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「エコロジー・リーディング」実践編〜「海の命」③〜

山本貴光氏の「文学のエコロジー」(講談社 2023年)にヒントを得て、文学の授業実践「エコロジー・リーディング」の開発について考えている。2025年2月1日(土)にKOGANEI授業セミナーにて、「海の命」を使ってその実践を試みる。今回は実践報告③。
※セミナーへの申し込みは以下のページからどうぞ!

※「文学のエコロジー」の感想をまとめたマガジン「エコロジー・リーディング」はこちら↓

問いカードと答えカード

作品のエコロジーを読み、生まれた問いが書き留められるように問いカードを用意した。問いカードはいつ書いても良い。
そして問いカードのうち、自分で答えを出したいと思える問いには答えカードも書く。答えカードを書く。答えカードには、黒板の写真のように、根拠と解釈を書くことを指導した。

子供たちは前時の学習を受けて、問いカードをつくることはそんなに時間がかからなかった。Hさんは時間係で、「時間表現がはっきりしないのはなぜか」という問いを立て、冒頭の「父も、その父も、その先ずっと…」を根拠に考えようとしていた。
一方で、全員がHくんのように問いをつくったわけでもない。例えばYさんも時間係だが、つくった問いは「太一が一年たってから急に瀬にもぐったのはなぜか」である。もちろんこれは自分がつくった年表を見て、「なぜ一年も間があるのだろう」と思い至った点で、時間的な視点から生まれた問いといえる。が、同時に太一の心情にも立ち入る問いであり、その意味では「人物」の視点も含んだ問いである。
Oさんは空間係だった。空間係の話し合いで、太一が出会った瀬の主がどんな場所にいたか、熱っぽく語っていたが、問いは「クエの目の色が変わった理由は何か」である。本単元ではクエは人物として扱っているので、この問いは「人物」の視点から生まれた問いとなる。が、Oさんがクエがいた空間にこだわった結果、この問いが生まれたことを考えると、問い自体は「人物」に分類されるとしても、Oさんの問題意識は途切れたわけではないと捉えたい。

作品のエコロジーを読むと言いながら、結局、問う段階に入ったらエコロジーなんてそっちのけじゃないかと言われそうだが、エコロジーを読む効用は、問いが生まれる前にあるのかもしれない。
私もさんざん行ってきたが、文学の授業で、物語を一読後に感想や問いを集めて、それを分類して単元をつくっていく展開はよく見られる。これは子供が主体的に学んでいるように見える設計だが、実態は必ずしもそう上手くはいかない。
私自身の経験を振り返れば、そもそも一読後に、再読時に耐えられる問いをつくるのは簡単ではない。したがって、改めて考えるほどではない問いが混ざってくる。さらに、単元がうまく流れるようにと、教師が問いを配列することもある。教師によって決められるため、子供が今考えたい問いが最後になることもある。また、配列の途中で、本当は同じではないのに同じ問いとして統合されてしまうこともある。このようなことによって、一読後の問いは、授業にうまく接続されないことがある。
それでは問いは、いつ、つくるのがよいのか。(どうやってつくるか、ではない)

高橋綾・本間直樹「こどものてつがく ケアと幸せのための対話」(大阪大学出版会2018)では、子供たちとの哲学対話の実践から、子供たちが問いをもつ行為について「世界から問われているという感覚を、純粋に楽しんでいる」(p.330)と述べられている。このような受動的な態度は、そもそも人間の生が世界や他人によって結びつけられてしまっていることに拠るという。
この指摘を参照すると、一読後に問いを考える活動では「あなたの問いは何ですか?」と、”教師から”問われて考えている子が少なからずいると思う。”教師から”問われているのと、”世界から”問われているのでは、子供の感覚としてはだいぶ違うのではないだろうか。”教師から”問われても、まだ”世界から”問われていないとき、子供は無理矢理ひねり出すしかない。一方、”教師から”問われずとも、”世界から”問われたら、子供は素直にそれを受容できるのではないか。
作品のエコロジーを読むとは、世界を設計するまなざしであった。記述された物語から、省略された物語世界を読むことであった。作品のエコロジーを読むとき、子供たちのうちに物語”世界”が形成される──どんな時間が流れ、どんな空間が広がり、どんな人物が生きているのか。そうしたエコロジーと結びつけられることによって、子供たちは”世界から”問われているという感覚をもてるのではないだろうか。問いをつくるのは、そんなときの方が良いと思うのだ。

一人一人の問いから、どのように互恵的な学びへと展開するのか

一人一人が考えたい問いをつくって追究するとき、教室では、そんな子供たちを”どう出会わせるのか”という問題が生じる。
ここで子供たちを自由に解放するという選択肢もある。これは理想的だが、残念ながら私の技量では、こうした場合、仲良しグループで集まってしまうことが多い。仲良しグループの方だと話しやすいというのはメリットだが、その話しやすさゆえに問いとは関係ないことまで話してしまうことがある。そもそも問いが全く関係ないのに一緒にいるときは、もはや惰性としか言いようがない。
といって、こちらで全てグルーピングしてしまうのも、何だかなあと思うところである。なので、今回は下の写真のように、時間、空間、人物のゾーンを作って問いのマッピングを試みた。自分の問いの現在地を俯瞰することで、誰と一緒に考えると良さそうなのか、検討することを促してみたのだ。

問いのマッピング

これを見て、「問いが似ている人と話し合った方がいい」と思った子は、それなりにいたようだ。それでもいつものメンバーで集まる子もいたが、いつもは一緒にいないメンバーで話し合う子たちが見られたからである。
また、いつものメンバーのところには行かず、一人で考えている子もいた。この子は前時で、この子なりにかなり深く考えており、マッピングを見てもなお、自力で答えカードを作り上げようとしていた。こうした自律的な姿は、担任としては頼もしい限りである。一昨年の本校の校内研究で「紡ぐ」「解す」という提案があったが、子供たちが(一人を含めた)誰と学ぶのか、自分で判断できるようにしていきたい。

再マッピング

子供たちが考えたい問いを追究していく過程の中で、最初は考えようと思った問いを手放したり、別の問いが浮かんでくるということがあった。考えることで思考が進んでいくのだから、これは当然のことである。当然のことなのに授業では、そうした進歩を受け止められないことがある。私はできればこうした子供たちの変化になるべく寄り添えるように、授業の側が歩み寄っていく必要があると思っている。
そこで、子供たちがある程度答えカードを書き終えたタイミングで、考えた問いをグループ、または個人で出してもらい、それを同じフレームで、私の板書でマッピングした。

さて、いよいよ明日がKOGANEI授業セミナーである。予定では、各自の問いの答えをぶつけ合うところをあてようと思っていたが、子供たちがかなり熟考していた様子をみると、今更話し合っても生産性があまりない感じがする。ここまで考えたことを交流することを子供たちは楽しみにしているのだが、それは前日の今日に済ませて、明日はもう一段、レベルを上げていけないかなあ・・・でも準備が間に合うのかなあ・・・

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