「エコロジー・リーディング」と名づけてみる no.4〜「時間」に着目して〜
山本貴光氏の「文学のエコロジー」(講談社 2023年)にヒントを得て、文学の授業実践「エコロジー・リーディング」の開発について考えている。2025年2月1日(土)にKOGANEI授業セミナーにて、「海の命」を使ってその実践を試みる。
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今回は、「文学のエコロジー」の第Ⅲ部「時間」について、文学の授業実践に関わりそうな部分について感想をまとめる。
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第Ⅲ部「時間」
文芸と意識に流れる時間/二時間を八分で読むとき、なにが起きているのか/いまが紀元八〇万二七〇一年と知る方法
第Ⅲ部では、文芸作品に関わる「時間」について、「作品世界に流れる時間」「読み手が経験する時間」「シミュレーションの時間」の3つを対象として考察がなされる。
松尾芭蕉の「古池や…」の句と、H・Gウェルズの「タイムマシン」が事例として引かれるが、ここでは松尾芭蕉の句に注目したい。
作品世界に流れる時間
「古池や 蛙飛こむ 水のをと」
作品世界に流れる時間を検討するために、山本氏はこの句の言葉に流れる時間に着目する。
例えば「古池」はそれなりの時間をもつ池と考えられる。一体いつからある池なのか。古池なのだから、最近というわけではなさそうである。このことは、句中に記されていない以上、考えて正解にたどり着くものではない。しかし、かといってこの想に価値がないかというと、そんなことはないだろうというのが私の立場であり、エコロジー・リーディングの立場でもある。
一般的な文学の授業では、考えてもわからないこと(≒書かれていないこと)は授業に持ち込まないというのがセオリーである。もちろんそういうこともあるだろうが、この「古池」の例のような場合は、考えてみてもいいのではないかと感じる。
仮に「古池」に流れる時間を見落とした場合、この句に流れる時間は、蛙が飛び込むわずかな時間だけとなる。それに対して、「古池」に流れる時間に気がつくことで、この句がもつ時間的広がりは一気に拡大する。それなりの時間を生きてきた池に今、蛙という小さな生き物が飛び込んだ。古池の水平的な時間軸に、蛙の垂直的な運動が交差し、水音が波紋とともに広がる。わずか17音でこれだけの広がりを想起させるのである。
つまり、言葉に流れる時間とは、言葉と時間のエコロジーを考えることである。言葉は時間を携えている。「蛙」であっても、生まれたばかりの蛙と読むか、年老いた蛙と読むかで、「蛙」に流れる時間は変わる。「飛こむ」は動詞であるが、どのように飛び込んだかを考えることは、携えている時間を読むことになる。「水のをと」も同様だ。時間とのエコロジーを考えることは、言葉が指し示す存在や行為に瑞々しい実感を与えることになる。この「瑞々しい実感」を子供たちにもたせることが、エコロジー・リーディングのポイントと言えるかもしれない。
「読み手が経験する時間」と「シミュレーションの時間」
さて、芭蕉の「古池や…」の句中に流れる時間について考えたところだが、ではそれを読む読み手が経験する時間といえば、17音を読む時間なので、数秒の可能性もある。もちろん熟考することでもっと長くなることもあるが、それでも「古池」がもつ時間には届かないと思われる。これは単純な話で、作品世界では「一年後」と書けば、1年の時間が経過したことになるが、読み手にとっては1秒程の経験に過ぎない。作品世界の時間に対して、読み手が経験する時間は相対的に少量である。このことは当たり前ではあるが、しかしこの不均等ゆえに作品世界の時間を計量し損ねることは珍しいことではない(特に小学生では)。エコロジー・リーディングにおいては、相対的に少量として経験される読み手時間に誤魔化されずに、作品世界の時間を見つめることが必要であろう。
その実践こそが「シミュレーションの時間」となる。山本氏は、具体的にコンピュータでシミュレーションすることを検討しているが、文学の授業におけるシミュレーションとは、作品世界→意識内世界と渡ってきたイメージを、協働的に重ね合わせていくことと言えるかもしれない。コンピュータによるシミュレーションが、多様な条件下におけるモデルの試行であることを思い起こせば、文学の授業におけるシミュレーションとは、他者とともに、造形されたイメージをある状況下において動かしていくことと表せないだろうか。
今日はここまで。次回は第Ⅳ部「心」を読んでいく。