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海が見たい【エッセイ】

 数週間前から感じていた「海が見たい」を解消するため、電車に乗り込んだ。
 12月1日、夜勤明け。突然冬の気候になった東京は、冷えた曇天から霧雨が降り注いでいる。不思議なことに眠気は感じない。海が見たい、海が見たい、とぶつぶつ繰り返しながら、幼少期に毎年遊びに行っていた海岸までの交通経路を検索する。

 なんとなく鈍行を選ぶ。新宿から小田原へ、乗り換えて熱海へ。車窓に海が広がった瞬間、海だ、と思う。もうここで降りようかと迷いながら、でもやっぱり、と思い直す。
 向かいの席に座っている青年が「潮騒」を読んでいる。「究極のプラトニックラブ」と書かれた帯、青いスニーカー。

 「海が見たい」というのは、ひとつの感情だと思う。嬉しい、寂しい、楽しい、悲しい、というような感情のうちのひとつに「海が見たい」というのがあるような感覚。「甘いものが食べたい」と通じるものがあるような気がするので感情というよりは衝動なのかもしれないけれど、いずれにせよそれは海を見ることでしか解消できない何かだ。

 三島で乗り換える。車窓に富士山みたいな山が見えて、富士山っぽい山だなあと思っているうちに富士駅に停車。
 やっぱり富士山だったんだなあ、と思いながら延々続く廃工場のような建物越しに富士山を眺める。そのうちにかの山は見えなくなる。

 静岡駅で下車する。約4時間座っていたせいで腰が痛い。おまけに空腹である。駅に隣接した商業施設のレストランフロアを彷徨い、浜松餃子の店に入る。三人前の餃子をビールで流し込み、ふわふわした頭でバスターミナルへ向かう。

 発車してしばらく経ってから、逆方向のバスに乗っていることに気がつく。慌てて降車し、反対車線のバス停へ向かう。次のバスまで30分ほど時間があるのを確認して、近くにあったコンビニへ入る。
 自動ドアが開くと目の前に青果コーナーがあり面食らう。まるでスーパーのような野菜の品揃え。進化系セブンイレブン、と思ったあとに、いや進化ではないかと思い直す。缶チューハイを二本買ってバス停へ戻る。

 ようやく正しい路線に乗ったころには夕刻である。陽が沈むまでに間に合うだろうか。「走れメロス」を思い出す。日没までには、まだ間がある。



「M子さんあのね、私、今日で最後なんです」

 迷った末にそう切り出すと、M子さんは眉根を寄せて少し俯いた。

「今までありがとうございました」

 曖昧に頷く彼女の左手をぎゅっと握り、空いた手で腰を支えながらゆっくり歩く。

「私がいなくなっても、お風呂とうがい頑張ってくださいね。せっかく上手になったんだから」

 M子さんは再び、ぼんやりした表情で微かに頷く。

「風邪ひかないように気をつけて、お元気でいてくださいね」

 送迎車の手前まで来たところで、M子さんが顔を上げる。

「小野木さん、また来る? 水曜日、来る?」

 思わず笑ってから、私は首を横に振る。

「次の水曜日は来ませんよ。また今度会いに来ますね」

 M子さんが、うん、と頷いたのを確認して、送迎車に乗り込むのを手伝う。

 いつもより熱心に手を振ってくれるM子さんが見えなくなるまで、M子さんの乗った車が見えなくなるまで、私は手を振り続けた。降りはじめた霧雨が眼鏡を曇らせる。



「もう着きましたよ」
 
 肩を叩かれて目が覚める。慌てて姿勢を正すと、呆れたように笑っている乗客の女性と目が合った。

「すみません、ありがとうございます」

 コンビニの袋をガサガサ鳴らしながら、急いでバスを降りる。目的地である終着点は、住宅街の中だった。迫る夕闇の中、記憶を頼りに海を目指す。
 細い路地を早足で歩くうちに、見覚えのある道にぶつかった。波の音が聞こえる。ほとんど小走りになって先を急ぐ。風避けのために植えられたのだろう、背の高い樹が黒い影になって並んでいる。子どもの頃、毎年夏になると遊びに来ていたプールが廃墟のようになっているのを横目に進むと、その先に堤防が見えた。
 深呼吸して階段を上る。堤防の上に立つ。

 海だ。

 日没までには、ぎりぎり間に合った。海だ、海だ、のリズムで、波打ち際に向かってずんずん歩く。
 薄暗い海岸には誰もいない。大量の流木を避けたり踏んだりしながら打ち寄せる波の先端にたどり着く。

 遊泳禁止の砂浜には波消しの巨大なコンクリートブロックが積み上げられている。辺りを見回して本当に誰もいないことを確認し、ブロックによじ登った。
 打ち寄せてはブロックにぶつかり弾ける波を、上から眺める。頭上には半月。今にも消えそうな夕陽。
 ブロックの上に腰を下ろし、海面を眺める。

 海は水だ。ものすごくたくさんの水がうねうねうごめいていて、少し沖のほうに目をやれば水面がゼリーのように光りながらうねっているように見える。水中の様子は全く見えない。水だけど水じゃない、意志を持った生き物のようなそれが押し寄せて砕け散り引いて行ったと思えばまた押し寄せる。永遠に止まらない波の動きを放心して見つめる。

 怖い。巨大なうねりに引きずり込まれてしまいそうですごく怖い。それなのに目を離せない。恐怖にぞわぞわしながら、それでもずっと見ていたいと思う。海を見るたび感じる不思議な恐怖を今日も感じながら、私はブロックの上に座り続ける。

 積み上げられたブロックの隙間に流れ込む波の立てる音は、ずっと聞いているうちに話し声のように思えてくる。人間ではない何かの気配。
 夕陽の名残は消えて、海岸は薄闇に包まれている。徐々に濃くなる海面の黒、そこへ反射する艶々とした光り、絶え間なく砕ける波の音。ぼうっと座り込んでいる私の存在そのものが、海に溶け込んで吸い込まれていくような心地がする。


 ブロックに座って放心している間に、小一時間が過ぎている。この小一時間で、私の心は海に吸い込まれて飛沫と散った。
「海が見たい」がすっかり解消された身体は軽くなり、すうすうと風がよく通る。心地の良い風を感じながらブロックから下りて、飛沫と散った別れに背を向けた。

 ひんやりすうすう、さようなら。

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おのぎのあ
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