあるブーストをかけていた。
これらの選択が僕をマイノリティに向かわせていく。

出張を始めた当時、修業時代に住んでいた江東区のアパートの4階まで、階段でいつも機材を原付まで積み下ろしていた。

さらに原付で出張に出かけるたびに不安定な素人の荷積みにより、幾度と靖国通りで転倒し、今思えば本当に危ないことしていたなと思います。

色んな人から車にしなよーと言われていましたが、家もあって車も持つなんて、そんな金は僕にはないっす。と言って無視していました。が、

待てよ

家を解約する→車を買って住む→これまでの家賃分はローンにあてる

謎の方程式は僕に車購入を即決させました。

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車に積めないものは捨てるしかない。
(今思えばサブスクで荷物預かるサービスとかあったかと思いますが、知らなくて正解でした)

友人に断捨離サポートをお願いし服や小物はもちろんのこと、家具家電含め、思い入れがあるものまでガンガン捨てていきました。

家を捨て、物をすて、ライフスタイルを変え、身軽になった僕はむしろこの時一番たくさんのものを得ました

家でダラける時間が無くなり思考がクリアになった、寝て起きたら移動ができる、移動終わったら即寝れる、無駄がない、なんなら時間がむしろ有り余る

今でも言えます。何かを志す人にとってこのライフスタイルはかなりオススメだと。

さらに僕はSNS発信で

「お風呂や寝泊りさせてくれたらうどん打ちます」

という物々交換を始めた。
お金のやり取りは気持ち悪かったし、生きられたらそれだけでめっけもんやっていう精神でしたので。

しかし、このスタイルに多くの人から共感、応援をいただき、このあと行うことになるクラウドファンディングで大いに機能することは予想していませんでした。

あとは物々交換生活と同時に、知り合いのバーで火曜日だけうどんを出すというウどんバーも開始しました。

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オーナーとその友人から

「名前わかりづらい!名前うどんにしちゃいなよ!」

最初は「えー」って感じでしたが、僕は素直に聞き入れました。

小野ウどんの誕生である。

直白と谷やを辞めてから半年、大いなる脱皮を行った僕は全てを大きく変え、さらに急加速していきました。

▼苗場ゲリラアタック編

池袋の芸術劇場前での初ステージのさなか、僕はすでに前を見ていた。
海外に興味がなかった僕だが、日本伝統文化を日本に残すという志が芽生えていた僕にとって、当時ピコ太郎が流行ったこともあり、海外は利用価値があると踏んだ。

日本文化とえばフランスか、いや中国も勢いあるし人口も影響力もすごい、違う、パフォーマンスといったらアメリカ、NYだろと。予定調和じゃ意味がない。挑戦しなければ意味がない。

お金がない僕はクラウドファンディングというものを知った。どうやら色んな人からお金をもらえるらしい。実際は調べれば調べるほど奥深く、これは色々と計画してからやらないと失敗する。なんとしてもNYに行くためには資金を集めなければならない。

2017年4月、かねてより準備していたクラファンを開始した。
しこたまSNSで色んな人に連絡し、頼みまくり、リターンも考えた。
物々交換一年無料券という身を滅ぼしかねないようなものも後先考えずリターンとして作った。

結果、準備が機能し、開始4日でクリア。よし!!!

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クラファンの詳細

勢いでここまで来たが、もうこれで後には引けなくなった。
NYへの準備が始まった。

ウどんバーのお客さんのお宅にうどんを打ちに行った時に知り合ったデザイナーの友人の紹介ってので(遠い、、)
ハヤシさんという映像クリエイターの方と知り合った。

「NY行くのにテレビとか撮影とかないの?」
「ないっす。なんも考えてないっす」
「んじゃ俺が撮るよ」

ハヤシさんはフジロックのステージ撮影もしているそうだ。
フジロックフェスと言えば、サマソニ、ロッキンと並ぶ日本三大ロックフェスの一つで、全国のロックバンドの夢の舞台なのだ。

ちなみに大学時代バンドをやっていた僕は、洋楽メインのフジロックだけ当時興味がなく行ったことがなかった。

「フジロック出てみたら?」
「いや、住所不定無職ウどんなんぞが簡単に出れたら苦労しませんよw」
「いやそれがね、、」

フジロックは毎年7月下旬に新潟の苗場スキー場で開催されるのだが、その前月6月に「ボードウォーク」といって、山道を歩きやすくするための木の板を地面に貼っていくボランティアイベントが行われているのだ。

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そのイベントを仕切っているのが、とあるステージのボスらしく、ボランティアで行っといて、ゲリラでうどん打ってみんなに振る舞って認めてもらえればステージワンチャン出れるんちゃう?っていうとんでもない賭けの提案をいただいた。

二つ返事で了承した。
賭けだろうがなんだろうが、そんなのやってみないとわからないから。
6月、僕は新潟まで高速で向かった。

ボードウォークに毎年参加しているいわゆる常連の方々から色々と教えてもらったり、夜ご飯や朝ごはんを食べさせてもらった。

次は僕の番だ。
「僕、うどん職人なんですけど、音楽に合わせてうどん打つんです。ステージでうどん打ちたいので、僕にチャンスをください!」

「俺はうどん好きだけど味にはうるさいぞ。もしうどんが美味かったら考えようか」

何かがかかると普段より緊張も増した。
今回は既存曲ではなく、アンプからリピートするリズム音を鳴らし、それに合わせてうどんを打った。

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知人から借りたギター用のエフェクターで、打撃音にバリエーションを出す最初の実践でもあった。

パフォーマンスは上々、みんな楽しんでくれたようだった。そして味である。持参した寸胴で茹で上げた麺は100%を出し切れていない食感に感じた。なんと言われるだろうかドキドキした。

「うんうん、醤油だけでいけるな、美味いね」

思わずガッツポーズがでた。
味やパフォーマンスだけでなく、挑戦する意志や姿勢に何より感銘を受けたとかなんとか。
僕はフジロックのブースではなくステージでうどんを打てることになった。

日々に鬱屈としている人は、みな心のどこかでわかってるはずだ。
飛び込めば変わることがあると。
飛び込まないと何も変わらないと。

ボードウォークは、僕自身心のどこかでわかっているそれを確信した体験だった。

なんとなくそうだろうと思っている大事なことは、自ら行動し、体験して初めて自分のものになる。血肉になるんだ。

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新潟から東京に戻った僕に知らない人からFBメッセンジャーがきた。

「NHKエンタープライズの○○と申しますが、、」

人生初のNHK取材である。人生デザインU29という番組で、単独ドキュメンタリーでなんと25分小野ウどん!!
歓喜!テレビに出るよ!
親にも生存報告でき、舞い上がった。

メディア対策やらブランディングやらを考えていなくても、がむしゃらにやってれば見る人は見てくれているんだなと感じた。マイノリティへの選択は視野を自然と狭め、前をのみ見、いつしか僕の表面を尖らせていたのかもしれない。
視野は広ければいいってもんじゃない。
むしろ今の人たちは意図的に狭くできるかどうかを問われているんじゃないかと思う。

フジロックの日がやってきた。
いよいよロックの聖地に立つ時がきた。

▼進撃のフジロック編

フジロックフェスは三日間行われる。
僕は最奥のステージで入口から徒歩40分はかかる場所だった。ステンレステーブルや全機材をそこまで手で運ぶのは地獄だと覚悟していたが、車でステージ横までつけて良いとのことで助かる。

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とはいえ苗場の天候は気まぐれ。雨は基本的に突然降り始めるし、足場はぬかるみまくっている。

車から機材を出すのも一苦労だ。
前夜祭から参加、前入りし、お決まりの車中泊。
会場までオフロードをを走らせた。
音響周りの方々がマイクやスピーカーを設置する横でうどんのテーブルを置く僕。

「あ、うどん打つ者です、粉とか機材心配ですが、なるべく撒き散らさないようにしますんで、よろしくお願いします!」

スタッフはみんなとてもいい人達ばかりだった。

残念ながらお客さんに食べさせることは衛生的にできないと言われたが、スタッフや演者には食べさせれるとのことで、ブース周りの水場やらを使わせてもらい茹であげる準備もした。

自分の番以外は自由にしてて良いとのことだったので、好きなアーティストを聴きにいったりできたが、生地作りを同時に行っていたので、たまに車内にうどんを踏みに最奥ステージまで戻ってきたりした。

僕の番がやってきた。
前の人はえらく盛り上がっているようだ。
生地は大丈夫、夏で柔らかめなのは難易度が高いが、その分打ち粉をたくさん振れば何とかなる。あとはいつも通り、お客さんをちゃんと見ながらやるだけだ。

ただ、音に肥えているフジロッカーにちゃんと受け入れてもらえるかの不安は拭えなかった。

ステージから大勢の人がはけていく。
「みなさん、帰るのはまだです!」
大層盛り上がった僕の前に歌ったミュージシャンが去り、機材の転換中。
フジロックのステージで僕は叫んで観客を呼び止めていた。

「これから、、、、、ここで、ステージで、うどんを打ちます!」

!?何人かが振り向いた。遠くで笑っている者もいる。
客はまばらだが確実に何人かの足を止められた。

僕は生地の巻き付いた麺棒をマイクのついたテーブルに打ち鳴らした。

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お客さんはまばらだったがこれ以上待てない
「たった一曲に、魂込めます」
手を上げ、音響の人に合図を出すと音楽が流れ始めた。

バシッ、開始早々にやらかした。
左に置いてある打ち粉入れに麺棒を当て全てひっくり返したのだ。

幸い最初に振ってあったので0ではなかったが、夏の生地はくっつく。
ピンチだった。

音楽は鳴り止まない。
僕は何事もなく音楽に合わせて生地をテーブルに打ち鳴らした。

「UDON IS ROCK!UDON IS ROCK!」

苗場に響き渡るように出来るだけ大きく叫んだ。
僕はいつもより下を向き、夢中で生地を打ち鳴らした。
テーブルの下にある麺切カッターを取り出し、麺棒に巻き付けてあった生地をセット。
一呼吸しあたりを見渡すと、大勢の人がビール片手に体を揺さぶりながら叫んでいた。
さあ切るぞと思ったその時、音楽が途切れてしまった。音響さんのミスだった。

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「まあまあまあ、、繋ぎます。皆さん今日お越しくださりありがとうございます!これから切って参りますが、うどんいずロックということで、叫んで参りますので、是非皆さん続けて叫んでください!」

音楽が復旧した。
緩やかな音楽が転調し、同時に麺切カッターを振り下ろした。

「うどんいずろっく!うどんいずろっく!」

末端にある会場がひと際沸いた。
僕は最高に気持ちよかった。
切り終えた麺を捌き、掲げると同時に音楽が鳴りやんだ。

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一瞬の静寂のあと、拍手が巻き起こった。
音楽を愛するフジロッカーに僕のロックを認めてもらえた気がした。

思えばボードウォークからドタバタで、先のことなんて考えていなかった。考える隙もなかった。でも思えばすぐ動いてきたからここまで来れて、この尊い拍手をいただけたんだと思った。

タイミングは大事だ。チャンスは常に最後と思えばこそ、やるかやらないかという選択において、やらないはあり得ないのだ。

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NY遠征まであと2ヶ月。
長い10日間がはじまる。
下巻NY編へ続く。

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