憲法観・国家観をめぐる対立
○国家観をめぐる対立
「二重憲法・二重国家体制としての戦後日本」の中で、戦後の日本には、憲法観・国家観について相容れない異なる考え方をもつ人たちが共存していると記述した。
一方は、明治憲法(大日本帝国憲法)のうち、自分たちが改正してもいいと考えている条項のみを改正した憲法が、本来のあるべき日本の憲法であると考えていて、戦後憲法・戦後民主主義体制に否定的な考えをもつ人たち (「 “明治憲法”派」と表記)。
もう一方は、基本的には戦後憲法・戦後民主主義体制に肯定的な考えをもつ人たち。
ただし、戦後憲法体制・戦後民主主義体制に肯定的な考えをもつ人たちは、戦前の国家体制(明治国家・大日本帝国)と戦後の国家体制の関係をどう考えているかによって2つのタイプにわかれる。
1つは、戦前の国家と戦後の国家を連続したものととらえている人たち。明治憲法を大幅に改正した結果、戦後の民主主義体制になったと考えている人たち(「大日本帝国継続派」、あるいは「戦前―戦後連続派」と表記しておく)。
もう1つは、革命によって戦前の国家体制を否定して、あたらしい戦後の民主主義国家が誕生したと考えている人たち(「8月15日革命派」、あるいは「戦前―戦後断絶派」と表記しておく)。
こうした2派のちがいは、アメリカに占領されなかった場合に生じた可能性のある左派・リベラル派陣営の路線対立をあらわしているだろう。
急進派は、革命をおこして大日本帝国の憲法体制を否定して、あらたに国民主権の民主的な憲法・国家体制をつくろうとしただろう。
一方、穏健派は戦前の国家体制は否定せず、大日本帝国憲法を大幅に改正するという過程を通じて、現在と同じような民主国家体制をつくろうとしただろう。
前者は天皇制を廃止して共和制をめざす人たちが多いと思われる。
一方、後者は天皇を君主・国王とみなし立憲君主制をめざす人たちが多いと思われる。
*注記
天皇制廃止派は、皇室そのものを廃止しようとする勢力と、天皇・皇室を宗教的な存在とみなし、政教分離の考えに基づき、天皇・皇室と統治機構とのかかわりを絶ち、宗教組織として皇室は存続させようとする勢力に分かれるだろう。
戦後日本の3つの国家観
1 “明治憲法”派
明治憲法(大日本帝国憲法)のうち、自分たちが改正してもいいと考えている条項のみを改正した憲法が、本来のあるべき日本の憲法であると考えていて、戦後憲法・戦後民主主義体制に否定的な考えをもつ人たち。
2 民主憲法―大日本帝国継続派
戦前の国家体制を否定せず、大日本帝国憲法を大幅に改正するという過程を通じて、現在と同じような憲法・民主国家体制が形成されたと考える人たち、あるいはそのような歴史を歩むのが理想だったと考える人たち。
3 民主憲法―8月15日革命派
革命によって戦前の国家体制を否定して、あたらしい戦後の民主主義国家が誕生したと考えている人たち、あるいはそうなるのが理想だったと考える人たち。
2つめの「民主憲法―大日本帝国継続派」に位置する人たちは、3つめの「民主憲法―8月15日革命派」よりは1つめの「 “明治憲法”派」に共感を覚える人が多いかもしれない。「民主憲法―大日本帝国継続派」が天皇制の存続になによりもの価値をおいた場合、天皇制を廃止する可能性のある「民主憲法―8月15日革命派」よりは、天皇制を存続させようとする「 “明治憲法”派」の方に親近感をもつだろう。
また、1つめの「 “明治憲法”派」で中道寄りにいる人と、2つめの「民主憲法―大日本帝国継続派」で右寄りにいる人が理想とする憲法のあり方は、かなり近いかもしれない。
特に前者のうち、大日本帝国憲法を大幅に改正して現在の憲法とほぼ同じものにしようと考える人は、「民主憲法―大日本帝国継続派」とそれほど大きな違いはみられないかもしれない。
○憲法観をめぐる対立
戦後の憲法は2つの大きな特徴から成り立っている。
1つは、欧米で生まれた民主主義思想や自由主義思想を基にした、欧米の民主主義国家が標準的に備えているだろう価値観。
もう1つは、軍事・防衛問題に関した超理想主義的な価値観。
この2つの価値観に対して、大別すると3つの政治勢力がみられる。
1つめは、欧米民主主義国家が標準的にもっている民主主義思想や自由主義思想に対して否定的な考えをもっている人たち。
戦後憲法の理念や価値観を肯定的に評価している人たちからみれば戦前回帰的な考えをもっている人たち。
彼らの多くは、明治憲法(大日本帝国憲法)のうち、自分たちが改正してもいいと考えている条項のみを改正した憲法が、本来のあるべき日本の憲法であると考えているので、「 “明治憲法”派」と表記しておく。
この立場の人は、憲法9条も改正すべきと考えている人が大部分だろう。
2つめは、憲法9条は改正すべきだが、民主主義思想や自由主義思想に基づいた内容はそのまま残すべきと考えている人たち。「リベラル改憲派」と呼ばれている(あるいはそう自称している)人たち。
3つめは、民主主義思想や自由主義思想に基づいた内容を肯定的に評価するだけでなく、憲法9条に特別な感情をもっている人たちで、9条の改正に強硬に反対している人たち。この立場の人は、「9条護憲派」(あるいは「戦後憲法派」)と表記しておく。
この3つの中でもっとも勢力が弱いのは、2つめの「リベラル改憲派」だろう。政治の世界でもっとも強い力をもっているのは1つめの「 “明治憲法”派」であり、アカデミズムやジャーナリズムの世界では、戦後、左翼やリベラル派が主流派・多数派であったこともあり、3つめの「9条護憲派」が多数派だったかもしれない。
(ただ、90年代後半以降は、ジャーナリズムの世界では左派的言論は退潮し、右派・保守派的言論が隆盛しているようにみえるが。)
結党以来、ごくわずかな期間を除き常に政権与党であり続けた自由民主党は、自主憲法の制定、あるいは現行憲法の改正を主張し続けてきたが、自民党員、自民党の政治家たちの多くが2つめの「リベラル改憲派」であったなら、日本の憲法論議はもう少し実りのあるものになっていたかもしれない。彼らは憲法9条を改正しようとするだけでなく、国民の権利や自由を充分に保障した現行憲法の内容を、戦前回帰的な、国民の権利や自由を弱めたものに改正しようとしているため、多くの国民は憲法改正自体に対して警戒感をもつようになってしまった。
自民党の政治家の多くは、自分たちは選挙で選ばれた国民の代表であるという意識をあまりもっておらず、徳川幕府の政治指導者や、徳川幕府を倒して権力を手にした明治国家の建設者同様、自分たちは統治者側、国民を支配し指導する立場にあるという意識を強くもっていて、統治者の視点にたって憲法を制定(あるいは改正)しようとしているため、彼らの唱える憲法案は国民の多数派の支持はなかなかえられない。
アメリカ占領軍によって、国民の権利や自由を全面的に保障した憲法が制定されたというのに、せっかく認められた自分たちの権利や自由を制限しようとする憲法改正案に賛成する国民は少数派だろう。近代的な理念や価値観をもたない政治家たちが中心となって憲法改正を推し進めようとしても国民の多数派の支持はえられないだろう。
1つめの「“明治憲法“派」に対抗する一番大きな勢力が3つめの「9条護憲派」だったことも、戦後の憲法論議が実りのあるものにならなかったもう1つの要因であろう。
9条フォビア(9条嫌い)たちが蛇蝎のごとく忌み嫌っている憲法9条が、少なからぬ国民に好意的に支持され、人によっては信仰の対象にすらなったのには歴史的な背景・事情があったのだから、そのこと自体を批判してもあまり意味はない。
戦時中に軍隊のおそろしさを骨身に沁みて感じたから、軍隊そして国家による軍事力の行使は絶対悪という思いが身体レベルで身についたのだろう。だが、その反動として軍事・防衛問題に関して現実的な立場から思考するという習慣がなくなってしまったといえる。
「“明治憲法”派」は、民主主義的な理念や価値観はあまりもっていないが、軍事・防衛問題に関しては現実的な思考をしている。「“明治憲法”派」に対抗する左派やリベラル派が、軍事・防衛問題に関して理想論を唱えるだけであり、現実的な政策論争があまり行われないため、結局、与党の立場にいる「“明治憲法”派」の実現しようとする政策が、民主主義的な観点から問題があったとしても、問題を残したまま実施されるという事態が生じている。
特に憲法9条(軍事・防衛問題)に関しては、リベラル改憲派、リベラルホーク(リベラル鷹派)といえる人たちが、戦後憲法の民主主義的な理念や価値観を前提としたうえで、国民にとって一番良い政策を選択しなければいけない。
しかし、戦後の日本では、軍事・防衛問題に関しては現実的な思考をしているが民主主義的な理念や価値観をあまりもっていない「“明治憲法”派」、民主主義的な理念や価値観をもってはいるが、軍事・防衛問題に関しては理想論を唱えるだけの「9条護憲派」、この2つの勢力が政治の世界、思想言論の世界で大きな勢力になっている。
そのために、上述したような民主主義的な理念や価値観を前提としたうえでの現実的な軍事・防衛問題に関した政策論争がほとんどみられない。
○軍事・防衛問題をめぐる対立
軍事・防衛問題、憲法9条に関する問題についても3つの勢力がみられる。
1つめは、憲法9条を無効化させることをなによりもの政治課題としている人たち。憲法9条を無効化・形骸化させるためなら、どのような手段も用いるマキャベリストたち。(「9条無効派」と表記しておく。前述の「 “明治憲法”派」は大半がこの立場だろう。)
2つめと3つめは、前述の「リベラル改憲派」と「9条護憲派」。
2つめの「リベラル改憲派」は、集団的自衛権の行使や自衛隊の海外の武力行使に賛成する点など、軍事・防衛問題に関しては、「“明治憲法”派」や「9条無効派」と似たような考えの人が多い。ただし、彼らは憲法を重視しているので、集団的自衛権の行使や自衛隊の海外での武力行使などは、憲法9条を改正し、憲法上の問題を解決したうえで実施すべきと考えている。「9条無効派」が、自分たちが必要だと考える政策を、憲法を無視して既成事実化する姿勢と大きくことなっている。
前項でも述べたように、「リベラル改憲派」は政治の世界でも言論の世界でも少数派であり、3つの勢力の中ではもっとも力が弱い。
そのため、憲法9条を改正し、そのうえで集団的自衛権を行使しようという動きは実現せず、「9条無効派」が、憲法解釈の変更という大義名分のもと、実際には憲法を無視して集団的自衛権の行使を既成事実化しようとし、それに対して「9条護憲派」が“戦争法反対”というスローガンを掲げて政府批判を繰り広げるという滑稽な事態が生じている。
自衛隊が設立されるまでは、憲法9条は絶対平和主義の理念をあらわしているとみなされていただろう。だが、自衛隊設立後は、「個別的自衛権を行使する軍事力は必要だ」と考える人がふえてきて、自衛隊と憲法9条の問題が重大な政治上・憲法上の争点となった。
おそらく国民の多数派は「自衛隊は必要である。だが、戦前のように日本から外国に武力攻撃することには反対だ。また、海外の戦争・紛争に介入することにも反対だ。」という考えだっただろう。
だから、現時点から振り返れば、「個別的自衛権を行使する軍事力を保有すること」「日本から外国に先制攻撃をしないこと」「海外でおきた戦争・紛争には介入しないこと」、憲法9条をこのように改正しておけば、集団的自衛権の行使が違憲か合憲かをめぐって国会で議論が繰り返されるなどという不毛な状況は生じなかっただろう。
(国会で論じなければいけないのは、憲法を改正して集団的自衛権の行使を可能にすること、その方針転換にたいしての是非であるべきだった。)
ただ、改憲派(憲法9条改正派)の国会議員の多くは、自衛隊の役割を個別的自衛権の行使に限定した憲法改正案には反対だった。そのため、国民にたいしては、「憲法9条を改正して、外国と同様、普通に軍隊を持てる国にするか」「憲法9条を維持して自衛隊を廃止するか」という2つの選択肢しか示さなかった。
また、護憲派(9条改正反対派)の国会議員からも、前述のような憲法改正案(憲法9条を、「個別的自衛権を行使する軍事力を保有すること」「日本から外国に先制攻撃をしないこと」「海外でおきた戦争・紛争には介入しないこと」という内容に変える改正案)は提示されなかった。
そのため、結局、「憲法9条を改正せず自衛隊を廃止するか」「憲法9条を改正して、外国と同様に戦争ができる国になるか」という2つの選択肢しかないなかで、国民の多数派はどちらの選択肢も選ぶことはできず、政府は政策上の必要性から自衛隊を廃止するという選択をすることはできなかったため、憲法解釈によって自衛隊の存在を正当化させるという方針がとられることとなった。
湾岸戦争後、自衛隊を海外に派遣するべきかということが争点となったが、このときも、やはり「憲法9条を改正して、外国と同様に戦争ができる国になるか」「憲法9条改正に反対=自衛隊の海外派遣に反対か」、という2項対立で議論される状況が続いた。
戦後の日本では、軍事・防衛の問題(憲法9条と自衛隊をめぐる問題)に関しては、常に、憲法9条を改正すべきか、それに反対かといったテーマが真っ先にもちだされる。だが、この問題を議論するときに「憲法9条改正に賛成か反対か」という論点を最初にもちだしても、不毛な対立に終始するか、長い間、護憲派と改憲派がおこなってきたステレオタイプの議論を蒸し返すかという状況におちいってしまう。
軍事・防衛の問題に関しては、軍事政策の基本方針をどうするか、基本方針と憲法の関係をどうするか、といった点を最初に議論する必要がある。そして、軍事政策の基本方針と憲法の関係を論じる際には、統治行為論を認めるべきかという点がもっとも重要な争点となる。
だが、現実の政治においては、自衛隊設立後、それまでの「絶対平和主義」から「一国平和主義・専守防衛主義」へ、湾岸戦争後は「非武力行使型海外紛争介入主義」へと軍事政策の基本方針が変更されてきたが、その間、軍事政策の基本方針の転換(=憲法9条改正の是非)について主権者である国民の意思を問うことはなく、政府が必要だと考えた政策を統治行為論に基づいて(=憲法は無視して)実現してきたといえる。
統治行為論に反対する人たち、政府の軍事力の行使に対して憲法で制約をかけるべきと考えている人たち、護憲の立場にいる人たちこそが、(政府の軍事力の行使に対して)どのような制約をかけるべきかに関して、国民多数派の意思を集約して、それを憲法に反映させておくべきだった。自衛隊の存在を憲法解釈によって正当化したために、あるいはそれを許してしまったために、憲法解釈によって集団的自衛権の行使も正当化できるという口実を、改憲派にあたえてしまったといえる。
集団的自衛権の行使に関して違憲訴訟がおこされ、最高裁が統治行為論をもちだして集団的自衛権を容認すれば、最終的に統治行為論派の勝利が確定するかもしれない。
憲法を改正しなくても、憲法解釈によって集団的自衛権の行使が正当化できるとなれば、軍事政策の基本方針に関して国民の合意案を形成し、それを憲法に明示させようという主張を改憲派は受け入れないだろう。
この先、「国際環境が変化したので、国民の生命や財産を守るために、日本から外国に対して先制攻撃することは憲法違反ではない。」と憲法解釈を変更して、正当性のない戦争に突入しないことを願うばかりである。