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研究者という生き物とエッセイ

 私はかけだしの研究者として一応ご飯を食べさせていただいている。

 多くの人々からすると、研究者というのは普段関わることのない世界に生きる人々の一人であると思われる。
 つい最近もたまたま飲み屋で遭遇した知り合いに、「どういう研究してるの?」といった内容に関わる話ではなくて、「研究者として働いてて辛かったり苦しかったりする場面って何?」とすこぶる普遍的な質問をされた。 

 「皆さまが思っているような不思議な生活なんかしてなくて、研究者だって普通になんでもない日常をどうにかこうにか生きているだけですよ」
とその時は思ったが、まぁ得体のしれない職業に対して、どこか違う世界に生きてるのではないかと思うのは自然なことだし、興味を持ってもらえるだけでもありがたい。

 ところで私はエッセイと呼ばれるジャンルの書き物を読むことが好きである。

 例えば歌人の穂村弘であれば、歌集だけではなく『世界音痴』や『絶叫委員会』も好んで読んだ。この1年くらいは芸人のヒコロヒーにハマり始めたので、『BRUTUS』の「直感的社会論」とか『かがみよかがみ』の「ヒコロジカルステーション」とかをチェックしている(そのくせ『きれはし』は未読)。
 その一方で、彼らの本業に対する熱心なファンかと問われると全然そんなことはない。歌集が出る度に買うというわけでもないし、ネタ番組を総ざらいして観ているわけでもない。むしろエッセイをより熱心に追っかけている節がある。

 私は、彼らが作り出した作品ももちろん好きだが、それ以上に彼らがそれらを作り出すに至った源にこそ興味がある。私が普段関わることのない世界に生きる人々がなんでもない日常で何を見て、何を聞き、何を考え、何を感じているのか、ということを少しでも知りたい。月並みな言葉で言えば、彼らのフィルターを通した世界が見たいのだ。
 解釈の解像度が高い人であれば、作品からそうした世界を感じ取ったり、読み解いたりすることができるのかもしれない。しかし、残念なことに私にはそうした能力は備わっていない。そんな私でも、エッセイであれば言葉の端々から、彼らの見る世界の一端を感じ取れる(と信じている)。

 だったら研究者だって、と私は思った。そう考えてみると、研究者のエッセイは、割と真正面から科学について語っているイメージがある。湯川秀樹『科学を生きる』とか寺田寅彦『科学者とあたま』とか。彼らがタイトルを付けたわけではないけど、何かマジメだ。

 もっとゆるい、それでいて研究者が日常生活で何を見て、何を聞き、何を考え、何を感じているのか、がわかるものって意外と少ないのではないか。
 と、いうことで、本日から研究者のはしくれである私が、エッセイを書くことを決めました。
 真面目でもないし、キレキレでもない研究者が四苦八苦する日常を書くことで、少しでも得体のしれない職業の代表格である「研究者」という生き物を紹介していければと思っています。


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