大林宣彦の映画はファンタジーではない

私が大人になったから、そう思うのか。近頃、大林宣彦の映画を何回も見て、思うのは、ファンタジーではないということだ。

昔、私は小学生だった頃、「水の旅人」を見に行った。というかチケットをもらったから行かざるを得なかった。その時、父は、「大林宣彦はファンタジーが日常に入り込んでいるから嫌いだ」と言った。その頃から、私は父の前で大林宣彦作品にハマりにハマっていることを言えずにいる、未だに。

しかし、本当に最近思うのは、「ファンタジー映画なんかじゃない、現代詩にとても近い文学的な映像作品」だということ。



つまり、大林宣彦の「比喩表現」が、世間的にはファンタジーに見えるのだろうということ。

「ふたり」は、妹の頭の中に死んだ姉がもし自分と同じ目にあったらどうするかを想像している様子を映画的に表した作品である。同じような形式で「異人たちとの夏」は浅草の街が、主人公の頭の中を代弁している。

「水の旅人」は水を汚染しているがために歪みの現れた世界の縮図として衰弱した一寸法師。

「はるか、ノスタルジィ 」は、過去を思い出したくない自分との葛藤。

「転校生」は、なかなか解釈が難しいが、感情移入の真骨頂のような?ちょっと難しいな、これは、またあとで考える。

のように、ともすれば、なんてことない多分日常と呼べるものを、映画的に、文学的に、詩的にすると、このような突拍子もない設定になり、その世界がファンタジーに見える。現代詩では、よくAという現象を、全く関係ない、例えば海の波に例える比喩表現をよくすると思う、かなり分かりにくい暗喩だと、読み手には、Aという現象について語っているとは気づけないほどのこともある。まるで海の波について語っていると文面通り受け取り、なんだつまらん、とか意味不明だとか、いう感想を持ち毛嫌いすることもあろう。

大林映画は、なんかそれに近い気がするのだ。だから、本当よくわからない、不思議な変な、ファンタジー映画だという世間の評価が多いと思う。私が父から言われたことばのように。

やっと、この2020年に、私は、大林宣彦の映画は、暗喩なんだと気付いた。

ほとんど、原作が大林本人以外の作品ばかりであるが、その共通点に今気づいた時に、原作がないオリジナルの「海辺の映画館」で大林宣彦がやりたかったことが少しは理解できたのではないかと、偉そうに考えている。

「海辺の映画館」は、ファンタジーではない、真剣に映画を見て、映画と対話し、映画を考え抜いた2019年の青年3人組の話だ。映画館から出てきた彼らが賢くなったように、私はまだまだ大林宣彦作品を見て、賢くなりたいと思う。まだまだ、これじゃない解釈が数年後には出来る気がする。

父にはまだ、ファンタジーではないなどと語り出すことはしていない。

父には父の考えがあって、世間一般のありきたりの大林評価をそのまま口走ったわけではないだろう。

本人が覚えているのかは謎であるが。

「海辺の映画館」で、文学的映画の実験?みたいなテロップがあったが、

大林宣彦は、昔からすでにそれはなさっていたと私は思っています。

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