「信頼」は自分と相手と世界へのリスペクト表明
借りた本を返却するために図書館へ向かっているときのこと。
近くのバス停を通りがかかったとき、大きなバックパックを背負った二人の外国人が困っている様子が目に入ってきました。
その不安げな表情を見たら身体が勝手に彼らに向かって歩き出して話しかけていました。
「May I help you? Are there any problems?」
(何かありましたか?大丈夫ですか?)
ためらいなくこんな行動に出た自分にちょっと驚いてしまいました。
前回の記事でも書いたのですが、最近〝恥ずかしい〟という感覚がなくなってきて、下手な発音で相手に笑われようが言葉が通じなくて残念な結果になろうが、それが問題にならなくなってしまったのです。
余計なマインドに邪魔されず、迷いや躊躇いがないそのスムーズな選択と行動を体感して、今までとは違う自分があらわれ始めていることを実感したのでした。
「I don’t know which bus we should take…」
(どっちのバスに乗ったら良いのか分からなくて…)
こちらの問いにそう返事をしてくれると、そこには島内の一部エリアを循環するコミュニティバスが二台停まっていました。
「What is your destination ?」
(行き先はどこですか?)
スマホの画面を指さしながら海外版の経路検索エンジンの結果を見せてくれると、そこにはKobe-Sannomiya(神戸三ノ宮)と表示されています。
「These are local buses, so they don’t take you to Kobe-Sannomiya.」
(この二つのバスはコミュニティバスなので神戸三ノ宮には行かないです。)
「The highway bus will arrive here in ten minutes. It is much bigger than these buses, so you can’t miss it.」
(高速バスは10分後に来ます。このコミュニティバスよりずっと大きいのですぐに分かるはずです。)
そう伝えるとホッとした表情に変わって、「OK! Thank you!」とにっこり。
わたしもホッと一安心して思わず笑顔になったのでした。
彼らはバックパッカーとして2ヶ月のあいだ日本での旅を楽しんでいること、淡路島には3日間滞在したこと、洲本城からの景色が素晴らしかったことなどを嬉しそうに話してくれました。
そして、淡路島のコミュニティバスではいちいちお金を払わずにプリペイドカード一枚で乗れるところが便利で感動したことを、そのカードを見せながら興奮気味に教えてくれたのでした。
それからしばらく会話を楽しんで、最後に「Have a nice day!」とお互いに挨拶を交わしてお別れ。
彼らを見た時に湧いてきたあの自然な想いの発露のままに話しかけてみてよかった!と心底思いました。
言葉が通じなくて面倒なことや大変なことになんて全然ならなかったし、むしろ言葉を超えたもっと深いところのコミュニケーションを共有できる喜びに触れられて幸福感でいっぱいに。
なんだか人種や国籍を越えた兄弟姉妹愛のようなものを感じて元気になったのでした。
そんな明るいきもちで家路をてくてく歩いていると、あ!あれを伝えればよかった!と思うことが浮かんできました。
プリペイドカードでコミュニティバスに乗れることが便利だと喜んでいたけれど、それは高速バスでは使えないもの。
現金払いかICカードの二択しかなく、現金で支払う時は乗車時にチケットを受け取らないといけないのです。
ああ、なんであの時機転を利かせてそれを伝えることが出来なかったのだろう!と悔やまれます。
高速バスの運転手は当たりはずれの差が大きく、不機嫌な運転手に当たった場合は文句や嫌味を言われたり、冷酷な対応をされることもしばしば。
わたしがちゃんと伝えなかったせいで、運転手から不当な扱いを受けたりトラブルになったらどうしよう…。
自責の念と悪い想像がみるみる心と頭を占領していきます。
それはまるで子どもに悪いことがあったらどうしようと過剰に心配するような親のようなきもち。
すると、心を覆った暗雲に切れ間ができて光が差し込んできたかのように、全てを信頼する〝大丈夫〟というきもちがパアーっと広がってくるのを感じました。
万が一そんなトラブルに彼らが見舞われたとしても大丈夫。
彼らは子どもじゃないし、旅を続けている勇敢なバックパッカーだもの。
これまでもきっと色々な困難を乗り越えてきただろうから、彼らにとってそれは問題にはならないはず。
旅の宝物は良いものも悪いものも全部含めて素晴らしい思い出そのもの。
詐欺に遭ったりスリに遭ったりした人が、それを思い出話として楽しそうに話す人だっているくらいだし。
どんな体験も旅をかたちづくる純粋なひとかけら。
だからバスの運転手とトラブルになったとしても大丈夫。
彼らが嫌な想いをしたとしても大丈夫。
何があっても大丈夫。
そんなことで彼らの旅が疵(きず)ついたりはしないから。
以前のわたしであれば、不安でずっと相手を案じ続けたはず。
そしていつまでも自分の至らなさを責めていたはず。
でも、いまは心配ではなく信頼が勝つようになっていました。
よくよく考えてみると、心配は相手が無力な存在で、自分より下のように感じるからこそ起きてくるもの。
一方、信頼は相手には乗り越えたり解決したりできる力があると分かっていて、そんな相手へのリスペクトを土台にして在るもの。
そんな心がいつの間にか育まれていたことに嬉しくなりました。
この変化に気づいたとき、これって自分を信頼できるようになった顕れなんだろうなと思ったんです。
わたし自身に何があってもその価値は変わらない。
わたしの人生に何があってもその価値は変わらない。
汚れもしないし、疵つきもしないし、壊れもしないし、無くなりもしない。
良いことも悪いことも純粋な体験としてただそこにあるだけ。
だからどちらも同じ価値として扱える。
良い・悪いという二元的な物の見方や感じ方がずいぶん薄れて、それらを超えた安らかな心地で人生という山あり谷ありの旅路を眺められるようになってきたようです。
自分も相手も世界も信頼して、委ねて任せてのんびり。
今までは無かったこんな感覚が身近になってきたことを知れたありがたい体験となったのでした。