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「エコロジー・リーディング」と名づけてみる no.5〜「心」に着目して〜

山本貴光氏の「文学のエコロジー」(講談社 2023年)にヒントを得て、文学の授業実践「エコロジー・リーディング」の開発について考えている。2025年2月1日(土)にKOGANEI授業セミナーにて、「海の命」を使ってその実践を試みる。
※申し込みは以下のページからどうぞ!

今回は、「文学のエコロジー」の第Ⅳ部「心」について、文学の授業実践に関わりそうな部分について感想をまとめる。
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第Ⅳ部「心」 

「心」という見えないものの描き方/心の連鎖反応/関係という捉えがたいもの/思い浮かぶこと/思い浮かべることの間で/「気」は千変万化する/「気」は万物をめぐる/文学全体を覆う「心」/小説の登場人物に聞いてみた

「記憶」への着目

第Ⅳ部では、「心」のシミュレーションが試みられる。考察のためのサンプルとして、古典であるホメロスによる叙事詩「イリアス」や、「心」に関わる記述が比較的少ないアーネスト・ヘミングウェイの「老人と海」について言及される。
もっとも「心」という不確実なもののシミュレーションが困難であることは、本章において山本氏が何度か漏らしている。ただそれでもシミュレーションという方法を用いることで、この難題についても挑もうとする点が本書のユニークなところである。(P.268では、コンピュータゲームを経験している私たちは、別の存在になることについて、以前よりも身近に感じられるかもしれない、という記述も見られる)
山本氏は、シミュレーションが「あらかじめ決めておかれた一本道を辿るのではなく、その場を構成する諸要素に対して設定された規則を適用してゆく、ということを繰り返していくうちに、多様な状態が生成されることが期待される」(p.250)という生成様式であることに立ち戻り、人物の能力や技能、知識に関するパラメータを設定することで、人物の「心」をシミュレーションできないかと考える。
そして考えた結果、この方法だと決定的に欠けるものとして「人物の記憶の要素」があることに気がつく。人物同士の関係は、記憶が共有されているからこそ成り立つのだという。記憶が共有されるということは、それに基づく認識も共有されるからである。
逆に言えば、記憶を共有しない者どうしでは、認識がすれ違い、別々の世界を見ていることになる。
これは教室で考える分かりやすい。子供たちは別々の環境で育ってきているので、教室は「複数の世界の見方(認識)が重なったりすれ違ったりする」(p.274)場所である。ただその一方で、同じ学級で生活することで、記憶を共有している側面もある。特に学習では、共に学んできたことで生み出される共有された認識もあるだろう。その意味で教室は、複数性と単一性が交差する場所だ。授業という営みは、良くも悪くもこの教室というトポスの特性を取り入れて展開される。
文学の授業においては、人物の「心情」は主題化されてきたが、人物の「記憶」はそれには至らない。なぜなら人物の「記憶」のほとんどは、文章には書かれていないからである。しかし、認識が記憶に影響されることを踏まえれば、人物の「記憶」を主題化することもやぶさかではないだろう。人物の「記憶」、つまりその人物の歴史を考えることは、このようにして文学の授業に迎え入れられるのではないだろうか。

文芸作品における「心」

第Ⅰ部「方法」で引用された夏目漱石の文学的内容の形式に立ち戻れば、それは「認識」と「感情」の和で示された。山本氏は、「心」をシミュレーションするために、この2つの因数に着目することも試みる。
大きく見れば、文芸作品の記述は、「認識」に関するもの(視覚、聴覚、嗅覚、触覚等を含む)と、「感情」に関するものに分けられそうである。
そして「心」というものが、文芸作品において「認識」や「感情」によって示されていると考えれば、「心」とは文芸作品を覆うものとなる。しかもその文芸作品が、作者が語り手を通して語っていることを踏まえれば、文芸作品には作者、語り手、登場人物の三層にわたって「心」が働いていることになる。
この点は、文学の授業実践において積極的に「語り手」概念を導入しようとする近年の動きと重なるものとして理解できる。小学生がどこまで「語り手」概念を理解できるか、という反論は見られるが、文芸作品のエコロジーを考える上で、語り手の存在は無視できないだろう。
山本氏はこれらの考察を終えて、具体的に「心」をシミュレーションするために「おしゃべり」に着目する。これは日進月歩の勢いで進化する生成AI(ここではChatGPT)を使用して、人間の「心」を眺めてみようという試みである。ChatGPTは「心」はもっていない。しかし、まるで「心」があるかのように言語生成を行う。生成の方法は、大規模言語モデルを用いて、次にきそうな語を予想しているだけであるはずなのに、まるで人間のように「おしゃべり」することができてしまう。
山本氏はChatGPTに「老人と海」に登場するサンチャゴになり切るようプロンプトを出し、会話を試みる。ChatGPTは「老人と海」のエコロジーを理解しているかのように、会話をすることができている。しかし、山本氏は、ChatGPTに決定的に足りていないものとして次の2つを挙げる(p.364)。
1つ目は「人間としての有限性」である。サンチャゴになり切っているはずのChatGPTだったが、会話を続けていくと、本当のサンチャゴなら言いそうにもない知識を話し始める。それは作品世界と、わずかに接してはいるものの、やはりその人物らしい判断とはいえないものだった。
2つ目は「相手に関する関心」だ。ChatGPTが問いかけてくることもあるが、それは統語論的な処理の上に生まれた問いかけにすぎない。テキスト空間だけのやりとりに終始するChatGPTは、根本的に利用者への関心をもつことはできない。これはChatGPTの過失ということではなく、そもそもそういうふうに設計されているのだから、こうした批判は不当である。
裏を返せば、「心」をもつ人間は思考や行動に有限性があり、そして他者への関心をもつ特性があるといえる。「心」をシミュレーションするとき、この「有限性」や「関心」に着目することは1つのヒントかもしれない。
文学の授業で言えば、心情を考えるのに、登場人物が選択し得る言動とは、記述されたもの以外も考えられるかもしれないが、その範囲は無限ではない。その人物に、自分たちと同じように「心」があると考えるとき、やはり登場人物にも自分たちと同じような有限性を与えてしまう。そしてまた、登場人物が関心をもつものに、その人物の「心」をみることもよくあることである。外から見ればやめとけばいいのに、というようなことを、文芸作品の登場人物たちはやってみせる。そのような関心をもつ人物は魅力的であったりもする。
しかしよく考えると、登場人物とは作者によって造形された虚構の存在だと考えると、その存在が「心」をもっているかどうかは、自明ではないようにも思われる。文学の授業において、心情を問うことはごく一般的な作法となっているが、そもそも登場人物は「心」をもっているのだろうか。ここまで検討を振り返れば、それはあくまで読者が投影したい「心」に過ぎないのかもしれない。

今日はここまで。次回は第Ⅴ部「文学のエコロジー」を読んでいく。


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