ウチに向かうもその先は
宣伝のこと、次に向かうべき道、考えることは山ほどあるわけで。
そうやって色々と考えていたら、某国際映画祭からメールが届く。
コンペティションに選ばれたとの報せ。
また一つローレルが増えた。
海外で上映されるかどうかは更に選考があるようでまだわからないけれど、反省している最中なのに、わわっと声が出た。
この映画はそういうところがある。
前を向くために真正面から考え直しているのに、より強く勇気をもらえるような報せがそんなタイミングでいつも舞い込む。
嬉しさで反省なんか忘れてしまいそうだ。
いつ頃からだろうか?十代の女の子が自分を「ウチ」と呼ぶようになった。
それは僕にとっては少しだけ驚くことだった。それを初めて聞いてから随分経つからさすがにもうどこか慣れているけれど、初めての頃はそれはとても重要なことのように思えた。
「ウチ」という言葉自体は僕が子供の頃からあった。ただしそれは自分自身をさす言葉ではなくて、自分の家や家族を意味する言葉だった。いや、もう少し広い範囲でも使っていたように思う。例えば自分の通っている学校全体を「ウチ」と呼ぶこともあったし、自分の住む地域を「ウチ」と呼ぶこともあったはずだ。
ウチとソトという概念は日本人の無意識レベルまで根付いている。
ある意味で排他的であるし、同時にそんな単純なものではなくて、境界線に哲学的な意味を含ませる。結界や結婚のような言葉に「結ぶ」という文字が入るように「ウチ」に入るには結びの儀式が必要になるわけで、子供の頃から指切りげんまんだとか、様々な結びの儀式を体験して大人になっていく。そうやって気付けばウチとソトの概念が形成されていく。
その「ウチ」が社会的集団ではなくて個人にまで輪が小さくなっていることに衝撃を受けた。共同体がすでに崩壊しているイメージを受けた。個がウチなのだとすれば、ソトは世界そのものになるからだ。
子供が自分を「ウチ」と呼ぶということは無意識的にそういう社会になったのだと僕は理解した。家族でさえ立ち入れない場所を個が持つようになった。
方言ではなく職業言葉でもなくそれは全国的に起きたことだ。
もちろんそれは悪いことではない。変容したことをただ理解した。
ウチとソトの概念を映画『演者』はこれでもかと詰め込んでいる。
家の中から撮影する外と、外から撮影する家は別の意味を持つようにしていたり、結婚式という結びの儀式があったり、他にも曲線と直線でそれを表現したり、襖という境界線に意味を持たせたりしている。
結果的に出来上がった作品は、ソトに拡がる作品というよりも、ウチに潜っていくような作品になっていると僕は思っている。
そう書くとなんというか狭く小さく感じるかもしれないけれど、ベクトルがソトに向かおうと、ウチに向かおうと、無限に続いていくのだと僕は思っているから、逆を言えばウチに潜っていくという作風はどこまでもどこまでも続いていくような感覚さえある。日本の地域の村の一角の家の個人の心の中のと、どんどん深く潜っていける。少し観念的なイメージになりそうだけれど、それは誰にでもあるものだ。
この「ウチ」に向かっているということが、閉じているイメージになるとしたらそれはあまり良くないことだと思う。ある意味で「ソト」に向かうことの方がかえって閉じていくこともあるのだというパラドクスをどう言葉にすればいいだろう。
僕は「ソト」にベクトルを持てない人が世の中にたくさん存在していると感じている。十代二十代の自死の数は毎年増え続けている。部屋の中に閉じ籠ったまま数十年という人も増え続けている。ネットやゲームや創作物の中に埋没したまま社会性を持てない人だってたくさんいる。ましてやネットの中にはヴァーチャルな世界が構築されつつある。それを社会は「閉じている」と評価する場面が余りにも多い。でもそうだろうか?と思う。
僕たちは「自分」という檻から出ることはどうやったって出来ない。だとすればソトに向かおうがウチに向かおうが同じじゃないかと思うよ。
個が「ウチ」となった時代、真剣にウチに向き合わないといけないと感じている。そんなに簡単なことじゃないけれど。
「フェイク」と「ヴァーチャル」の違いをうまく説明できるだろうか。
嘘と仮想なわけだけれど。
あるいは「フィクション」と「バーチャル」でもいい。
そうだな。「リアリティ」と「リアリズム」でも面白いかもしれない。
説明出来る人も出来ない人もいると思う。
でもそれを考えていくと「リアル」の位置がどんどん変わることに気付く。
あれ?じゃあリアルって何だよ?ってことになる。
僕はそれをウチに向かうベクトルで探せるんじゃないかと思った。
まるでお釈迦様みたいだ。
映画は興行だから、外に向かわなくてはいけない。
色々な人に知ってもらわなくては成立しない。
ウチに向かいながら、ソトにどう向き合うかというテーマがあるということだ。
これは難解だぞ、と僕の直感が言う。
一人でも多くの人に伝えたいと思いながら、たった一人と出会いたいと感じる僕の本能。
けれど、そんなに間違っちゃいないはずだと感じてもいる。
どこかに答えがあるはずだ。
呆れるでしょ?
そんな風にどこまでどこまで考えるんだろうっていう沼にはまる。
まぁ、はまっているように見えないほどあっけらかんとなんだけど。
う~~んとか言いながら、堂々巡り。
答えなんかねえぞーってなる時間帯もあるしさ。
いや、なんかあるぞ、そこになんかがあるぞという時間帯もある。
漠然と大きな塊がゆっくりと動いているようなイメージを持っている時もある。
僕の頭の中で。ウチで。
そんな時にソトから報せが届くんだよ。
いつもいつも。
なんでなんだろうなぁ。
意味なんかないんだよ。偶然。
あるいはウチに潜っているからこそ敏感にそう感じてるだけ。
でも、報せはもう一度、僕をリセットする。
案外、ソトの無限遠点とウチの無限遠点は繋がっているんじゃないだろうか。そんなイメージがある。
僕がウチに向かうとソトから報せが届く。
面白い現象だ。
まるでメビウスだ。
なんか誰か見てるんじゃねぇの?
きちんと省みてさ。
考えようと思っていたのにさ。
僕はまたしても勇気をもらってさ。
まぁ、馬鹿みたいに企みはじめてしまうんだよ。
困ったもんだ。
映画『演者』
企画 監督 脚本 小野寺隆一
音楽 吉田トオル
「ほんとう」はどちらなんですか?
◆終映◆
2023年3月25日(土)~31日(金)
K'sシネマ (東京・新宿)
2023年4月15日(土)16日(日)
シアターセブン(大阪・十三)
2023年4月15日(土)18日(火)21日(金)
名古屋シネマテーク(愛知・名古屋今池)
出演
藤井菜魚子/河原幸子/広田あきほ
中野圭/織田稚成/金子透
安藤聖/樋口真衣
大多和麦/西本早輝/小野寺隆一
撮影 橋本篤志 照明 鈴木馨悟 録音 高島良太
題字 豊田利晃 絵画 宮大也
スチール 砂田耕希 制作応援 素材提供 佐久間孝
製作・宣伝・配給 うずめき
【あらすじ】
昭和20年春、終戦直前のとある村。嶋田家に嫁いだ3人の女たち。
血の繋がらない義理の三姉妹は男たちが戦時不在の家を守り続けている。
家長であるはずの長男の嫁、智恵は気を病んでいた。
三男の嫁、恵美は義姉を気遣う日々を送っている。
次男の嫁、陽子は智恵がおかしくなったふりをしているのではと疑っていた。
やがて魔物が再び女たちの前に現れる。
世界は反転して、演技は見抜かれる。