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「エコロジー・リーディング」と名づけてみる no.6〜「文学のエコロジー」に着目して〜

山本貴光氏の「文学のエコロジー」(講談社 2023年)にヒントを得て、文学の授業実践「エコロジー・リーディング」の開発について考えている。2025年2月1日(土)にKOGANEI授業セミナーにて、「海の命」を使ってその実践を試みる。
※申し込みは以下のページからどうぞ!

今回は、「文学のエコロジー」の第Ⅴ部「文学のエコロジー」について、文学の授業実践に関わりそうな部分について感想をまとめる。
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第Ⅴ部「文学のエコロジー」 

文学作品は何をしているのか/エピローグ

第Ⅴ部では、これまでの議論を振り返り、文芸作品のエコロジーについて、作品やコンピュータシミュレーション、読者、言語との関わりにおいての考察が行われる。

文芸作品は私たちに何をもたらすのか

山本氏は、これまでの議論をもとに作品内世界を次のように定式化する。

作品内世界=表現された作品内世界+省略された作品内世界

p.372

この定式化をもとにコンピュータによるシミュレーションを考えると、「省略された作品内世界」の大きさが分かってくることは、これまでにも述べられた。
加えて、その作品内世界は言語によって成立しているため、その記述は「認識」や「感情」として読み取られる。これは生成AIによる言語生成であっても、同様である。そこから山本氏は、文芸作品を次にように捉え返す。

文学作品に記される作品内世界は、登場人物の認識と感情も含めて、そのように言葉を選んで配列したなにものかの認識と感情の表れ絵ある。そうした文学作品には、すべてを書き尽くせない以上、なにかを選んで記し、その他のすべてを省略することも含めて、ある世界の見方が示されている。

p.380

そしてそのような言語による選択的記述によって作り出された文芸作品に読者が出会う時、読者は記述された言語にクリップされた記憶を用い、また省略についても記憶から適宜情報を補いながら、作品内世界を自分の内側に形成していく。そのことを「心脳内作品内世界」という言葉を導入して次のように定式化する。

文学作品+人間⇨表現された作品内世界+読者の記憶⇨心脳内作品内世界

p.385

つまり読者は、「記憶」を資源にして、作品内世界を補完し、心脳内作品内世界を形成していく。
このことが一体私たちに何をもたらすのかのだろうか。山本氏は認知科学的な知見を紹介しつつも、それとは別の「精神を遊ばせる」という視点を提示する。それは「ある条件の下、自分の心身に何が生じるかを試してみる営み」(p.393)という意味である。それは記された作品内世界を「自分の体を使ってシミュレートしているようなもの」だとも言う。ここに本作の到達点があると思われる。読書行為は、外部から見ればごく静かな行為であるが、読者の内部では、極めて身体的かつ動的な行為なのである。シミュレーションとは、コンピュータ行為だけでなく、読書行為にも含意されるのである。

さらに文芸作品のエコロジーを考えるために

山本氏は「エピローグ」において、人間がシミュレーションするために使用する頭の中にある世界のモデルについて検討する。シミュレーションにはモデルが欠かせないためである。この議論を進めるために、山本氏はウォルター・リップマンの「世論」(岩波文庫 1987)より「疑似環境」と言う概念を引用する。
リップマンは人が頭の中でつくる世界像(世界のモデル)を「疑似環境」と名づけている。私たちは、それぞれの経験や知識に基づいてこの「疑似環境」を形成するが、重要なことは、現実の世界よりも、「自分の脳裏にある疑似環境をもとにして、判断や行動をとる」(p.408)という指摘である。したがって、疑似環境に基づいて判断や行動をする以上、疑似環境は現実環境に影響を与えることになる。
リップマンによれば、人間が現実の世界に対して「疑似環境」をつくるのは、現実世界の巨大さや複雑さへの抵抗だという。人間には、この現実世界の全ての実態を捉えることはできない。そこで「人間の身でも扱えるような世界のモデル、疑似環境を頭のなかにこしらえる」(p.409)のである。私たちはこの「疑似環境」を通して、現実世界を単純化し、判断や行動をする。
文芸作品というのもまた、大量の省略をともなった一つの「疑似環境」である。本書において検討されてきたエコロジーとは、この文芸作品の「疑似環境」と同じものだとされる。したがって文学を読むことは、自己の疑似環境と、文芸作品の疑似環境(エコロジー)との接触である。読者は自己の疑似環境を携えながら、文芸作品の疑似環境(エコロジー)という異世界を探索していく。自己の疑似環境と同じものもあれば、違うものへの出会いもある。この探索は、つまるところ、「自分の疑似環境の状態を確認することにもなる」(p.414)。続けて、山本氏は次のように述べる。

自分がどのような疑似環境をもっているかということは、自分だけではなかなか自覚できないものだ。そもそもどのように点検したらよいのかさえ分からない。だが、大きさや規模の大小はあれ、それぞれがなにがしかの世界を描き出している文芸作品に触れるとき、そこに描かれた作品内世界のエコロジーを通じて、私たちは自力では思いもよらないような疑似環境の部分に注意を向けることができる。

p.414

この指摘は、近年の文学不要論に対抗する重要な指摘ではないだろうか。私たちが世界を探索するときに必要な疑似環境の形成や点検に、文学は大いに働きかけている。
このことは文学の授業観にとってもまた、重要である。言葉の力をつけるために文学作品を利用するという言い方もされるが、それとは別の、言葉の力を使って、世界を理解するための素地を養っている、という見方を可能にするからである。しかしここで性急に、近年の資質・能力ベースの教育観と対決すことは望まない。教室に立つ人間として、資質・能力形成の重要性は認識しているからである。したがって、そうした資質・能力ベースの授業観と、こうした文学がもつ力とをいかに包括した授業を提案できるかが重要である。その第一の実践が、来週から始まる「海の命」の実践である。時間はないが、次回はその実践像を検討したい。


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